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織田家 その日、歴史が動いた 豊臣家

賤ヶ岳の戦いで勝利を手繰り寄せた秀吉の手腕 あの七本槍は活躍しちゃいない!?

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一般的に、「情に厚い人」といえばプラス、「計算高い人」といえばマイナスのイメージがありますよね。
しかし、ことビジネスや戦略に関してはプラスとマイナスが逆になることもままあります。
「肉親や旧知の仲だからといって甘く見た結果、自分が滅びた」とか「共倒れになって第三者が一番オイシイ思いをした」なんてのは古今東西、枚挙に暇がありません。
それが政治であり戦であり商売なわけですけども。

天正十一年(1583年)に起きた賤ヶ岳の戦いも、よくよく見ればそうした戦いの一つでした。
賤ヶ岳の戦いとは、賤ヶ岳だけで起こった戦だけでなく、ここ以外で起きた前哨戦を含めて呼ぶことが多いのですが、今回は賤ヶ岳での戦闘に決着がついた旧暦4月21日のこととしてお話させていただきます。
とはいえただ単に地名を増やしてもややこしいので、できるだけ省略してお話ししていきましょう。
……変換とか単語登録が面倒だからとかそんなんじゃないんだから! 勘違いしないでよね!(意味のない突然のツンデレ)

秀吉が最高に輝いていたあの頃の話(絵・富永商太)

秀吉が最高に輝いていたあの頃の話(絵・富永商太)

 

秀吉の三法師vs勝家の信孝 

話は本能寺の変直後に遡ります。

山崎の戦いでいち早く信長の仇を討った秀吉は、急激に織田家内での立場を強固にしました。

が、他の織田家重臣たちにとっては、成り上がり者にすぎない秀吉のこんな行動は面白くありません。
特に、遠方にいたとはいえ筆頭家老としての責任感と能力を持っていた柴田勝家は、歯噛みするどころの悔しさではなかったでしょう。

そんな中、「今後の織田家をどうするか」という会議が行われます。三谷幸喜さんの舞台にもなった「清洲会議」ですね。
ここで秀吉は「血統の順からいって、織田信忠(信長長男)様のご子息・三法師様に家督を継いでいただき、我々が守り立てよう」と言いました。
一方、勝家は「血統も大事だが、三法師様はまだ幼い。ここは年長の信孝(信長三男)様に継いでいただき、三法師様が成長されてから改めて考えてはどうか」という意見でした。

その後、歴史の表舞台にはほとんど現れない三法師(織田秀信・1580-1605年)/wikipediaより引用

その後、歴史の表舞台にはほとんど現れない三法師(織田秀信・1580-1605年)/wikipediaより引用

 

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格別な思い入れのある長浜城をアッサリ譲る 

どちらも戦国の世にはよくある話で、間違ってはいません。そしてどちらにも違ったデメリットがありました。
幼君を守り立てるには家臣や親族に相当の団結力がなくてはならず、はたまた別の系統に当主を変えてまた戻す、というのもなかなか至難の業です。

最終的に他の重臣たちが、「信孝様は一度他家へ養子に行かれているので、秀吉殿の言う通りにするのが良いだろう」と言ったことで、ここでも勝家は秀吉に後れをとるような形になってしまいました。

一応、秀吉は勝家に気を使ってか、なだめるためか、このとき行われた領地の再分配で「ワタシは山城(京都)をいただくので、今までいた長浜(現・滋賀県)とその周辺を勝家殿に差し上げましょう。もちろん、越前も勝家殿のものです」と言っており、これはきちんと実現しております。
秀吉にとって、長浜城は初めて手に入れた城。しかも当時「今浜」と呼ばれていたのを、信長の「長」の字をもらって改名した場所でした。
勝家もその辺の事情は知っていたでしょうから、一度は溜飲を下げたことにしてくれたようです。

とはいえ、秀吉という人は目的のためにはある程度の思い入れや記念といった私情をバッサリ切り捨てるところがありますので、このときも9割方計算してのことだったでしょう。そのくらいの計算高さがなければ、あんな出世の仕方はできませんしね。

その点、勝家は信長の元に身を寄せていた宣教師ルイス・フロイスからも「勇猛な武将だが、温情ある人柄である」と記録されているので、しばしば計算よりも人情で物事を判断する傾向があったようです。
言ってしまえば、この時点で既に勝敗は決していたのかもしれません。

現在は模擬天守のたっている長浜城/photo by k n@flicker

現在は模擬天守の建っている長浜城/photo by k n@flicker

 

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秀吉が真っ先に攻め込んだのは他ならぬ長浜城 

その後それぞれの領地に戻った秀吉と勝家は、周辺地域の大名や他の織田家臣たちを自分になびかせようと動き始めます。ここでも秀吉に対する「信長の仇討ちを成功させた」という評価は揺るがず、形勢は秀吉に有利になっていきました。

さらに何回かの小競り合い(物理)が起き、秀吉がいつまでも平穏なままで済ませるつもりがないことが徐々に明らかに……。
そして清洲会議から約半年後、秀吉はついに本格的に動き始めました。なんと、勝家に譲った長浜城を攻めたのです。

元が自分の城ですから、どこが攻めやすいかなんて重々承知の上だったことは間違いありません。むしろ、開戦時の足がかりを作るために譲ったのでしょう。きたないなさすが(後の)太閤きたない。

ここは勝家の養子・勝豊が守っていましたが、秀吉の攻め口にあっけなく降伏してしまいました。勝豊は日頃から他の養子と比べて冷遇されていたため、あまり粘る気がなかったのかもしれません。ホント日頃の行いは大事ですわー。

折しも季節は冬。北陸にいる勝家がすぐには動けないことまで十分に計算し尽くしての行動でした。

 

絶妙のタイミングで前田利家が戦線を離れる 

しかし、勝家も黙って春を待っていたわけではありません。
まだ雪解けが終わりきらないうちから兵を出し、両者は直接ぶつかり合います。
一ヶ月ほどは一進一退という状況でしたが、ここにきてまたしても秀吉と勝家それぞれの違いが明らかになりました。

勝家方はいわば織田家の重臣たちの連合ですから、明確な上下関係がありません。多少顔を立てたり先輩後輩のような意識はあったでしょうが、「勝家に絶対従わなくてはならない」という感覚は薄かったでしょう。そのためか、度々勝家の命令に従わず、独自の判断をする軍もありました。

一方、秀吉方の中核や要所を押さえていたのは、秀吉自身の家臣たちです。黒田官兵衛やいわゆる「賤ヶ岳の七本槍」ですね。
つまり、指揮系統がどれだけ徹底されていたかという点において、秀吉は勝家よりも勝っていたということになります。

こういった状況下で、勝家方についていた前田利家が突如戦線を離脱するという嬉しくないサプライズが起きます。

利家の戦線離脱については、明確な記録はありません。

「勝家とは主従関係だったが、秀吉とは旧友であり、どちらとも袂を分かちがたかったから」という話もありますが、もしかすると、このタイミングで感情に走ったことを利家自身が認めたくなかったのかもしれませんね。

経緯はともかく、これによって前田軍へ当たっていた秀吉方の軍が一気に勝家本陣へ押し寄せました。こうなると最早反撃=討死も同然です。

勝家は迎撃を諦め、本拠にしていた北ノ庄城へ退却、賤ヶ岳の戦いは秀吉方の勝利となりました。
そして同時に、これから織田家の趨勢を決めるのが秀吉だということも明らかになったのです。

賤ヶ岳の戦い合戦図/wikipediaより引用

賤ヶ岳の戦い合戦図/wikipediaより引用

 

七本槍の「七」とは単なる語呂合わせだった!? 

ところで、講談や後世の創作でよく出てくる「七本槍」については、本人たちにとってあまり歓迎されない呼び方だったようです。
というのも、他にも手柄を立てた人の名前が何人も記録されており、「七」というのは単なる語呂合わせだからだそうで。具体的には、石田三成や大谷吉継などが功を上げたといわれています。

筆頭とされる福島正則加藤清正ですら「七本槍」の話は嫌がったそうですから、本当にただのあだ名に近いものだったのでしょう。

後に石田三成たちと袂を分かつ加藤清正/wikipediaより引用

後に石田三成たちと袂を分かつ加藤清正/wikipediaより引用

 

本人たちからすれば「名前なんてどうでもいいから、もっと武功そのものを見てくれよ」と思っていたでしょうね。そりゃそうだ。

現代でいえば、”「なでしこジャパンってすごいね!」とだけ褒めそやして、個々の選手や実際のプレイについては何も触れない”みたいなもんでしょうか。
例えがビミョー? サーセン(´・ω・`)

しかし、知れば知るほど秀吉の用意周到さというか賢さがわかる一方で、戦乱の世で人情を持ち出すことがどれだけ危ういかということがわかってきますね。

神がかった勢いで天下を制覇した秀吉ですら、晩年はああなのですから。ホント因果は巡るというか何というか。

長月 七紀・記

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TOP画像&参考:賤ヶ岳の戦い/wikipedia

 

 





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