蒙古襲来絵詞/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

元寇(文永の役・弘安の役)のすべて~本当に「神風」は吹いたのか?

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鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を百道原まで追撃

その後、麁原(そはら)から出てきた元軍と竹崎季長らの戦闘が鳥飼潟で始まります。

季長は一番槍にこだわり、郎党の藤源太資光による諫言を振り切って突撃。
本人と数名が傷を負ってしまいます。

麁原元寇古戦場跡の詳細が福岡市経済観光文化局サイトに掲載されています

そこへ肥前の御家人・白石通泰が、100騎前後を率いて元軍に突撃をキメました。
これがよほどの勢いだったのか、元軍は麁原山へ引き上げています。

他に、やはり肥前の御家人・福田兼重や豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)が鳥飼潟で戦ったとされています。

季長が一番有名なのは、やはり絵詞の影響が大きかったようで。
彼は後々、自分の武功を認めてもらうために、鎌倉まで言って幕府のお偉いさんに掛け合ったほどです。なんかイイですねw

鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を、日本軍は百道原まで追撃しました。
上記の福田兼重もその一人で、元軍と矢を撃ち合って鎧の胸板や草摺(腰回り)に三本も矢を受けたといいます。
漫画でよく出てくる落ち武者状態というか、よく生きていたもんですね。

元(=モンゴル)などのユーラシア大陸中部で使われていた弓(短弓)は、日本の弓より貫通力が低かったとされているので、そのためかもしれません。

菊池神社に伝わる蒙古弓と蒙古矢/photo by 震天動地 wikipediaより引用

ちなみに、日本の弓矢は世界的に見てもデカくて矢の貫通力がヤバイとされています。
だからこそ、日本の合戦では「流れ矢で戦死した」という記述がちらほら出てくるわけです。

元が弓の威力を重視しなかったのは、平原ばかりという国土のために、弓の材料になる木材が貴重だった(=炊事や燃料へ優先に使った)ということかもしれません。

他に兵器として著名な弓としては、イングランドのロングボウがありますね。
ロングボウは習熟が難しいものの、速射性が高く、集団戦で大きな効果を発揮しました。

もしも元が東欧で侵攻を止めず、ヨーロッパを横断してイングランドと戦うことになっていたら……多分、ドーバー海峡を渡る途中でロングボウの一斉射撃を受けたでしょう。

【参考】13世紀頃、イングランドがウェールズに侵攻した際にウェールズ弓兵は侵略者にたいしてこの武器を用いて重い損害を与えた。その被害者であったイングランドは、ウェールズ公国の併合後、この強力な武器を素早く自軍に取り入れた。(ウィキペディアより)

 

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そもそも文永の役で神風は吹いてない?

百道原では、他にも豊後の御家人・日田永基らが奮戦したといわれています。

また、元軍の指揮官の一人・劉復亨と思われる人物が日本軍の矢を受けて重症を負ったという記録があります。
これが10月20日頃のことで、元軍が“謎の撤退”をしたのが翌10月21日の朝でした。

……つまり、文永の役における元軍の撤退は、「指揮官の負傷」という至極当然な理由だった可能性が高くなるわけです。

元寇に限らず、日本では国難の際に寺社での祈祷が複数回行われていたのですが……日本軍のボロ負けっぷりと“神風”を強調しているのは、そうした寺社の記録が多いという点も見逃せません。

穿った見方をすれば、寺社の聖職者たちが
「私達が一生懸命神仏にお祈りを捧げたから、この国は守られたんだ! 野蛮な武士なんていらない!」
そんな主張のために“神風”という伝説が生まれたのかもしれません。

もしくは、後述する【弘安の役】での暴風雨の記録が、時系列を遡って「文永の役でもあった」と混同されてしまったのでしょうか。
まあ、現代で神風が有名なのは、第二次世界大戦中に軍と政府が誇張したから……というのも大きいのですけれども。

ちなみに元の記録では【文永の役】の記述が少なく、高麗の記録では「劉復亨が負傷して船へ退避し、その夜の軍議で大陸への撤退が決まった」とされています。

何はともあれ、時系列を進めましょう。

こうして撤退が決まった元軍。
当時の船舶事情では、博多→高麗に行くために
「南風の吹く晴天・日中」
でなければなりません。

しかし、この条件が整うのはなかなか難しい。
いわゆる「日和待ち」のために一ヶ月かかることも珍しくなかったのです。

むろん、元がそんな気候のことを知る由もありません。
高麗兵は知っていたかもしれませんが、献言したかどうかアヤシイですね。

結果、元軍は夜間の渡航を決行し、多くの船が高波か風に翻弄され、崖に激突して沈んでしまったのだとか。

 

仲悪く、船酔いを起こしたまま戦いへ

上記の通り、元軍の撤退は旧暦10月下旬です。
新暦だと11月下旬となりますね。
現代でも冬型の気圧配置になり始める季節です。

大陸からの冷たい風と、南から来る海流の水蒸気が、玄界灘を流れる対馬海流に乗って東北地方まで運ばれ、豪雪になる……というのが、冬の日本海の基本的な天候。

となると、元軍が撤退を決めた理由は、
「指揮官の負傷」
撤退が失敗した理由は
「初冬の玄界灘の気象条件」というところが現実的かと。

もしこれが正しければ、
「寒波で水夫がバタバタ倒れてしまい、船を操れる人間が減って崖に激突」
というのもありえるでしょうか。

ほぼ完全に内陸国の元人が、船の扱いに長けていたとは考えにくいですし。
日本人の捕虜をとったのに、船出の条件を尋ねたりしなかったんかい……とツッコミたいところですね。通訳がいなかったんでしょうか。

出立の際も相当慌てていたのか、始めから見殺しにしたのか、130~220人ほどの元兵が日本に取り残され、捕らえられたといいます。

また、ズタボロになった元の船の残骸が約150隻分も対馬・壱岐・九州沿岸に流れ着いたとか。
「神風が吹いて、元軍をやっつけてくれたんだ」という話が広く信じられるのも無理ないことですね。

文永の役における元軍の撤退については、他にも以下のような理由があると考えられています。

1.元の日本侵攻軍は【元と高麗の兵】で構成されており、指揮官の意思疎通が不確かだった
2.上がそんなんなので、現場での連携もできない
3.高麗の民衆を馬車馬のごとく働かせて船を造らせたため、粗雑な作りの船ばかりだった
4.元の将も兵も海に不慣れで、体調不良を起こしていた者が少なからずいた

一行でまとめると
“お偉いさんも下っ端も皆仲が悪い上、船酔いを起こしたまま戦っていた”
という感じでしょうか。

結果、11月下旬に元軍が朝鮮半島へ帰還したとき、すっかり戦意がガタ落ち。

「たとえ風がなかったとしても、日本は広すぎるし兵が多すぎる。
万が一苦戦したときに増援を頼もうにも、すぐに海を渡ることはできない」

「高麗では元の命令に応じ、既に多くの男を兵として徴用し、失ってしまったので、農村では働き手が足りなくなっている。
天候も悪く、草や木の実で飢えをしのいでいる者も少なくない。
もし、“もう一度日本に攻めよ”と言われても、高麗はその負担に耐えられない」

と、すっかり厭戦ムードが漂っておりました。

……広さでいうなら大陸のほうが果てしないだろう、というツッコミは野暮ってものでしょうか。
まあ、当時は「日本がどのくらいの大きさの島なのか」ということを正確に知っている人はいなかったでしょうし、後者はもっともなことですが。

 

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「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」

大宰府からの知らせが鎌倉に届いたのは、元軍が撤退した後でした。

理由は単純。当時は飛脚でも12~13日かかる距離だったからです。
江戸時代になると江戸~京都間の飛脚は3~4日で到着したそうですから、交通事情の差がうかがえますね。

当時の武士の心境を現代的に推測すると、
「国家レベルの軍事危機を、中央省庁の指図なしに現場が対応して乗り切った」
という感じでしょうか。

これでは、武士の間で
「なんだよ! 幕府なんてなくても俺たちやっていけんじゃん!」
「こっちは指示もないまま頑張ったんだから、褒美をたんまりくださいよ!」
という考えが主流になるのも当然のことです。

案外、恩賞に関する恨みよりも、こういった自信のほうが討幕の遠因だったかもしれませんね。

ついでにいうと、鎌倉への使者を追いかけるような形で、11月初旬には勝報を伝える使者が京都にたどり着いていました。
つまり、鎌倉では勝ったことはわからず、「元がいよいよ攻めてきてヤバイ」という認識です。
そのため、各地の地頭や御家人などに動員令を発していたのです。タイミング悪し。

文永の役では120人ほどに何らかの褒美が与えられましたが、それは武士たちの期待からすれば微々たるものでした。
例を挙げると、竹崎季長は文永の役までは領地を持っていなかったのですが、自らの戦功を訴えた結果、執権・時宗によって北条氏一門の土地を少しだけ削るカタチで与えられています。

何はともあれ、こうして文永の役をやり過ごした鎌倉幕府

しかし多くの者が
「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」(超訳)
と考えていました。

「勝って兜の緒を締めよ」という言葉がありますが、この場合、勝った!とは言い難いですもんね。

 

九州防備のため元寇防塁が築かれた

またいつ攻めて来るかわからない。
そのため文永の役翌年から三年ほどかけて、九州の防備が固められました。

元寇の防塁跡

かの有名な【元寇防塁】も、その一つです。

博多湾岸に築かれた約20kmもの長さの築地(ついじ・“つきじ”ではありません)で、最も強固な部分は高さ3m×幅2m以上あったとか。

元寇防塁断面図

当時の日本人からすると、身長の倍の高さに近い壁を延々と海岸に作ったわけです。
モンゴル人・高麗人・南宋人の高さは不明ですが、現代の平均身長は日本人とさほど変わりませんので、その頃も大差ないでしょう。

建治元年四月には、またしても元の使者がやってきましたが、執権・北条時宗により処刑。ここでも確固たる拒否を示します。
使者の遺書に書かれた詩が実に泣けるので、何とも言えない気持ちにもなるのですが……。

また、一時は
「元を迎え撃つのではなく、いっそこちらから海を渡って、高麗を攻めてはどうか」
という案も出されたようです。

どっちかというと高麗は被害者というか、無理やり付き合わされてるほうなんですが……当時の日本から見れば「敵の協力者=敵」ですからね。

しかし、防塁の建設が急ピッチで進められ、建治二年8月には完成の目処も立っていたので、やはり防衛戦を選ぶことになりました。

建治元年の末には、異国警固強化のためとして、十一ヵ国の守護が交替されています。
そのうち八ヵ国の守護に、北条氏一門が就任。
同時に六波羅探題の権限や、交通も整備されました。

「侵攻に備えて」という面が大きかったのは事実です。
しかし、御家人たちからすると、恩賞がもらえるかどうかもわからない状態だったこともまた事実。
となると、はるか遠くで威張っている北条氏の権力だけが強まり続け、いつ来るかもはっきりしない元軍へ備えていた……ということになります。

これでは、元寇が終わる前から不満が溜まって当然です。

まぁ、組織の最高責任者の縁者が現場近くに来る、というのは悪い話じゃないのですが……いかんせん過去に北条氏がやってきたことが強引すぎました。

 

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第二ラウンド【弘安の役】スタート!

国内に不穏な空気を残しつつ、御家人たちは防塁建設や警固任務をこなす日々。
大陸ではいよいよ南宋が元に滅ぼされました。

これによって二正面作戦というデメリットを克服した元は、ついに全力で日本を攻めることにします。

弘安四年(1281年)5月。
元寇、第二ラウンド【弘安の役】スタート!

まずは元軍の動きや構成を確認しておきましょう。

弘安の役における元軍は、大きく分けて二つに組織されておりました。

一つは、モンゴル兵3万と高麗兵1万の計4万からなる「東路軍」。
もう一つは、旧南宋地域から集めた10万の「江南軍」です。
(兵数については諸説あります)

ぶっちゃけ、世界史上でも稀に見る大軍です。
よって戦う前から「今回ばかりは楽勝っしょwww」(※イメージです)と考えていた者もいたようで、高麗の僧侶がそんな感じの漢詩を詠んでいます。
そんな調子だからやで(´・ω・`)

元寇防塁

東路軍は、高麗で建造した900艘の船で5月に、江南軍は慶元(寧波・ニンポー)や舟山島付近から6月に出港しました。

当初は6月15日に壱岐で合流し、それから大宰府を攻める計画だったようですが、平戸島に変更されています。
もしかすると、これも日本側にとって有利に働いたかもしれません。

東路軍は前回と同じく、対馬と壱岐を襲撃した後、6月初頭に博多湾へ臨みました。
一部は道に(海に?)迷ったのか、本州・長門に上陸していたとか。

案の定記録が少なく、詳細がわからないのがもどかしいところです。
山口県萩市に、元軍が船の錨に用いていたとされる石があるので、本当に迷ってた可能性も低くはなさそうですね。
操船、ヘタかよ。

しかも東路軍は、壱岐に向かう途中の暴風雨で、兵士と水夫合わせて150名もの行方不明者を出しています。
ここで嵐に対する警戒心が生まれていたら、その後の経過は全く違ったかもしれません。

 

東路軍へフェイク情報を流した!?

東路軍は、対馬で捕らえた一般人から
「日本はお前たちの侵攻に備えていて、既に大宰府周辺から移動を開始している」
と聞いていたそうです。

「しめしめ、それなら一気に大宰府を襲ってやろう。
江南軍のヤツらなんか待たなくたって、俺達だけで勝ってやるさ」

東路軍はそう考え、江南軍を待たずに上陸することを決めます。
続々とフラグがととのって参りました。

一応クビライにはお伺いを立てていたようです。
ただその割に、肝心の江南軍に向けて連絡してなさそうなのがヌケ作です。

東路軍は上記の通りモンゴル兵=勝者が多く、江南軍は旧南宋兵=敗者がほとんどだったからこそ、見下していたのかもしれません。
だから、そうやってナメてかかるから……いや、日本にとってはありがたいことですけど。

こうして「来た、見た、勝った!」ばりの楽勝ムードで博多湾に襲来した東路軍は、そこで腰を抜かすことになります。

眼前の浜辺には、ズラッと並ぶ防塁(身長より高い)&武士! 武士! 武士!

生の松原地区元寇防塁

さぞかし彼らは、
「(つд⊂)ゴシゴシ」
「(;・3・)あるぇー?」
「((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル」
こんな顔になったことでしょう。

こうなると事前に東路軍へフェイク情報を流した一般人は『只者ではないのでは?』と思ってしまいます。




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彼(仮)は、ただ単に東路軍への嫌がらせでデマカセを言っただけかもしれませんが、その後の影響を考えると「名もなき英雄」と呼んでも差し支えないかも。
この経緯だと、東路軍の兵から「おいテメェ、話が違うじゃねーか!!」とブッコロされていそうで……。
( ̄人 ̄)

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