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【元寇】
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数をアテにしようにも 江南軍は現れず
こうして、日本軍の優勢で始まった弘安の役。
志賀島の確保は厳しいと考えた東路軍は、壱岐まで退いて江南郡の到着を待つことにします。
上記の通り、江南軍は東路軍の倍以上の数でしたから、数をアテにしようというわけです。
しかし……。
約束の6月15日になっても、江南軍は現れません。実は病気が流行っており、司令官交代というアクシデントが起きていたのです。
こうなると出港も遅らせざるを得ず、6月15日に間に合わなかったのでした。
江南軍は大所帯だったため、いくつかの部隊に分かれて渡航しながら、出立日が判明するのは一つだけ。それが6月18日のことです。
東路軍と江南軍が合流したのがいつだったのかも、ハッキリしていません。
日本側に「6月24日に、南宋で作られていたタイプの船が対馬にやってきた」という記録があるので、おそらくこれが江南軍でしょう。
しかし、江南軍は壱岐に向かわず、平戸島や鷹島に展開。
どちらの島でも急ごしらえながらに防塁を築き、陣を構えて日本軍を待ち受けました。
6月29日、日本軍が総攻撃をしかけます。
ターゲットは壱岐島の東路軍。
この時点での双方の兵数はわかりませんが、日本軍も数万規模だったそうなので、数の上ではおそらく互角に近かったと思われます。
壱岐での激戦は7月2日まで繰り広げられました。
ここで活躍した御家人には、島津長久・比志島時範・龍造寺家清などがいます。戦国時代でもお馴染みの一族が、続々と出てきますね。
このタイミングで東路軍は「江南軍が平戸島に到着した」という知らせを受け取りました。
となると壱岐で踏ん張る意味も薄れます。
そのため壱岐を放棄し、江南軍との合流を目指して移動。
日本軍としては追撃したかったでしょうけれども、御家人の大勢の死傷者が出ていたこともあり、ここでは踏み止まりました。
日本軍が日中から攻め込み、夜明けまで戦闘が続く
当初の予定から1ヶ月ほど遅れた7月中旬。平戸島・鷹島周辺で東路軍と江南軍が合流しました。
増援の存在を知った日本軍は尻込みしたりせず、早速、鷹島に乗り込んで戦闘スタートとなります。
【鷹島沖海戦】とも呼ばれていますが、日本側の記録がないため、詳細はわかっていません。
元の記録によると「日本軍が日中から攻め込んできて、夜明けまで戦闘が続いた」とのことです。鎌倉武士タフ過ぎ。
まぁ、全員が、最初から最後まで戦っていたのではなく、途中で部隊単位での交代ぐらいはしていたでしょう。
元軍からしたら「いつ攻撃が止むんだ……」と思えたでしょうね。
とはいえ、いつまでも攻められっぱなしというわけにもいきません。
元軍も攻勢に転じ、当初の予定通り大宰府へ進軍しようと考えていました。しかし鷹島周辺での潮の満ち引きが激しく、船を出せないまま時が過ぎていきます。
この時間で日本軍は、休息と増援の到着を待つことができました。
実はこの頃、六波羅探題から宇都宮貞綱率いる大軍が来る予定になっていたのです。
貞綱は、後の戦国大名・宇都宮氏のご先祖にあたります。途中で女系になったり養子が入ったりしていますが。
幕府も「向こうも大所帯みたいだし、そろそろメシが足りなくなる頃だろう」と考え、九州・中国地方の荘園から兵糧を徴収するため、朝廷に協力を申し込んでいます。
幸い、これらの増援と兵糧が役立つことはありませんでした。
今度こそ、本物の暴風雨がやってきたからです。
ついにやってきた暴風雨
この年の7月末~閏7月1日にかけて、大型台風と思われる嵐が元軍を襲いました。
それまで規模の小さな嵐を体験していたため、「雨風なら待っていればすぐに止むだろう」と軽く見ていたのでしょう。
何本フラグ立てるの?(´・ω・`)
元の記録によれば、荒波によって船同士が激突して沈んでしまい、溺死する者が大半だったとか。
お偉いさんの中にも「板切れにしがみついて何とか助かった」という人が何人かいたようなので、一般兵は……うん……。
唯一心温まる(?)話としては、東路軍のとあるお偉いさんが漂流していた兵400人前後を救助し、彼らに厚く信頼された、というものがあります。
また、平戸島や鷹島付近にいなかった部隊や、予め船の感覚を空けていた部隊には、あまり台風の被害がなかったとか。
後者については、江南軍のある部隊の話です。
元々、「江南」とは長江の南側の地域を指しますし、この地域は現代でも台風が度々通りますから、この部隊の指揮官が台風対策を熟知していたのかもしれません。
しかし、全体的には東路軍より江南軍のほうが被害が大きかったようなので、何とも判断に困るところです。
理由としては「東路軍が使っていた(高麗で作らせた)船のほうが、江南軍のものよりずっと頑丈だったから」だとか。鷹島付近の海底から見つかった遺物からも、これは裏付けられています。
こうした結果を受け、さすがに元軍の中でも
「もう帰ったほうがいいんじゃね?」
という意見が強まってきます。
一方で、
「どうせ帰れないのなら、やれるだけやってやろう!」
と半ば以上ヤケクソになる者もいました。
最終的に江南軍の総司令官が
「お咎めがあれば私が受けるから、撤退しよう」
と実に男前なことを言い、撤退が決まります。
中には、自分たちが助かるために、一般の兵を船から引きずり下ろし置き去りにしていった将校もいたそうですが……。
撤退した元軍は、その後どうなったん?
閏7月5日、【御厨海上合戦】が起きています。
撤退していく元軍の船を、竹崎季長らが追撃したのです
ここでも船に乗り移って首を挙げたり、取っ組み合いの末に元兵もろとも海に落ちてしまったりといった、白兵戦を展開。
鷹島に置き去りにされた元の兵士たちは、木を切り、自分たちで船を作って撤退しようと考えます。
根性は要りますが、なにせ10万前後の兵がいたので、不可能ではないと考えたのでしょう。
しかし、それを日本軍が見逃すはずもありませんでした。
日本軍は閏7月7日に「鷹島掃討戦」と呼ばれる総攻撃をかけ、元兵を討ち取るわ、生け捕るわ、船を焼き払うわの凄まじい状況。
ここだけ見ると残酷なようですが、おそらくこれは「文永の役や弘安の役の緒戦で【対馬・壱岐】の復讐」という面もあったことでしょう。もちろん恩賞目当ての者も。
いずれにせよ元寇における戦闘は終わります。
こうなると、撤退した元軍はどうなるか。気になりません?
「命あっての物種」とはいいますが、本国でも問題が山積みでした。
クビライの親戚であるナヤン・カダアンをはじめとした身内の相次ぐ反乱と、陳朝大越国(現在のベトナムにあった国)及び、その付近にあったチャンパ王国と、元との関係が悪化していたのです。
ザックリ言うと
「南宋を倒して日本討伐に集中できると思ったら、ボロクソに負けた。
しかも命からがら帰ってきたら、身内と外に敵が増えていた。
な、何を言っているのか(ry」
みたいな感じでしょうか。
クビライは弘安の役の後もしばらく日本討伐を諦めていなかったのですが、ここまで戦争が積み重なると辟易し、
「日本からこっちを攻めてきたことはないんだから、今は別の問題を解決するべき」
として、一時、日本討伐をやめています。もっと早く気付けYO!
まあ、他の問題が片付いてからまた使者を送ってきてるんですけれども。
琉球(沖縄)や樺太には出兵していたようですし、クビライは最期まで日本討伐を諦めていなかったっぽいです。
それ、ただ単に格下だとナメていた相手に二回も失敗して、意固地になってただけなんじゃ……(´・ω・`)
まだまだ元軍はやってくる!かもしれない
カンベンして欲しいのは、元の圧力に付き合わされるほうです。
例えば高麗では、急ピッチで造船を行ったため、木材を採るための森林がハゲ山になってしまったといいます。
元々、朝鮮半島の土壌は花崗岩が多くて栄養が少なく、植林がしにくい土地柄。
そんなところで短期間に乱伐を繰り返していたら、植林を倍以上のスピードでやったとしても追いつきません。
また、元の侵攻方針にも問題がありました。
乱暴な話ですが、大陸であれば物資が足りなくなれば攻め込んだ先で略奪すればいいですし、略奪がうまく行かなければ、援軍を待って踏み潰せばうまくいきます。
しかし、そもそも渡航にすら手こずるような場所で、同じ方針は使えません。
元は文永の役のとき、そこに気づかず、弘安の役でも同じことをしました。
戦争に勝つセオリーとして有名なのは「天の時、地の利、人の和」ですが、それと同じくらいに「補給線の維持」は絶対条件です。
まぁ、この辺は後世にもあっちこっちの国や軍がやらかしていますが……過去を知るって本当に大切なことですね。
一方、日本側は、文永の役から急ピッチで防御と統率・士気を高めて防戦にあたったことが功を奏しました。
士気の維持ができなければ、追撃まではしなかったでしょう。
ただ、対馬や壱岐の防備は大差なかったようで。最初から捨て石にするつもりだったのかもしれませんね……。
それならそれで、島民や武士を一時的に本土へ引き上げさせてもいい気がしますけれども、この時代ですから人道的な意識は希薄だった可能性が否めません。
いずれにせよ当時の状況では「元寇\(^o^)/オワタ!」で安心はできません。
現に元は……コホン……その後も服従を迫る文書を送ってきているのです。懲りない連中やなぁ。
そのため幕府も気を緩める訳に行かず、九州の警備は続けられました。
蒙古襲来絵詞は幕府に功績を認めさせるため?
さて、元寇といえば鎌倉幕府が倒れる遠因となったことでも有名ですね。
北条氏としても、これほどの苦難に立ち向かった人々に対し、完全なタダ働きというのは気が咎めたようです。
しかし、あまりにも恩賞を与える対象が多すぎたこと、現地の状況が幕府中枢に全て報告されたわけではないことから、実際に恩賞を得たのはごく一部でした。
蒙古襲来絵詞を描かせた竹崎季長はその中で最も有名な人ですね。
この絵巻物自体は、季長が自分の子孫に戦功を語り継ぐために作られました。
が、その中に「恩賞をもらうために季長は鎌倉に行き、幕府の重鎮に功績を訴えました」という場面があるため、現在では「季長は幕府に功績を訴えるために絵を描かせた」とされるほうが多いですね。
また、この絵巻物の詞書(説明書き部分・いわゆるキャプション)は、季長が手がけたと考えられており、当時の武士の話し言葉などがわかる貴重な史料になっています。
興味深いのは、季長の身分でしょう。
実は季長、文永の役が終わり、やっとこさ地頭になれたという人でした。
つまり上級武士ではなく、その階層の者が【読み書き】をできるようになっていたという点も、文化の進歩が伺えます。
「記録によって自分の戦果を後世に伝える」という発想が出てきたことも、地方武士が為政者として成長していた証左となるでしょう。
季長が直接会って戦功を伝えたのは、幕府の重鎮・安達泰盛でした。
泰盛は季長の話に感じ入り、執権・北条時宗にそのまま伝えたと思われます。時宗はその後、季長を北条氏の領地の一つだった海東郷の地頭に任じました。
これを「時宗が誠実だったから報いた」と見るか、「季長のような勇敢な武士に背かれることを防ぐための懐柔策」と見るかは人それぞれ。
季長は絵詞の中で、自分が負傷した=落ち度があったことをそのまま描かせるような、素直な人物だったことが影響しているかもしれません。
普通、自分の戦功を誇るならば、手落ちがあったことを隠したり、討ち取った数を盛りまくったりするものです。
しかし、季長はそうはしていません。
そこが泰盛や時宗の心を打った……というのは、綺麗に想像しすぎですかね。
元寇が終わってから30年以上も待たされた
季長の他にも恩賞を得た者はおり、九州各地の所領が与えられています。
中には陸奥の土地を得た者もいたそうですから、幕府としても、できるかぎりのことをしようとしたのでしょうか。
しかし、それは元寇が終わってから徳治二年(1307年)までという、非常に長い年月のかかったものでもありまして。
仮に文永の役で戦った御家人からすると、30年以上も待たされたことになります。
当時の寿命からして、当人は鬼籍に入っていた可能性が高く、全員が恩賞を得られたわけでもありません。そりゃあ幕府への不満も溜まるでしょう。
ともすれば、元寇とは
「北条時宗の時代に神風が吹いて、追い返しました! 終わり!」
みたいに流されてしまうことが多いですが、一つ一つ見ていくと、後世の戦争の勝敗にも通じる部分が多々あって興味深いところです。
鎌倉時代の基本史料とされる「吾妻鏡」が元寇の前の時代に終わってしまっており、他の記録が公家の日記や祈祷をしていた寺社のものしかないので、かっ飛ばさざるをえないところもあるのですが。
最近では『アンゴルモア』(→amazon)というマンガも出てきたので、興味のある方は読むとより面白いかもしれません。
元寇の最前線だった対馬を巡る戦いを描いた作品あり、テーマが元寇というだけでも珍しいですが、対馬というところが実にハラハラしますね。
Kindle版ならすぐにスマホで読めますよ(→amazon)。
上記の通り、元寇は事の重大さの割に、日本側の史料が少ない出来事です。
今後も新しい記録が見つかって、あっと驚くような事実がわかるのかもしれません。
それはそれで歴史の楽しみの一つですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「文永・弘安の役」
呉座勇一『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―(新潮選書)』(→amazon)
元寇/wikipedia