麒麟がくる感想あらすじ

麒麟がくる第39回 感想あらすじ視聴率「本願寺を叩け」

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面倒事より夢の城が大事

人の欲望はコントロールしなければならない。

美味しいからとお菓子ばかりを食べて、野菜を残すようではよろしくない。嫌いでも食べなさい。そう言わねばなりませんし、大人になったら自分でそうしなければいけない。

「楽しければいいじゃん!」

そうはしゃぎ、自分が楽しむことを第一とし、イベントだのなんだのをやろうとする。そういう人物は、大河の中心に目指すべきロールモデルとして据えてはならないのでしょう。

本作の信長は、悪い例として聳え立っています。

あんなに大好きな十兵衛なのに、気遣うよりも自分のことを話すだけ。面倒だから大和のことはこれ以上考えない。

夢のような安土城を作る!

皆を喜ばせたいという思いを、そんな夢の城に託してはいるけれども、あまりに身勝手でしょう。

NHKの城をテーマにした番組では、信長と光秀の築城を比較していました。信長に対し、光秀は気遣いがあると。あの信長の安土城が、子どものドリームキャッスル扱いになっていておそろしいと思えてきました。

バチカンにも見せてやりたい、東の果てにも、こんな城を築く男がいるということを――そう吉川晃司さんが言い切る『MAGI』との落差に眩暈がしてきそうではある。

ただ、本作はこれで正解だと思うのです。

もう一点……日輪という言葉。秀吉の日輪を押し出すイメージ戦略は、信長の受け売りのようにも思えてくる。

大和守護に自分をプッシュする点といい、このイメージ戦略の借用といい。短い場面のようで、秀吉の底の浅さが見えてくるようではある。

これまた『MAGI』では、最新のグローバルヒストリーに基づく、スペイン・フェリペ2世との対比が描かれているというのに。これまたすごいことになってきた。

 

決して『MAGI』が素晴らしく、『麒麟がくる』がせせこましいということではありません。

『麒麟がくる』は、人の心、その機敏を、細工もののように扱う繊細な美しさがあります。これはこれで最新鋭の歴史の捉え方でしょう。

そしてこの演技です。前述しましたように、NHK『スタジオパーク』に、染谷将太さんが出ておりました。

VTRでは長谷川博己さんと佐々木蔵之介さんも出ておりました。佐々木さんを見て、京都ことばのさわやかなイケメンだと思いました。いや、本来それで正解なのです。

それがどうして、秀吉を演じていると、こうもいやらしくて、胸の奥から不快感が湧いてくるのだろう? 油断ならないと眉をしかめてしまうのだろう?

役者の素晴らしさ、恐ろしさを痛感させられます。

このあと、秀吉はシレッと信長に明智様とお話がしたいと言います。

しかも、話題は愚痴でした。殿が最近暴走気味だというのです。

愚痴だのゴシップは、人間関係をつなぐものともなります。よい話や噂以上に盛り上がる定番のネタと申しましょうか。

いくら技術が進化した現代だって、SNSはそういう使い方をされてますよね。

秀吉がこうしてユーモラスにボヤき、周囲を手懐ける手法も見えてきます。

ただ、光秀には通じない。不快そうな顔をして、ため息をつくばかりでした。

 


家康は薬酒を作り

さて、三英傑最後の一人は?

三河の駿河城で、薬酒を作る様が見えてきます。

お正月にお屠蘇を飲まれた方もおられるでしょう。あれはもともと『三国志』でもおなじみの名医・華佗が処方した薬酒。正月に一年の健康を願い飲んだ習慣です。

今なら屠蘇散(とそさん)を簡単に入手できますが、全部揃えるとなると面倒な薬の材料が入っています。現代では、せいぜい正月のお屠蘇、あるいは市販の養命酒くらいしかパッと出てきませんが、家康の頃は健康の基本。いわばエナジードリンクでした。

コロナが猛威を振るう中、アジアは欧米と比較してやや軽いとはされます。

方方『武漢日記』には、コロナによって東洋医学が息を吹き返したと語る人物について記述があります。

軽んじられがちな東洋医学ですが、実は何かあるのかもしれない。そこも考えつつ、医事考証をしている本作を見ていきたいところです。

ただ、味はどうかというと好みが分かれるところ。

調合も面倒。スタッフだって薬草や酒器の準備は大変でしょう。手抜きをしないよいドラマですね。

そういう面倒なものを日常的に飲んでいる家康は、一体どういう奴なのかということでもある。

信玄の死後、まだまだ手強い勝頼に目を光らせているからには、いつでも健康でいたいのでしょう。

言いたいことも、わかる。

良薬は口に苦けれども病に利あり。忠言は耳に逆らえども行いに利あり。

【意訳】よい薬は苦いけれども、効果あり。忠言は聞いていて嫌だけど、行動を修正してくれる。

何気ない場面ではあるのですが、興味深い。

敢えておいしくもない薬酒を飲む家康に対して、光秀の忠言を駄々っ子のように無視する信長は、何かが違うのですね。

 


冷え切った夫婦仲が浮き彫りに

そんな家康の側には、妻の築山殿がおりました。

長篠の戦以来、信長殿は三河を一顧だにしない。そう不満を見せています。

ただ、それを言うのならば家康も不満そうではある。

信長様は手がいくつあっても足りぬのだと彼女の申し出を一蹴します。

築山殿は鈍感なのか。夫の気持ちがわからない。

信長が比叡山を焼き討ちにし、本願寺を攻める神仏をもおそれぬ修行に恐れおののいています。

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その上で、そのご息女に松平信康も脚をすくわれねばよいと言い出す。

「もうよい」

家康の我慢も限界の模様です。

嫁姑のしょうもない争いの材料に信長を持ち出され、軽蔑と嫌気が頂点に達したのでしょうか。説得する気力もない。

だって、今はその信康と徳姫の間に子が生まれようとしているのだから。

ここでめでたく子が生まれたと、侍女が告げてきます。

姫君でした。ここで家康は母である徳姫を気遣います。それなのに築山殿は世継ぎはお預け、役に立たぬ嫁御だとチクリ。見舞いに行くと立ち上がります。

家康と築山殿は、仲が冷え切っているとわかる秀逸な場面でした。

理由は理解し合えないこと。

家康からすれば、信長との関係悪化につながるような嫁の扱いは困るのに、妻には通じない。妻に説得する気力すら湧いてこない。

この家康の不健全なところは、相手が状況を察知しない鈍感さに苛立っているばかりか、徹底して冷たいと思えるところ。以心伝心である光秀と煕子夫妻と比較してみると明らかですね。

 

頼りになるのは信長よりも光秀か

家康は、実はそんなに優しい性格でもない。

織田での人質時代、信勝は将棋相手として弱いと見下しているようなところすらありました。家康はあの時点である程度完成していたのです。

自分より鈍感であったり、愚かだと思った相手には冷たい。『おんな城主 直虎』における家康と築山殿の関係とは真逆の、冷たい破滅が見えてきます。

家康は前述の通り、幼い頃には彼の基礎ができていて、父・広忠の斬首という最悪の事態ですら、冷静に対処してしまいました。

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築山殿と信康が倒れたところで、淡々と対処する姿をあの頃から想像して、こわいものはあった。

ただ、それはそれでとても悲しい宿命だとは思えるのです。

どうして泣けない?

どうして悲しいと思えない?

そう心が震えるよりも、冷静に考えて利害を損ねない決断だと思えてしまう。

そんな自分の冷静さが時折どうしようもなく嫌になってくるかもしれない。愚かなほどに情熱的になって、誰かを心底愛したり、憎んだりしたいのに、それもできない。

そういう家康の心の機微を想像するのもまた一興です。

家康は立ち上がり、縁側に向かいこう言います。

「来ておるか」

そこには菊丸がいました。

京の様子を聞かれ、菊丸は大和の守護に筒井順慶がつくと告げます。

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その件で松永様の動きが気になる。御家来衆も譜代と新参で意気の違いがあるとも。そして家康はこう聞きます。

「して信長様は、今この徳川をどう見ておられる?」

「正直に申し上げても?」

「構わぬ」

今は三河のことなどお忘れではないかと。今は新たにお築きになる安土の城のことで頭が一杯のご様子……そう菊丸は報告します。

そして、信ずるに足るとすればやはり明智様とも告げるのです。

いろいろと謎は解けます。家康が築山殿の言葉に苛立った理由は、家康も薄々感じていることを彼女が突いてくるところにもあったのでしょう。

そして信玄の死を信長ではなく、内密に光秀へ知らせたことにも納得ができます。

「そうか、やはりな」

冷静に言う家康。彼のおそろしさ、聡明さ、冷たさよ。麒麟を呼び寄せるに足る者としての風格もそこにはある。信長、秀吉、そして光秀に足りないものもあるようです。

家康は盤面を見るように冷静に判断し、信長が一顧だにしないことも受け止める。

妻との間には理解がまったくない。信長家臣団の不穏な様子から、次に起こることを読み取ろうとしている。本作の三英傑は、三者三様に個性があり、全員おそろしいものがあります。

適材適所の役者を配置したということも、改めてわかります。

 


凄みを増していく家康像

家康は血も涙もないわけではありません。

母、祖母への愛。生まれてきた孫への喜び。そういうものはあるけれども、それを感じていない、あるいは軽蔑が混ざってしまう築山殿との落差がすさまじいものがあります。

自分にはちゃんと愛があると確かめるようなやさしい声音とまなざしを、孫の誕生を聞いて見せる。

けれども、そのすぐあとに「もうよい」と築山殿を嗜めるときは、ゾッとするほどの冷たさと軽蔑がある。

風間俊介さんが家康としてどんどん成長なさっている。

貫禄がつき、顔つきもふてぶてしくなり、声音も深みが出てきました。一目で聡明であるとわかる点は同じで、それがより一層深くなってゆく。

演じる彼のみならず、演じさせる現場も本気。衣装,結髪、演出、カメラワーク。何もかもが気合十分です。

斜めから横顔を撮ると、彼の鼻梁の線が綺麗に映える。そういうポイントをビシッと見せてくる撮影が素晴らしい。

東洋の時代劇となると、髭と結髪が課題だと思います。

現代風に前髪を落とすとか、髭を断固無視するとか。そういう『天地人』あたりの模索はもういらない。むしろ時代遅れで、それを続けると韓流と華流に食い尽くされて無惨なことになる。

それをNHKも見出したのか。

演者の骨格,顔の形、肌の色……そういうものを研究して、一番よい結髪や髭を決めていると思えます。

時代劇は若い役者が髭を伸ばす年代になることも課題なのでしょうが、風間さんは髭によって端正さを極めてしまったと思えます。

演じる側も、演じさせる側も、何もかもが計算を重ねた結果、すごい家康像ができあがってゆく。まさに芸術でしょう。

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