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『どうする家康』感想あらすじレビュー第20回「岡崎クーデター」

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『どうする家康』感想あらすじレビュー第20回「岡崎クーデター」
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どうする千代

千代が出てくるだけで嫌になる。

ヘアメイクはわざとかと思うほど酷い。隠密のくせに、いつでも見れば一発でわかる姿をしているのはどういう狙いでしょうか。

こんなわけのわからん巫女が、武田家臣団の代表でよいのか。

いや、よいのでしょう。きっと、こんな論調の記事が出ますよ。

◆「どうする家康」第20回「岡崎クーデター」女性たちのたくましさを象徴する瀬名と千代の言葉

実際にこんな記事があったばかりです。

◆「どうする家康」第19回「お手付きしてどうする!」女性たちのたくましさを象徴するお万の言葉【大河ドラマコラム】(→link

 

どうする瀬名

瀬名にしても、なぜ千代の正体をわかったうえで出迎えますかね。

捕まえてとっとと切り捨ててください。

「お友達になりましょう」だのなんだの、あまりにバカバカしい。

もう一度言います。本気で殺し合う、そんな歴史劇を作る気概はありますか?

あんな怪しい敵の巫女とお友達宣言なんてしてりゃ、内通を疑われて死にますよ。

この瀬名は徹頭徹尾愚か。おじさんの脳内に生息する、昭和平成のギャルみたいな人物像とでも言いましょうか。

公共放送の制作費を使って、自らの萌えを発散する二次創作をされているようで、どうにも頭が痛くなります。

 

顰(ひそ)みに倣う

『荘子』にあるお話です。

中国四大美人の一人に、西施(せいし)という女性がいました。

彼女は胸が痛くなることがあり、その発作の時、眉をしかめ胸をおさえ、苦しそうな顔になりました。

「うわーっ、西施たん萌え〜〜〜!」

そう周囲が大騒ぎするため、それを知った他の女性も、眉をしかめてアピールします。

するとかえって「表情だけ真似してモテると思うとか、アホじゃないの」と笑いものになってしまうのでした。

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本作は、まさに安易に真似をする「顰みに倣う」を彷彿とさせます。

『おんな城主 直虎』が、今回の放映後、SNSで話題になっていました。今回の直政をみて、あの作品の直政を思い出す人がそれだけ多かったのでしょう。あれは確かに素晴らしかった。

そういう過去の大河による積み重ねがあるからこそ、本作はまだなんとか持っている。

制作陣は、その辺をどう考えているのか。

考えてみれば、ロゴからして危険でした。作り手が自分の個性を強く出そうとするエゴに満ちている。

ロゴだけじゃなく音楽、演出、照明、衣装、殺陣……何もかも「俺だ! 俺をみろ!」「俺が楽しけりゃいい! このセンスがわかるイケてる奴らがついてくればいい!」と主張してくるようで、だから作品全体としてのまとまりも感じられない。

「陰キャヲタまみれでジジババの娯楽w そんな硬直した大河に、型にハマらない斬新な感性で風穴を開ける!」

本作は、そんなノリも押し出したいようですが、何度も言いますように「型破りができるのは、まともな型を学んだ者だけ」です。

やたらめったら感性をアピールするのではなく、謙虚に学んだ証拠が欲しい。

どんなに才能があろうと、大河ドラマは一人の才能で成功するわけでもありません。

先行作品や積み重ね、視聴者の受け止め方もあって成立するわけで、そういう看板を背負っているという自覚や謙虚さがあるのかどうか?

大河は歴史を元にしていて、やたらとお約束もあります。

イマドキの視聴者はそんなこと気にしていないとして、過去のお約束をアタマから排除するということは、踏むべき手続きを無視するということ。

そんな調子であれば、どこかで破綻が生じます。

勝頼の長ラン陣羽織などは、まさにその破綻が具現化しているのでしょう。

だからこそスチル写真を見た瞬間、アルミホイルを噛み潰したような嫌な気分を味わう羽目になる。

怖いのは、こうした風潮が作り手だけでなく、一定の視聴者層にも伝播し、ネットを通じて拡散するところかもしれません。

大河通を自認して、自分の配信動画なり、ブログに誘導する層がいて

「古い大河をぶった斬ってやったww シン・大河は年寄りにはわからんしwww」

といった趣旨でSNSでも盛り上がり、深掘りだの読み解くだのなんだの、根拠なく語られる。

『麒麟がくる』の場合、漢籍や東洋思想で読み解くことができましたが、今回はそういうエビデンスがありません。

「子どものころに少年漫画やお笑いを楽しんで、ゲームでも遊んだ! そんなイケてるノリを失わない永遠の少年魂の持ち主なら、このドラマを楽しんで深読みできるはずwww」

そんなノリが振りかざされています。

これでは過去の大河ドラマに対しても、あまりに失礼ではありませんか。

ネットの動きはメディアにも拡散され、例えばこんな記事がありました。

◆眞栄田郷敦『どうする家康』初登場 “勝頼”『真田丸』とのギャップに反響「大河史上一番強そうな勝頼」「とんでもなくかっこいい」(→link

『真田丸』の勝頼と比べていますが、あの作品では第1回放送で武田が滅びます。

滅亡直前の勝頼と、今作のまだまだ元気な勝頼では、ギャップがあるに決まっているでしょう。

そんな当たり前の状況でも、無理にこじつけて記事にするのはいかがなものでしょう。

盛り上がっているように偽装できればよいのでしょうか?

以下の記事もそうです。

◆<どうする家康>“いかにも”な明智光秀が話題 裏の顔ありすぎ? 足利義昭への「手のひら返し」と漂う「小物感」(→link

かつて時代劇は「年寄りの娯楽」と小馬鹿にされてきました。

いかにもコテコテのメイクをした悪役が出てくる。見た瞬間に悪人とわかる。そういう作りが陳腐だと笑いものにされてきたのです。

そうして笑っていたかつての若者層が、いままさに同じ轍を踏み、『どうする家康』を作っているようだ。

あんなコテコテ顔の光秀は、まさしく陳腐を具現化したようなものでしょう。

一体なぜこんなことになってしまうのか。

というと、先行作品はじめ、先人のことを学ばないから、同じ過ちを繰り返すのでは?

大河だけではありません。歴史そのもの、あるいは江戸時代から積み上げてきた、戦国時代作品に対しても失礼だと思えます。

本当に自分たちが画期的なことをしていると言いたいのであれば、先行作品に一礼するくらいの謙虚さは欲しい。そんな度量を求めてはいけませんかね。

そりゃあ、先行作品や真面目な相手に対し、冷笑を繰り返すことは、ラクで気持ちがよいでしょうよ。

「このドラマを、面白くないとか視聴率低いと言う奴は情弱バカw このドラマは革新的、SNSと親和性が高いww 深掘りできるww 解像度の低い考察しか出来ないクズは黙ってろw」

そうやって冷たく笑い飛ばしている間は「自分は他人よりすごいんだww」というマウンティング幻想に満ちています。気持ちいい。

とはいえ、所詮は麻薬の類であり、何も成長はなく、せいぜい仲間内のエコーチェンバーで結束が強まるだけ。

結果、残されるのは逆張り冷笑が得意な人だけです。

何もインプットしていないから、アップデートもできない。果たしてそれでよいのでしょうか?

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