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【元寇】
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「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」
大宰府からの知らせが鎌倉に届いたのは、元軍が撤退した後でした。
理由は単純。当時は飛脚でも12~13日かかる距離だったからです。
江戸時代になると江戸~京都間の飛脚は3~4日で到着したそうですから、交通事情の差がうかがえますね。
当時の武士の心境を現代的に推測すると、「国家レベルの軍事危機を、中央省庁の指図なしに現場が対応して乗り切った」という感じでしょうか。
これでは、武士の間で
「なんだよ! 幕府なんてなくても俺たちやっていけんじゃん!」
「こっちは指示もないまま頑張ったんだから、褒美をたんまりくださいよ!」
という考えが主流になるのも当然のことです。
案外、恩賞に関する恨みよりも、こういった自信のほうが討幕の遠因だったかもしれませんね。
ついでにいうと、鎌倉への使者を追いかけるような形で、11月初旬には勝報を伝える使者が京都にたどり着いていました。
つまり、鎌倉では勝ったことはわからず、「元がいよいよ攻めてきてヤバイ」という認識です。
そのため、各地の地頭や御家人などに動員令を発していたのです。タイミング悪し。
文永の役では120人ほどに何らかの褒美が与えられましたが、それは武士たちの期待からすれば微々たるものでした。
例を挙げると、竹崎季長は文永の役までは領地を持っていなかったのですが、自らの戦功を訴えた結果、執権・時宗によって北条氏一門の土地を少しだけ削るカタチで与えられています。
何はともあれ、こうして文永の役をやり過ごした鎌倉幕府。
しかし多くの者が
「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」(超訳)
と考えていました。
「勝って兜の緒を締めよ」という言葉がありますが、この場合、勝った!とは言い難いですもんね。
九州防備のため元寇防塁が築かれた
またいつ攻めて来るかわからない。
そのため文永の役翌年から三年ほどかけて、九州の防備が固められました。
かの有名な【元寇防塁】も、その一つです。
博多湾岸に築かれた約20kmもの長さの築地(ついじ・“つきじ”ではありません)で、最も強固な部分は高さ3m×幅2m以上あったとか。
当時の日本人からすると、身長の倍の高さに近い壁を延々と海岸に作ったわけです。
モンゴル人・高麗人・南宋人の高さは不明ですが、現代の平均身長は日本人とさほど変わりませんので、その頃も大差ないでしょう。
建治元年四月には、またしても元の使者がやってきましたが、執権・北条時宗により処刑。ここでも確固たる拒否を示します。
使者の遺書に書かれた詩が実に泣けるので、何とも言えない気持ちにもなるのですが……。
また、一時は「元を迎え撃つのではなく、いっそこちらから海を渡って、高麗を攻めてはどうか」という案も出されたようです。
どっちかというと高麗は被害者というか、無理やり付き合わされてるほうなんですが……当時の日本から見れば「敵の協力者=敵」ですからね。
しかし、防塁の建設が急ピッチで進められ、建治二年8月には完成の目処も立っていたので、やはり防衛戦を選ぶことになりました。
建治元年の末には、異国警固強化のためとして、十一ヵ国の守護が交替されています。
そのうち八ヵ国の守護に、北条氏一門が就任。同時に六波羅探題の権限や、交通も整備されました。
「侵攻に備えて」という面が大きかったのは事実です。
しかし、御家人たちからすると、恩賞がもらえるかどうかもわからない状態だったこともまた事実。
となると、はるか遠くで威張っている北条氏の権力だけが強まり続け、いつ来るかもはっきりしない元軍へ備えていた……ということになります。
これでは、元寇が終わる前から不満が溜まって当然です。
まぁ、組織の最高責任者の縁者が現場近くに来る、というのは悪い話じゃないのですが……いかんせん過去に北条氏がやってきたことが強引すぎました。
第二ラウンド【弘安の役】スタート!
国内に不穏な空気を残しつつ、御家人たちは防塁建設や警固任務をこなす日々。
大陸ではいよいよ南宋が元に滅ぼされました。
これによって二正面作戦というデメリットを克服した元は、ついに全力で日本を攻めることにします。
弘安四年(1281年)5月。
元寇、第二ラウンド【弘安の役】スタート!
まずは元軍の動きや構成を確認しておきましょう。
弘安の役における元軍は、大きく分けて二つに組織されておりました。
一つは、モンゴル兵3万と高麗兵1万の計4万からなる「東路軍」。
もう一つは、旧南宋地域から集めた10万の「江南軍」です。
※兵数については諸説あります
世界史上でも稀に見る大軍ではないでしょうか。
よって戦う前から「今回ばかりは楽勝っしょwww」(※イメージです)と考えていた者もいたようで、高麗の僧侶がそんな感じの漢詩を詠んでいます。
いや、そんな調子だからやで(´・ω・`)
東路軍は、高麗で建造した900艘の船で5月に、江南軍は慶元(寧波・ニンポー)や舟山島付近から6月に出港しました。
当初は6月15日に壱岐で合流し、それから大宰府を攻める計画だったようですが、平戸島に変更されています。
もしかすると、これも日本側にとって有利に働いたかもしれません。
東路軍は前回と同じく、対馬と壱岐を襲撃した後、6月初頭に博多湾へ臨みました。
一部は道に(海に?)迷ったのか、本州・長門に上陸していたとか。案の定記録が少なく、詳細がわからないのがもどかしいところです。
山口県萩市に、元軍が船の錨に用いていたとされる石があるので、本当に迷ってた可能性も低くはなさそうですね。操船、ヘタかよ。
しかも東路軍は、壱岐に向かう途中の暴風雨で、兵士と水夫合わせて150名もの行方不明者を出しています。
ここで嵐に対する警戒心が生まれていたら、その後の経過は全く違ったかもしれません。
東路軍へフェイク情報を流した!?
東路軍は、対馬で捕らえた一般人から
「日本はお前たちの侵攻に備えていて、既に大宰府周辺から移動を開始している」
と聞いていたそうです。
「しめしめ、それなら一気に大宰府を襲ってやろう。江南軍のヤツらなんか待たなくたって、俺達だけで勝ってやるさ」
東路軍はそう考え、江南軍を待たずに上陸することを決めます。
続々とフラグがととのって参りました。
一応クビライにはお伺いを立てていたようです。ただその割に、肝心の江南軍に向けて連絡してなさそうなのがヌケ作です。
東路軍は上記の通りモンゴル兵=勝者が多く、江南軍は旧南宋兵=敗者がほとんどだったからこそ、見下していたのかもしれません。
だから、そうやってナメてかかるから……いや、日本にとってはありがたいことですけど。
こうして「来た、見た、勝った!」ばりの楽勝ムードで博多湾に襲来した東路軍は、そこで腰を抜かすことになります。
眼前の浜辺には、ズラッと並ぶ防塁(身長より高い)。
そして……
武士!
武士!
武士!
さぞかし彼らは、驚いた表情になったことでしょう。
こうなると事前に東路軍へフェイク情報を流した一般人は『只者ではないのでは?』と思ってしまいます。
彼(仮)は、ただ単に東路軍への嫌がらせでデマカセを言っただけかもしれませんが、その後の影響を考えると「名もなき英雄」と呼んでも差し支えないかも。
この経緯だと、東路軍の兵から「おいテメェ、話が違うじゃねーか!!」とブッコロされていそうで……。
九州とは道で繋がっている陸繋島の志賀島
東路軍の襲来に対し、御家人たちはそれぞれ自分が築いた防塁の前後で奮戦することになります。
防塁は敵の侵入を防ぐためのものですから、普通は防塁越しに矢を射かけるなどの攻撃方法を取るはずです。
が、ここでもやはり、御家人たちの脳裏に「恩賞」がチラつきます。
そのため、中には防塁から躍り出て戦おうとした者もいました。
何のための防塁なの?とツッコミたいところですが、それだけ必死だったということ。
一方、東路軍は
「これじゃあ上陸もできない。一回引き上げて仕切り直しだ!」
と考え、他の上陸地点を探します。
そして、博多湾の北側にある志賀島を拠点にしようとしました。
「島」ではありますが、九州とは道で繋がっている陸繋島なので、多少マシに思えたのでしょう。
ちなみに志賀島は文永の役でうまく渡航できなかった元の兵がとっ捕まり、処刑された場所でもあります。
たぶん知らなかったのでしょうけれども、因果を感じてしまいますね。
敵船に斬り込み、将校を生け捕る
東路軍は志賀島を拠点として攻め続けようとしました。
が、逆に日本軍の夜襲を受け、ほぼ防戦一方。
軍というのは大所帯なだけに、内部の雰囲気が外部に伝わりやすいもので、このときの東路軍は、博多湾での肩透かしが尾を引き、前回の元軍と比べて及び腰だったのでしょう。
日本軍からすれば、前回の苦戦や恨みを晴らす絶好の機会に思えたに違いありません。
となれば、士気はガンガン上がります。
例えば、海路から東路軍に襲いかかった伊予の御家人・河野通有(こうの みちあり)は、矢傷を受けながらも敵の船に斬り込み、将校を生け捕りにしたとか。
周囲の兵は何してたんですかね。全員を討ち取った――とは伝わっていないので、逃げ惑ったのでしょうか。
もちろん日本軍もダメージはあり、350人ほどの死傷者が出ます。
それ以上に東路軍の被害は大きなものでした。
一時は東路軍の元帥(トップ)である洪茶丘が討ち死に寸前だったといいますから、一般の兵やそれ以下の将軍はいわずもがな。
河野通有の他にも、またもや竹崎季長や福田兼重などが奮戦しました。
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