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【『どうする家康』感想あらすじレビュー第38回「唐入り」】
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どうする廊下で偶然出会う
駄作ドラマは偶然に頼る!そうじゃないと話が進まない!
そんな法則がありますが、本作で露骨に使われているのが
・廊下で偶然出会う
というシーンですね。
直近では、家康と三成が星を見上げて出会う場面は、あまりにバカバカしいご都合主義でした。
それに続き、今回は淀殿と家康が廊下で出くわすって、これは現代のオフィスドラマでしょうか。
もうどうしようもない淀殿
上目遣いで「母に似ている」という淀殿を見ていると、めまいがしてきましたね。悪い意味で。
ここから「ワタシって母にそっくりだからw」とわざとらしい誘惑をしてくる淀殿は紛れもなく、史上最悪です。
デッサンが狂ったような部屋にいる淀殿と家康。
家具もろくにないし狭いし、何か開発に失敗したアニメかゲームを彷彿とさせます。この部屋は何かすごく上位の場所のようですが、私には控えの間くらいにしか見えません。
それにしても見ているだけで苦痛を覚える場面でした。
淀殿が家康の手を握ってこれだ。
「まことの父はあなた様なのかもと」
「父上だと思ってお慕いてもようございますか? 茶々はあなたさまに守っていただきとうございます」
史実では、浅井長政の慰霊をするなど父思いだった淀殿に、どれだけ侮辱的なことを言わせるのでしょう。
第二子妊娠の父を家康だと匂わせているんだとしたら最低であり、吐き気がします。
この場面、大河ドラマ史上ワーストに入る可能性を感じます。
しかもここでチベットスナギツネみたいな顔をして、側室だと自称した阿茶が来るのは何なのか。側室という用語はこの時代に本人が使うものですかね。
俺を取り合う美女ども!
というオッサンの妄想ですよね。
考えれば考えるほど気持ち悪い。
「父だと思って慕う」とアリバイじみたことを言わせながら、家康の側室と張り合わせるということは、性的な含みを持たせているということでしょう。
初恋相手の娘が、その母親にそっくり!
その彼女が、母親と同じ顔で迫ってくる……って、どこの18禁作品ですか?
ギリギリの下劣な匂わせは、もう勘弁してください。
特にジャニーズ関連では、性的な匂わせの批判が、今まさに燃え盛っているじゃないですか。
◆ 変更は「ジャニーズ」だけ? 喜多川氏が“確信的”に名付けた「キンキ」「キスマイ」「セクゾ」にも嫌!の声(→link)
◆ジャニーズのタレントグッズに批判再燃「キモすぎ」「性的消費」「ほんとうに下品」と不快の声あいつぐ(→link)
大河ドラマでも、こういう下劣なことで話題をさらうことはしばしばありました。
最近の作品ですと、一例がこちら。
◆竹中直人の“キス死”は台本になかった! NHK大河「青天を衝け」人気を支える名優たちのアドリブ合戦(→link)
台本にないのに、いきなり性的な接触をするというのはハラスメントです。
実際に徳川斉昭の死がどんな状況だったか?(※暗殺説が流れるほど唐突に、トイレで頓死しています)
それを踏まえていれば、こんなアドリブをして、かつOKが出るわけもありません。
それなのに、バズればいいとばかりにやらかす現場。
褒めそやすメディア。
私には疑念しかありませんでした。
こういう下劣なお遊びはもう笑って許されないどころか、コンテンツの寿命を縮める可能性があるのです。
どうする女狐路線
秀吉の唐入りの理由は色々言われていますが「淀殿が女狐だった!」とは、たまげました。
意味がわかりません。
顔を突き合わせながら秀吉に凄むだけの家康も決定的にバカです。
なぜ理論だてて説明できないのか?
若い頃のお前は違った――そんな、オッサン同士の青春話で改心させようって、町内会の運動会じゃないんだから。
朝鮮半島に大軍を送って殺し合いをさせる、そんな酷い現実が行われているんですよ。
『麒麟がくる』の明智光秀や、『鎌倉殿の13人』の三浦義村とは説得力が大違いだ。
くどいけれど本作の制作陣は、『パリピ孔明』スタッフの爪の垢を煎じて飲ませてもらった方がいい。
どうする“マンモーニ”アピール
信長もなんだか教育虐待を受けていたようなことを言い出した。
秀吉もそう。母親の言葉がここで重なります。
とんだマンモーニ(ママっ子)だと『ジョジョの奇妙な冒険』だったらプロシュート兄貴にぶっ叩かれていそうっスねーーーッ!
こうした状況は、今まさにテレビ局の上層部にいる年代、エリート層の手癖なのでしょう。
本物の苦労なんて知らず、せいぜいが親に理解されなかったとか、受験勉強が大変だったとか、モテなかったとか、その程度の経験しかしていない。
そういう自分達の昭和後期平成のセンスだけで世の中を解釈して、歴史的な理解とか、世相とか、一顧だにせず生きてきた。
だから「そうだ、トラウマだ、親のせいにしちゃえ!」とやらかすんですね。付き合いきれまへん。
ライトノベルの売り上げが激減していると、先日知りました。
今どき、本物の若者はそんなもん読んでいない。買っているのは、20年前に若者だった層である。
そりゃそうでしょうね。悪役令嬢だの、転生だの、物語のフォーマットが2000年代を彷彿とさせます。
何の進歩もしないまま、自分たちは永遠に若いと勘違いし続けている。
そうやってアップデートを怠った結果放たれる、救い難い悪臭が漂っています。そんなコンテンツに本物の若者は魅力を感じませんよ。
どうしようもない“等身大”の像
本作は「等身大の徳川家康が斬新!」だそうです。
なんじゃそりゃ……と敢えて突っ込まず話を先へ進めますと、等身大とは今まさにテレビやメディアの上層部にいるエリートが考える等身大なのでしょう。
SNSアカウントでグラビアアイドルやエッチなイラストを共有し、暇さえあれば生意気な女叩きに勤しむ、頭の中は忖度とエロとゲスなことばかり。
そんなものが家康の等身大だなんて、一部世代の妄想だけだと気づいてください。それをNHKで1年間に渡って垂れ流し続けるなんて、本当に酷いものです。
先日放送終了した『らんまん』は、魅力的な自由民権運動家・早川逸馬という人物が出てきました。
あれは主人公と同世代、幕末生まれにとっては”等身大“の若者像である「壮士」です。
それが一世代あとまでくだると「青年」というアンニュイな若者像が等身大となる。夏目漱石の小説に出てくるような像になります。若者像とは時代ごとに異なるのです。
歴史が好きな製作者は、そういう当時の”等身大“を考えられる。
しかしこのドラマとその周辺は一切できない。自分の周囲しか好きじゃない。
自己弁護と正当化がしたいだけで、歴史のことなどどうでもいいのでしょう。
◆「神君」でも「たぬき親父」でもない等身大の“松平元康”。「戦場から離脱した大将」という描写をどう受け止めるべきなのか?【どうする家康 満喫リポート】1(→link)
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