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エドワード7世/wikipediaより引用

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イギリス その日、歴史が動いた

各国との友好に努めた英国王エドワード7世 母ヴィクトリア女王に振り回され続けた生涯

更新日:

夜空の星を見上げたとき、目につくのはハデで明るいものですよね。
冬の星座ではおうし座のアルデバラン、オリオン座のベテルギウスなどがパッと思いつくでしょうか。一年中見える北極星などもありますね。

しかし、夜空にあるのはそうしたデカい星だけではありません。星座だって、一等星が一つだけでは成り立ちません。
組織や国家も同じで、誰もが知っている一等星のような存在もあれば、それほどの光はなくとも、重要な位置やエピソードを持っている人もいます。
今回はそんな感じの、陰に隠れた功労者ともいえる地味~な君主のお話です。

1841年(日本では江戸時代・天保十二年)11月9日は、イギリス国王エドワード7世が誕生した日です。

現在のイギリス国王・エリザベス2世からすると、曽祖父にあたります。日本人からすると“今上陛下にとっての明治天皇”という感じでしょうか。日英同盟を結んだ時期も、両国の君主はこの二人でしたし。
では、早速見て参りましょう。

 

厳格すぎる教育方針で育てられ

エドワード7世は、かの有名なヴィクトリア女王と王配アルバートの長男です。
生まれて一ヶ月後には「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を授かり、母が亡くなって即位するまでの59年間その名で呼ばれました。これは2016年現在でも最長記録となっています。
ただし、このままいくと2017年には現在のプリンス・オブ・ウェールズであるチャールズ皇太子(ホントは王太子)が追い越すことになるようで。エリザベス2世がとってもお元気ですから、かなりの確率で記録を更新するでしょうね。

さて、ヴィクトリア女王の時代はいろいろな点でイギリス史に残っていますが、非常に貞操観念が厳しいことでも有名でした。
当コーナーでも何回か引き合いに出していますけれども、「家具の脚は性的なことを連想するから、カバーを付けないとダメ!!」なんて価値観がまかり通っていたほどで。これもまた何度でも書きますが、家具でそういうことを連想するほうがおかしい(断言)

そんな時代に王室で生まれたのですから、当然エドワード7世も厳格に育てられています。
この時代の王族によくあることで、学校に通わず、主に両親から教育を受けたことも、厳しさに拍車をかけました。

特に父であるアルバートは、息子に対し厳しく接していたといいます。他の子供たちにもいえますが、女王の子供が王位についた場合、基本的には王朝が変わることになります。そういうときは他国との関係が一層緊張しやすく、一歩の間違いが命取りになりかねません。
おそらく、アルバートはそういう視点で教育方針を決めたのでしょう。アルバートは戦乱に揉まれてきたドイツ出身ですから、外交関係の大切さが身にしみていたと思われます。

エドワード7世は、乳母のリトルトン男爵夫人にはよく懐いていたようですし、弟が生まれてからは「弟のお手本になるんだ!」と気合を入れて勉強していたそうなので、悪いことばかりとも限りませんでしたが。
しかし、エドワード7世が英・独・仏語のトリリンガルになるほど勉強しても、両親はあまり褒めてくれなかったようです。姉のヴィクトリアがプロイセンのフリードリヒ3世に嫁いでいってからは、「手元にいる中での長子」として、ますます厳しい目が向けられるようになったといいます。
頑張っても認めてもらえない、扱いが変わらないどころか厳しくなるというのでは、あまり前向きな気持ちにはなれませんよね……。

 

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ナポレオン3世に「あなたの息子に生まれたかった」と……

11歳のときから外交にも出るようになり、初めは大叔父にあたるベルギーのレオポルド1世、次は両親とともにフランス皇帝ナポレオン3世を訪ねました。
ナポレオン3世にはこのときまだ息子がいなかったので、エドワード7世を我が子のように可愛がったといわれています。エドワード7世自身が「あなたの息子に生まれたかった」とボヤくほどだったそうですから、よほどの歓迎ぶりだったのでしょう。
同時に、普段どれほど堅苦しい生活を強いられていたかがうかがえます。

18歳のときにはローマに留学し、ときの教皇とも会見しました。しかし、数カ月後にイタリア統一戦争が始まったため、予定よりも早く帰国しています。
その後オックスフォード大学に入学、勉学を続けながらカナダやアメリカの各地を訪問しました。

両親にはあまり評価されていなかった様子ですが、エドワード7世は一般人からの人気は絶大で、北米でも大いに歓迎されています。
ただ、在学中にアチコチで色恋沙汰やよからぬ遊びを覚えてしまったため、両親の頭痛の種ともなりました。前者はともかく、後者は現代の若者でもよくある話ですね。

息子を厳格に育ててきた自負を持っていたであろう父・アルバートは、このニュースがよほどショックだったようで、病身をおして直接説教をしにやってきています。
しかも、そのせいでアルバートは危篤に陥り、ヴィクトリア女王からの視線はますます厳しいものとなりました。
「アンタが出来損ないだから、私の愛する夫がこんなめに遭っているのよ!」というわけですね。
……あなた方の教育が変に厳しすぎたのが原因で「出来損ない」になったんでは?という思いも湧き上がってきちゃいます。理想を持つのは結構なことですが、現実に即して手段を変えていかないと、それこそ親のエゴになってしまいますよね。

オックスフォード在学中のエドワード/wikipediaより引用

オックスフォード在学中のエドワード/wikipediaより引用

 

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プロイセンとの戦争で国際会議を提唱する

エドワード7世は父の危篤を知ってすぐに駆けつけ、なんとか死に目に会うことができました。
亡くなる間際、息子の顔を見て安堵したらしき表情になった……といわれています。もしかしたら、厳しくあたり続けたことを後悔して、「あの子は私を看取りに来てくれないかもしれない」と思っていたのかもしれません。

アルバートの死後、ヴィクトリア女王はエドワード7世のお目付け役として、フランシス・ノウルズという貴族をつけました(2人は非常にウマが合い、後々まで信頼し合う仲となります)。

当時「ヴィクトリア女王一家は理想的な家庭」として喧伝され、イギリスの家族の見本とされていたのですが、こうしてみると、やっぱり子育てには失敗してるんじゃないか……という気もしますね。

すったもんだの末、エドワード7世は無事に大学を卒業。となれば、将来の国王としてはすぐにも家庭を作り、子供をもうけなくてはなりません。
卒業の翌年、22歳でデンマーク王女・アレクサンドラと結婚しました。在学中にお見合いをしていたので、スムーズに話が進んだものと思われます。
両親との関係はともかく、在学中の交友関係といい、人付き合いに長けた人だったんでしょう。

それは、家庭内では子供に恵まれるという形で現れ、外交関係を作っていく上でも大きな武器となりました。
妻の実家であるデンマークと、ドイツで台頭してきていたプロイセンが戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)になったとき、エドワード7世は「国際会議を開いて、デンマークの権益を守ろう」と呼びかけました。

これは母や閣僚の多くに反対されながらも、国際会議を開くところまでこぎつけています。とはいえ、話し合いでは何も決着がつかない荒っぽい時代のこと。結局、平和的な解決はできず、デンマークはドイツ北部に持っていた権益を奪われてしまいました。

 

ロシアをはじめギリシャやトルコ、エジプトなどと関係改善

これによって妻・アレクサンドラは、プロイセンやその後のドイツを恨むようになり、エドワード7世も同調するように。エドワード7世にもドイツ系の血が入っていますが、アルバートの出身はドイツの別の国だったので、プロイセンとは縁がないのも一因でしょう。

そして当時、もう一つイギリスとの関係が緊張していた国がありました。ロシアです。
クリミア戦争でイギリスがオスマン帝国側についたことや、主に中国における植民地争いが原因で両国は仲違いをしていたのですが、この頃アレクサンドラの妹であるマリー・ダウマーがロシアの第二皇子に嫁ぐことが決まり、にわかに状況が変わって参ります。
エドワード7世にとっては、義妹を通じてロシアによしみができたわけです。

単純に祝いたいという気持ちと、打算のどちらが強かったのかまではわかりませんけれども、エドワード7世はヴィクトリア女王の反対を押し切り、義妹の結婚式に参列。
ときの首相エドワード・スミス=スタンリーがロシアとの関係改善に積極的だったこと、ロシア側でも同じ方針を取りたいと考えていたことがうまく働いたようです。
花婿の父であるロシア皇帝・アレクサンドル2世が駅まで出迎えたほどですから、ロシアの喜びようがわかるというものですね。現代でだって、国家元首が居所を出て迎えるというのはよほどの歓迎でしょう。

その後もエドワード7世は、ロシアだけでなくギリシャやトルコ、エジプトなど他国との関係改善に大きな役割を果たしています。
だいたいどの国のときも、最初はヴィクトリア女王に反対されていました。
しかし、エドワード7世はそのたびに「それなら、こうしましょう」と代案を出して、了解を取り付けています。訪問先でも大歓迎され、イギリスの印象が大いに良くなりました。

人付き合いを重視していたからこそ、国内の反対よりも他国との友好を取り付けることに目が行き、実現するためにどうしたらいいか、ということをよく考えていたのでしょう。

 

30歳で父と同じ腸チフスにかかって生死をさまよい……

これだけ頭が回るようになったのなら、母親としては息子の成長を喜ぶべきところですが、結局ヴィクトリア女王は死ぬまでエドワード7世を認めてやらなかったようなフシがあります。

エドワード7世がただの友人だったとある貴族の夫人との不倫を疑われて、国内での評判が下がってしまったことも、原因の一つだったかもしれません。
とはいえ、ヴィクトリア女王自身も、アルバートの死後はほとんど公の場に出ておらず、「もう王室なんていらない」とまでいわれるようになってしましたので、あまり人のことは言えない気がするのですが。

ときの首相ウィリアム・グラッドストンは、この頃書いた手紙の中で、「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」と嘆いています。現在のイギリス王室が基本的に人気の高いことを考えると信じられない話ですが、当時の閣僚はさぞ頭の痛かったことでしょうね。

しかし、ここで「怪我の功名」とでも呼ぶべき自体が起こります。

アルバートが亡くなってちょうど10年後、エドワード7世が30歳のとき、父と同じ腸チフスにかかってしまったのです。
一時は危篤状態に陥り、世論も女王も皇太子の病状を心配しました。
そしてアルバートの命日である12月14日、エドワード7世は奇跡的に意識を取り戻します。
その後も順調に回復していくと、「まるで、アルバートが息子を救ったようだ」と評され、イギリス中が歓喜に沸きました。

グラッドストンはこれを好機と見て、セント・ポール大聖堂で「皇太子回復感謝礼拝」と題した大規模な礼拝を執り行います。民衆からは「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という歓声がかけられ、一気に王室の人気が復活。まるでマンガや小説のような話ですが、こうなると本当にアルバートが妻や息子を助けに来たような感じがしますね。

 

インドへ公式訪問 ここでも関係改善に務める

病気から立ち直った後、エドワード7世はより温厚になり、かつては恨んでいたプロイセンやビスマルクにも友好的になりました。
ウィーン万博ではプロイセン王ヴィルヘルム1世にも話しかけ、親交を育もうと努力しています。

ロシアとの関係改善にも引き続き努めました。
すぐ下の弟であるエディンバラ公アルフレッドが、ロシア皇帝の娘マリアと結婚することになったとき、エドワード7世は再びロシアを訪問しています。
エドワードの二度目にわたる厚情に対し、ロシア側も「全皇族による出迎え」という異例の歓迎ぶりで応えています。おそらく、英露両国の関係が最も友好的になったのがこのときでしょうね。

35歳のときには、英領になっていたインドへの公式訪問も行いました。
皇太子である自分が公式に訪れ、インドの王侯に勲章を配ることで、関係改善に努めようという狙いです。
やっぱりヴィクトリア女王には反対されましたが、首相のベンジャミン・ディズレーリも味方についてくれ、実現しました。

インドでは勲章授与やインド軍の閲兵など、仕事をきちんと行うかたわらで、狩りなども楽しんでいます。輿をつけた象に乗っている写真もありますし、割と本気で楽しんでいた様子が窺えます。
ただその後、議会でヴィクトリア女王のインド女帝即位が決まったことについては、あまり好ましく思っていなかったようです。自身の即位後も“インド皇帝”の称号はほとんど使っていません。

エドワード7世は、その後もフランス・ロシア・プロイセンとの友好に努め、訪問や支援にも積極的に行いました。
しかしその一方で、賭け事に端を発する裁判の当事者ともなっており、再び厳しく批判されます。ニューヨーク・タイムズでは「イギリス王室は国のお荷物」とまでいわれてしまいました。
よその王族をこき下ろすなんて、趣味の良い話ではありませんけどね。

像に乗ったエドワード/wikipediaより引用

像に乗ったエドワード/wikipediaより引用

 

57歳で初めて母に真っ向から反抗!

またその頃、結婚間近だった長男アルバート・ヴィクターを亡くすなど、私的な不幸にも遭っています。
嫁になるはずだったドイツのヴュルテンベルク王女・メアリーはそのまま「娘」として扱いました。世論もメアリーに同情し、彼女は次男のヨーク公ジョージと結婚することになります。
翌年には初孫となるエドワード(後のエドワード8世・「王冠を賭けた恋」の人)が生まれているので、せめてもの慰めになったでしょうか。

57歳のとき、エドワード7世は母に対して初めて真っ向から反対しました。
今までは対立するたびに、周囲の協力も得て説得し、和解してから行動をすることをにしていたのですが、このときはそれがありませんでした。

何がきっかけだったのかというと、このときまで4回首相を務めたことがある、グラッドストンの葬儀です。
グラッドストンはヴィクトリア女王と不仲で、エドワード7世には同情していたので、何かと味方になってくれていました。彼にとっては恩人なわけです。
しかし、ヴィクトリア女王は、グラッドストン夫人に弔電を打つ以上のことをしたがりませんでした。気分屋といわれ続けた彼女らしいといえばらしい話ですけれども、「王族が功臣の国葬に関与しない」というのも大問題。
エドワード7世もそのように考え、独断で次男のヨーク公ジョージと共に、棺の介添人を務めています。

この一件は「晩餐会に遅刻したとき、母に睨まれただけで震え上がった」ことさえあったエドワード7世にとって、初めての反抗とも呼ぶべき出来事でした。
父であるアルバートとは最後の最後に和解できたと思われますが、存命中の母はいつまでも彼の恐怖の対象だったのです。
「いつまで子供なんだよ」とツッコミたくなった方もおられるでしょうけれども、あの家康でさえ、関が原のためにアレコレやっていた頃、母である於大の方の意向を完全には無視できませんでした。
どこの国でも「母は強し」なんですね。いろんな意味で。

とはいえ、やはり肉親の死は堪えるものです。

1901年、エドワード7世が60歳になる年にヴィクトリア女王が亡くなりました。そのとき、彼は涙を流しながら枕辺に侍り、女王もまた最期に「バーティ」と息子を愛称で呼んだそうです。
素直になれないだけで、親子の愛はとても深かったのでしょうかね。

 

異教徒には授与しないガーター勲章を明治天皇

母の死の翌日、エドワード7世は即位しました。
本当は彼の名前は「アルバート・エドワード」でしたので、「アルバート1世」を名乗ってもおかしくはありません。
あえてそうしなかったのは、「イギリスで“アルバート”といったら、誰もが父のことを思い出すようにしたい」という彼自身の意志によるものでした。泣ける。

“エドワード”という名の王様は、イギリスでは350年ぶりだったといいます。
即位した歳が歳なので、エドワード7世の治世は9年ほど。内政や戦争ではうまくいかないことも多く、亡くなるまで解決しなかった問題もありました。
しかし、外交では皇太子時代から育んできたロシアやフランスとの友好的関係を維持することに務め、議会が険悪な方向に向かいはじめたときは、直ちに行動して路線を戻しています。
前述の通り、彼は昔から他国をよく訪問し、そのたびに歓迎を受けていたので、親戚である王族たちだけでなく、他国の一般国民にも良い印象を持っていたのでしょう。

とはいえ、私的な感情に振り回されることはありませんでした。ドッガーバンク事件(過去記事:バルチック艦隊がヘタこいた~! 日露戦争の趨勢に影響を与えたドッガーバンク事件とは?)や日露戦争の際には、甥っ子であるニコライ2世に肉親の情を挟まず、冷静に対応しています。

かつて伊藤博文が訪英した際、英語で直接話ができたこともあり、同盟中の日本にも好印象を持っていたようです。
本来は異教徒に授与しないガーター勲章を、明治天皇にはあっさり贈ったのもその現れでしょう。授与にはエドワード7世の弟であるコノート公アーサーが訪日しており、日本側は答礼として大名行列を催したとか。
……既に「侍」がいなくなった後の話だと考えると、何とも微妙な気持ちになりますけれども。

ちなみに、非キリスト教徒でガーター勲章を代々授与されているのは日本の天皇だけだそうです。今上陛下も授与されています。
これが日英同盟時代以来のこと、そして現在の両国君主にとっての曽祖父からのことと考えると、王室・皇室外交の重要性がわかりますね。とはいえ、民主主義が進むにつれて、王室・皇室外交の影響力は弱まっていくのですが……。

教科書や通史を取り扱う本で、王族・皇族の記述が減っていくのも、このあたりからですね。だからこそ関連人物が多くなり、覚えにくくわかりにくくなるのかもしれません。

エドワード7世は1910年に気管支炎で亡くなりました。最後の言葉は「私は絶対に病には屈さない。最後まで仕事を続けるぞ」というものだったそうです。
緊張に向かう一方の内政や外交関係などについて、やり残したことがまだまだたくさんあると思っていたのでしょう。

その懸念は四年後、第一次世界大戦という最悪の形で現れることになります。

長月 七紀・記

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参考:エドワード7世_(イギリス王)/wikipedia

 





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