2022年9月8日、エリザベス女王(エリザベス2世)が静かに息を引き取りました。
実に96歳。
跡取りは長男のチャールズ皇太子であり、国王に即位しましたが、彼女の喪失は英国民にとって非常に大きなものだったでしょう。
国民に慕われながら、巨大な大英帝国の終焉を見守った女王として、在位は70年にも及びました。
では、その治世は如何なるものだったか?
日本人にはあまり馴染みがない若き頃の活躍も含め、エリザベス女王2世の生涯をたどってみましょう。

祖父・ジョージ5世に可愛がられ
1926年4月21日深夜、イギリス・ロンドンで一人の女児が誕生――。
ヨーク公アルバートと妻エリザベスの長女はエリザベス・アレキサンドラ・メアリと名づけられ、家族からは愛称の“リリベット”と呼ばれました。
彼女はまさしくイギリスの歴史を背負って生まれてきた存在と言えます。
「こんなにも幼いのに、気品と威厳があるとは……」
当時2歳のエリザベスと接したチャーチルは驚いたとされ、幼稚園児にあたる1932年からはマリオン・クロフォードというガヴァネス(女性家庭教師)がつけられ、英才教育を仕込まれました。
威風堂々たるイギリスのプリンセスとしての人生は、かくして始まったのです。
特に幼いリリベットを可愛がったのは、祖父・ジョージ5世でした。イギリス史上最多の犠牲者を出した第一次世界大戦時の英国王です。
そんな王の二男“バーティ”ことヨーク公アルバート王子は、海軍士官でもありました。
K級潜水艦の事故で危うい目にあったこともあります。
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母・エリザベスは、スコットランド貴族ストラスモア伯爵家の孫。大戦中、彼女は病院として開放された親族の伯爵家で、第一次世界大戦戦傷者の治療に携りました。
夫妻ともに第一次世界大戦を目撃していたのです。
そんなウインザー朝の王子と、スチュアート朝につながるスコットランド貴族の血を引く貴族令嬢の結婚は、連合王国の血による結びつきと言えました。
とはいえ、アルバートあくまで王の二男。エリザベスは王族の血を引く王女に過ぎませんでした。
第一次世界大戦
第一次世界大戦は、イギリスの歴史において大きな変化をもたらしました。
劇中でこの大戦を挟む『ダウントン・アビー』は、どうしてあの時代設定なのか。それというのも、王侯貴族の特権が奪われてゆく激動の時代であったからなのです。
・イギリス海軍力の限界が証明される
→トラファルガーの戦いで頂点を極めた英国海軍は、この大戦で艦隊決戦主義の限界を見ることになります。
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・第一次世界大戦で、貴族の子弟に戦死者が相次ぐ
→貴族本人、その後継者が死亡することにより、断絶する貴族が相次ぎました。
・経済の限界
→ヨーロッパ全体が大きな傷を負った大戦。科学技術力、経済力……そうした点において、大英帝国の破綻が見えてきました。
『ダウントン・アビー』のグランサム伯爵家は、経済面での援助を得るため、アメリカから妻を迎えています。
妻の側から見れば、イギリスの貴族としての地位。夫の側から見れば、経済力。どちらも得をする関係がありました。
しかしこれは、アメリカからの援助がなければイギリスの貴族制度は成立しない――そんな皮肉の証明でもあります。ウィンストン・チャーチルも、こうした夫妻の子です。
そうした貴族のさらに上に立つ王族もまた、アメリカの影響と、歴史の変化にさらされていました。
貴族ではアメリカ人との結婚は成立しても、国王となれば難しい。ましてやそれが既婚者であれば、尚更のことです。
それが証明したのは、皮肉にもエリザベスにとっては伯父にあたるエドワード8世となります。彼はアメリカ人であるシンプソン夫人と結婚するため、王冠を捨てたのです。
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ロマンチックなロマンスに思えるものの、弟であるアルバートの家族にとっては大迷惑でした。
アルバート本人は、皇太子として教育を受けていないと困惑。吃音の克服も重大な課題となりました。
アルバートの妻であるエリザベスは、病弱な夫の命を縮めかねないと大激怒し、義兄夫妻へ抱いた強い怒りを生涯消せませんでした。
娘のエリザベスにとっても、人生が大変貌してしまいました。伯父の退位とは、彼女が次期国王となることなのです。
伯父の退位を受け、一家揃ってバッキンガム宮殿に引っ越すことになると、エリザベスはあまりのことにこう嘆くのでした。
「伯父様が退位しなければ……」
10歳で、次の王冠を受け継ぐことが決められてしまい、どれほどの衝撃があったことでしょうか。
ここでトリビアでも。
英国王の太子は「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ばれます。
それではエリザベスは「プリンセス・オブ・ウェールズ」であったのかというと、これがそうではありません。
「プリンセス・オブ・ウェールズ」は、皇太子夫人の称号です。チャールズ皇太子であったダイアナは該当しても、エリザベス2世はそうではありません。
ややこしいことに、チャールズ皇太子の再婚相手であるカミラも名乗らず、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)が称号とされます。
称号はさておき、彼女は女性であり、かつ王位継承順位一位となったのでした。
軍隊では軍用トラックの運転が得意だった
第一次世界大戦後、エリザベス誕生の6年前の1920年、国際連盟が発足します。二度と世界大戦を起こしてはならないという政治の産物でした。
しかし、はかなくも崩れてゆきます。
エリザベスが王位継承の修行をしている青春時代、ナチスドイツが台頭。イギリスはチェンバレンの元、宥和政策を取ったのです。
結果的にこの政策は失敗でした。1940年、ドイツがヨーロッパを席巻するようになると、国王夫妻とエリザベス、そして妹のマーガレットは別居することとなりました。
国王夫妻は、緊迫する中で家庭を振り返る間もなく、常に政治に気を配らねばならない戦時に突入したのです。
即位前はさほど目立つこともなかったジョージ6世ですが、即位後はその生真面目な人柄により敬愛を集めました。その傍らには、聡明でこれまた人気抜群の王妃エリザベスの姿がありました。
ヒトラーをして「あれこそヨーロッパで最も危険な女だ……」と言わしめたほど、王妃は度胸があり大胆で、周囲と国民を勇気づけていたのです。
エリザベスにも役目がありました。
普及し始めたBBCラジオに出演し、親と接することのできないイギリスの子ども代表として、勇気づけるスピーチをしたのです。
ラジオ、テレビ、そしてインターネット――エリザベスの人生は、変わりゆくメディアとその発信ともにありました。
まだ幼いながらも、エリザベスは落ち着きのある声で語りかけ、ラジオ時代にふさわしい風格がありました。
父・ジョージ6世は吃音に苦しみ、その克服は『英国王のスピーチ』として映画化されました。王族にとってスピーチの才能は、メディアの発達とともにますます求められるものとなっていたのです。
王族ともなれば、戦時の役割はそれだけではありません。
ノブレス・オブリージュの伝統がある王室では、軍隊への入隊が求められます。エリザベスの子孫たちも、軍務経験があるものです。
1942年に15歳となったエリザベスはまず近衛兵第一連隊連隊長に任命されました。
1944年に18歳となると、国事行為臨時代行の一人に選出します。
ロンドンも空襲をされる時代です。父王に何かあった場合、彼女が代行しなければなりません。
そして1945年、イギリス陸軍婦人部隊・補助地方義勇軍(ATS)に准大尉として入隊。20世紀ともなれば、女性でも軍人にならねばなりません。
ソヴィエト連邦のように狙撃兵や戦闘機パイロットにまではなれないものの、軍需物資の輸送には参加できたのです。
軍用トラックのハンドルを握ることになった彼女は、大型車両の整備、修理、運転を習得します。運転技術はなかなかのもので、即位後でも高速運転をしていたという証言もあります。
士官候補生との初恋から……
1945年5月8日、ついに第二次世界大戦は終わりました。
バッキンガム宮殿で手を振る国王夫妻とチャーチルの横では、エリザベスとメアリの二人も歓喜の笑顔を浮かべていました。
この時の写真と映像は、歴史が変わる瞬間をとらえたものとして有名です。
このあと父の許しを得て、エリザベスとメアリの王女姉妹はお忍びでロンドンに繰り出し、勝利に浮かれるロンドンの夜を過ごしたのでした。
二人の様子は『ロイヤル・ナイト』として映画化されています。
生真面目な生活を送ってきたエリザベス。そんな彼女の初恋は甘く、ロマンチックなものでした。
1939年、国王一家はダートマスの海軍兵学校で、背が高くハンサムなフィリップという士官候補生から案内を受けました。
この士官候補生は国王一家が立ち去る時、手漕ぎボートで追いかけて来たのです。父である国王は呆れ返っておりましたが、13歳の王女は18歳のこの士官候補生に胸がときめかせました。
このフィリップとは、ギリシャ王子アンドレアスを父とする高貴な青年でした。
1943年、戦争中にこの二人は再会し、手紙のやり取りをするようになります。しかし、フィリップはドイツの血が濃く、ドイツと戦うイギリス王女のロマンス相手としては不適切ではありました。
それでもエリザベスは、この恋の相手と結婚したくてたまりません。
戦後の1946年、フィリップはエリザベスに求婚。思いの強さに父王も折れ、ロイヤルウェディングを迎えたのです。
戦争後の暗い世相の中、結ばれたエリザベスとフィリップ。二人はまるで別世界から現れたような、まばゆいばかりの美男美女でした。
「ああ、お二人の美しさ! まるで神話から出て来た神のようでした……」
新婚まもないこの夫婦の姿を見た使用人は、うっとりとそう証言しているほど。
このディズニー実写版のような夫婦は、結婚後様々な困難にぶつかり、フィリップの無茶苦茶な言動はしばしば話題となりますが……結婚当時は輝く二人でした。
1948年には夫妻の長男であり、未来の国王であるチャールズも誕生。王室は安泰であると受け止められる、うれしいニュースでした。
“ラ・ベル・プランセス”(美しき王女)
そんな若き夫妻は、世界中から注目を浴びるようになります。
ただでさえ病弱で、しかも第二次世界大戦で疲れ果てた父王に代わり、外交の舞台に立つのはエリザベスでした。
革命で王制を廃止したフランスでも、イギリスの王から独立をしたアメリカでも、彼女は大歓迎を受けるのです。
フランスでは“ラ・ベル・プランセス”(美しき王女)という見出しが新聞を飾ります。
アメリカのトルーマン大統領はうっとりとしながら、こう語ったほど。
「子どもの頃、妖精の王女様の話を読んだものですがね。それが今、その本物が目の前にいるんですよ!」
若きエリザベスは、神話やおとぎ話から抜け出たような、魅力的で美しい存在であったのです。
これは重大な転換点でもありました。
アメリカ独立戦争とフランス革命は、18世紀の出来事です。それから百年以上の歳月とにどの世界大戦を経て、世界の秩序は変わりつつありました。かつて敵であり、憎悪すら浴びせられていたイギリス王室は、愛される存在となりました。
ただし、よいことだけでもありません。
いくら王女が美しかろうと、権力があればおそれられるもの。イギリス王室は、愛される偶像としての存在感を持つようになっていたのです。
戴冠式に挑む25歳の若き女王とテレビ
1952年、エリザベスは訪問先のケニアで父の訃報を受け取ります。
戴冠式へ挑む25歳の若き女王。
1953年6月2日の戴冠式を見るために、多くのイギリス国民たちがカラーテレビを購入します。日本でも、1959年の皇太子(現上皇)ご成婚パレード中継により、カラーテレビが普及したとされます。
20世紀、君主とメディアの発展とは、このようにして並行して進んでゆくのでした。
戦争で傷つき、疲れ果てた国で、戴冠式に挑む若き女王――その構図は、奇しくもほぼ一世紀前のヴィクトリア女王を思わせるものでもありました。ヴィクトリアの時は、ナポレオン戦争で疲弊していたのです。
ただ、ヴィクトリアの場合は大英帝国が全盛期に向けて登りゆく時代の女王です。
一方でエリザベス2世は、大英帝国の斜陽を見守る女王となるのでした。
即位したばかりの新女王は、世界周遊の旅へ向かわねばなりません。
女王の訪問国は、イギリス連邦(コモンウェルス)でした。かつての大英帝国が前身となる、植民地のことです。
第二次世界大戦におけるイギリスは、連合国として勝利を収めました。
しかし、大英帝国としては敗北したようなもの。イギリスのみならず、植民地を有していた国は、帝国主義の終焉をつきつけられたのでした。
世界各国で、植民地は独立を果たしてゆきます。
ヴィクトリア女王のような厳しい女王ではなく、あくまでにこやかに友好の微笑みを振りまくことが、この女王の務めなのです。
1961年、女王が政情不安なガーナ訪問を果たした時には、「男の心臓を持っている」と驚かれたほどでした。
独立の気運がみなぎる国を国家元首が訪問することそのものが、プレッシャーがかかることなのだとわかります。
イギリスにルーツであることをアイデンティティとしてきた国も、姿勢に変化が見えてきます。
代表例がオーストラリアです。
第一次世界大戦時、オーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)として英仏軍と共に【ガリポリの戦い】で苦闘したことを、オーストラリアではずっと誇りとしてきました。
しかし、第二次世界大戦では、日本軍との戦いにおけるイギリス軍に失望。
白人国家としてのオーストラリアではなく、移民、先住民と分かち合う、自国らしさを求めるようになってゆきます。
エリザベス女王も倹約からは逃れられず
イギリス国内でも、意識は変貌していきます。
王族に敬意を誓う人々や貴族からは「あんな連中がのさばるなんて世も末だ」と嘆かれた労働党が存在感を増したのです。
時代は冷戦のもとであり、西側の一勢力としてイギリスは共産主義と対抗する側ではありました。しかし、労働者の権利を認め、王侯貴族の特権を制限する動きは強まるばかりなのです。
度重なる税制改革により、貴族はむしろつつましい生活を送るようになってゆくのです。
『ダウントン・アビー』のロケで使われたハイクレア城ですら、観光客の入場料に頼らなければならないほど。
エリザベス女王も、倹約からは逃れられません。
体型を保ち、若い頃の乗馬服を見にまとうよう努力を重ねています。のちにチャールズ皇太子に嫁いだダイアナが唖然とするほどの節約を重ねているのです。
現代の王侯貴族は、節約をして生きています。
しかし、それ以外の階級から「あのアホボンボンの役立たず」と笑いものにされるのも、彼らの宿命なのです。
王侯貴族が、かつてほど敬意を払われない時代になったこと――それは王侯貴族のスキャンダルが浪費される時代の訪れでもありました。
一例として、シャーロック・ホームズにおける王族の扱いがあります。
原作のヴィクトリア朝時代のシャーロック・ホームズと、BBCの現代版版『SHELOCK』では……
・壁に銃弾でVR (Victoria Regina:ヴィクトリア女王) レジーナと書く(『マスグレーヴ家の儀式』)
→壁に描くのはスマイリーマーク
・国王の醜聞として登場するのはボヘミア国王。その内容とは歌手アイリーン・アドラーと写っている写真(『ボヘミアの醜聞』)
→とあるイギリス王室の若い女性が、SM女王アイリーン・アドラーとのプレイ写真を撮影されてしまった……放映当時、モデルの王族は誰かと話題になったほど(『ベルグレービアの醜聞』)
→しかも、この話ではシャーロックが全裸にシーツを巻きつけただけの姿でバッキンガム宮殿に行く。あまりの敬意のなさに、兄マイクロフトが呆れ果てる
BBC版のシャーロックはかなり性格が無茶苦茶ですが、それはそれとして、ここまで王室をおちょくった内容をBBCが制作しても問題がないわけです。
そんな時代は、女王にとってはスキャンダルと戦う時代でした。
ドイツの血が濃いヴィクトリア女王は生真面目ですが、もともと英国王室はぶっ飛んだ人物が出てくるものです。
「王冠を賭けた恋」のエドワード8世もそうですが、その前はもっと強烈な人物がいました。
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エリザベス自身は、初恋の相手と結婚して極めて真面目に生きていたものですが、その妹マーガレットは、奔放なところがありました。
『ローマの休日』のアン王女のモデルともされるマーガレットは、オードリー・ヘップバーンに似た絶世の美女でした。
そんな彼女は、ピーター・タウンゼント大佐という既婚者に恋をしてしまうのです。
エリザベスが女王として即位した頃、タウンゼントは妻と別れ、本格的にマーガレットに接近。大衆紙はこのゴシップに飛びつき、女王にとっては頭痛の種となりました。
ついにマーガレットはBBCラジオを通して、タウンゼントとの関係を否定……これで解決かと思いきゃ、傷心のマーガレットは別の男性との恋愛に安らぎを見出したのですから、エリザベスとしては悩みが尽きません。
ジェイソン・ステイサムが主演の映画に『バンク・ジョブ』(2008年)があります。
1971年が舞台のこの映画では、ある写真を通した事件を描くのです。
写真とは、マーガレットが男性と同じベッドにいるところを映したもの。とある王族の人物が「あのおてんば娘め」と苦笑しながら、この写真を回収することとなります。
このように、美しきマーガレット王女のスキャンダルは、イギリスではおなじみのものではありました。隠し通そうとした女王の苦悩は大変なものであったことでしょう。
あの女王陛下も、思春期の皇太子に悩んでいる
王族とは、自らのイメージアップも考えねばなりません。
かつて、マリー・アントワネットは肖像画でさんざん苦労しました。
ラフなドレスと麦わら帽子で描けば、
「チャラすぎる。庶民にお近づきになったつもり?」
と言われ、乗馬服で颯爽とした姿を描けば、
「男気取りか、夫を尻に敷くつもりか!」
と、これまた批判されたのでした。
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絵だけでも大変なのに、声や動く姿も配信できるとなれば、それはもう大変なことです。
女王は、なんとかプラス方面へアピールできないかと知恵を絞ります。
1969年、BBCは『ロイヤル・ファミリー』という105分番組を放映することとなりました。
あらっ、あの女王陛下も、思春期の皇太子に悩んでいるじゃない! そんな親近感アピールの一環です。
スキャンダルの火消しに追われながら、親近感もアピールする。現代の王族とは、かくも厳しい目にさらされているのです。
日本を含む国際秩序
女王は、新たな国際秩序とも対峙しなければなりません。
かつて、イギリスはヨーロッパの他の国と戦ってきました。それがEEC、EC、EUへの加入を悲願とすることとなるのです。
立憲君主国家同士として、日本との関係も注目されてきました。
幕末から明治維新以来、長らく重要な友好関係にあった日本とイギリス。しかしそれが第二次世界大戦で決裂し、いくつもの課題が残されました。
イギリスには第二次世界大戦時、日本軍の捕虜として苦しめられた記憶があります。
1971年の昭和天皇のヨーロッパ訪問時には、イギリスやオランダからは反発の声があったものでした。
いくら現在友好関係にあろうと、イギリスが第二次世界大戦における枢軸国のことを礼賛することはありえません。
2005年、チャールズ皇太子は二男ヘンリーがナチスの制服を着たことに激怒しました。歴史を学んでいない我が子の愚かさを嘆いたのです。
1975年のエリザベス女王の訪日においても、様々な問題が持ち上がります。
女王は日本の戦死者慰霊を願いました。イギリスの場合はウェストミンスター修道院の無名戦士墓地、アメリカならばアーリントン墓地が相当します。
これが、日本では問題となるのです。
靖国神社か、千鳥ヶ淵霊園、それとも伊勢神宮か?
実は、この参拝にはいろいろな問題があるのです。日本国憲法には政教分離が定められているからには、どれも実は厳しいのです。
結果的に、伊勢神宮に落ち着きます。宗教的な行事には一切行わず、あくまで「参拝ではなく訪問」という形で勧められました。
このように、政治的ニュアンスを含めて宗教施設を訪れることには、タブーが存在していたことをご記憶いただければと思います。
2019年、W杯のために来日していた英国陸軍ラグビーチームが靖国神社に参拝し、大問題となりました。
イギリスのタイムズ紙では「英国陸軍ラグビーチーム、戦犯の神社を訪問」 という見出しが踊ったほどです。この場合、政教分離ではなく、英国陸軍将兵が第二次世界大戦時、捕虜待遇等によって苦い経験を味わったことも背景にあります。
イギリスの日本への見方は、辛辣なものがあります。
第二次世界大戦時のことを考えれば、それも当然のこと。イギリスの番組、イギリス人著者の歴史書等、ぜひ触れていただければと思います。
立憲君主国家同士だからといって、そこまで仲がよいわけでもありません。
国の関係とはそういうもの。親日などという概念でくくれるほど、イギリスは単純な国ではないのです。
アイルランド共和軍(IRA)
1977年にシルバージュビリー(在位25周年記念)を迎えた女王。
そのあとは、北アイルランドのアイルランド共和軍(IRA)によるテロ多発という問題がありました。
女王は、大英帝国の残した傷跡を目撃する運命にあったのです。
※北アイルランド独立派組織によるの爆弾テロで愛娘を失った中国系移民がイギリスで復讐を誓う。歴史の暗部を題材とした『ザ・フォーリナー/復讐者』(2017)
そんな中、1980年代ともなると女王の子どもたちも結婚適齢期を迎えました。
未来の国王たるチャールズは、30歳を迎えます。そろそろお妃候補、プリンセス・オブ・ウェールズの称号を受け継ぐ女性が必要です。
チャールズの結婚は、彼の息子世代と比べれば制約が多いものでした。
・1701年制定 カトリック教徒との結婚を禁じた「王位継承法」
・1772年制定 25才未満の王族が君主の許可無く結婚することを禁じた「王室結婚令」
2013年に改定されるまで、有効であったのです。チャールズにはお妃候補がいたものの、こうした法律によりなかなか決められないのです。
ここで、読み進めている方はこう言いたくなることでしょう。
「カミラが好きだったんでしょ……?」
それはその通りだと、現在証明されています。これも彼女が既婚者という時点で無理であったのです。
かくして、チャールズの妃として選ばれたのは、無垢で清廉潔白なダイアナでした。スペンサー伯爵家の娘であり、すっかり美しい女性に成長していました。
セント・ポール大聖堂のロイヤルウェディングは、テレビ中継で世界の7億5千万人が見守ったと伝わります。
誓いのキスを交わす二人は、まさしく夢の体現のように見えたことでしょう。女王はそんな我が子のことを見守っていたのでした。
しかし花嫁のダイアナは、参列者の中にある女性がいるのではないかと目を光らせていました。そしてその姿を見つけて、怒りと屈辱に胸を燃やしていたのです。
その女性とはカミラ。夫チャールズの元恋人でした。
鉄の女・サッチャー
チャールズとダイアナという大物カップルが生まれた1980年代――。
これも大英帝国の歴史にとって、大転換の時代となりました。この時代のイギリスを象徴する女性といえば、女王よりもむしろサッチャーです。
彼女は良くも悪くも、女性リーダーのイメージを変貌させた人物です。
「女性は平和主義で、思いやりがある」
そんな印象は、サッチャーが否定しています。
「英国病」と呼ばれたほどの経済不振を一掃したその強引な政治手腕は「サッチャリズム」として名を残したものの、現在に至るまで悪名高いものです。
1982年【フォークランド侵攻】ではイギリスの底力を見せつけ。剛腕と判断力はサッチャーの名を知らしめました。
ただ、その剛腕には女王すら眉をしかめていたのです。
その一つが、南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトです。
サッチャーは、人道主義よりも経済的な観点から、白人による支配が望ましいと考えていました。
一方の女王は、長年アパルトヘイトと戦い続けてきた活動家デズモンド・ツツから助力を願う手紙を受け取っており、すぐにでも解決をしたいと考えていたのです。
こうした【女王vs首相】という構図は、どこからともなく漏れ、大衆紙にまで記事が出る状況でした。
アパルトヘイトをどうするのか?
ここで重要なカードが一枚ありました。
ネルソン・マンデラの釈放というです。
人道的な観点からも、長年獄中にいたマンデラの釈放は望ましいものです。
とはいえ、そんな情緒で動くほど、イギリス政府は甘くありません。
政治的な利害をふまえた獄中での面会や、会談を踏まえ、1990年、ついにマンデラは釈放されました。
27年の獄中生活を終えた彼を、女王は「コモンウェルスの日」の演説で讃えます。
コモンウェルスを大きな家族に例え、家族の一員であれば認め荒れると訴えたのです。
1993年、ついにアパルトヘイトは廃止されます。その2年後の1995年、女王は南アフリカを訪問し、メリット勲章を送りました。
この勲章は、君主自らの裁量で贈ることができるものです。政府は関与しません。女王から、大統領となったマンデラへの賛美。
サッチャーにも贈られています。個人の性格的な確執はともかくとして、女王はこの首相のことも称賛したのです。
立憲君主としての裁量を使い、帝国主義の残した負の遺産を解消してゆく。それが女王の使命でもありました。
このあたりで、こう思えてきませんか?
「へぇ〜、エリザベス女王っていろいろしているね。善意の人なんだなぁ」
それはその通りなのです。しかし、彼女の性格ゆえなのか、立憲君主としての自制ゆえなのか、どうにもそれがアピールできていないところはあります。
1990年代とは、そんなアピールをしない奥ゆかしさもあってか、試練が女王を襲う時代となるのです。
在位40周年記念の年に冷戦が終結
冷戦も終結した1992年は、女王のルビージュビリー(在位40周年記念)の年でした。
しかし、それどころではありません。
女王はこの歳のことをラテン語で“アヌス・ホリビリス”(酷い歳)と振り返りました。
確かに問題は山積みです。
・ポンド危機。ヨーロッパ統合の流れが強まる中、イギリスが守りたいポンドの価値が下落
・長女アンの離婚スキャンダル。馬術競技でオリンピック出場経験もある彼女は、自由奔放。この歳には4月に離婚、12月に再婚。案の定、大衆紙が飛びつくことに
・二男アンドリュー、3月に別居へ
・ダイアナ、チャールズとカミラの関係を6月に告白、新聞掲載
・11月、ウィンザー城で火災が発生。甚大な被害が発生
女王は落ち込むばかりでした。
思えば若くして即位してから、女王としての責務ばかりを重視し、家族関係を疎かにしていなかったか?
そんな反省も、じわりと湧いてきます。
確かに、女王の家庭事情は厳しいものがあります。
夫フィリップ:王配としての地位にストレスがあったのか、ともかくいろいろな問題発言ばかりをする。海軍士官であったマッチョさを我が子の教育でも発揮し、チャールズとの仲がギスギスしがち
長男チャールズ:ダイアナとの離婚でいろいろと大変なことに
長女アン:「お前が男ならよかったのになぁ」という父フィリップに伸び伸びと育てられ、結果として“おてんば娘”どころではない弾けぶりを見せる
二男アンドリュー:交際人数1000人を超えると豪語していたプレイボーイ。2019年、富豪エプスタイン(2019年自殺)とともに未成年の女性を買春したとして、アメリカ捜査当局に証言する。2022年1月、英名誉軍人の称号や慈善団体の後援者の地位を剥奪され、称号「殿下(Royal Highness)」も不使用とされ王室を追放される
三男エドワード:割とまともな王子
孫ウィリアム:まともな方の孫王子
孫ヘンリー:やんちゃな方の孫王子。2020年、王室の主要メンバーを退く
このように、なかなか大変なことになっております。
家族トラブルだらけの女王にとって、最大のダメージを与えたのは嫁のダイアナでした。
ダイアナにとって憎むべきカミラの曽祖母はアリス・ケッペル。彼女はチャールズの高祖父・エドワード7世の寵姫でした。
もっと昔であれば、エドワード7世のアレクサンドラ王妃のように、ダイアナは苦虫を噛み潰して耐えるしかなかったのでしょう。
しかし、時代は変わりました。彼女はメディアをフル活用して、自分を騙してきた夫に戦いを挑んだのです。
ダイアナの告白を聞き、イギリス国民の多くは彼女に熱烈な愛情を感じたものです。
「ダイアナは、お高く止まった他の王室の連中とは大違いだ」
「俺ら民衆のプリンセスだよなぁ」
「ダイアナを苦しめる王室はなんなんだよ!」
判官贔屓ならぬ、ダイアナ贔屓に発展。王室人気は低下し、姑である女王は最低の鬼姑扱いをされるようになっていくのです。
そして、その見方を決定づける事件が起きました。
1996年、チャールズとダイアナが正式に離婚。その翌1997年、ダイアナはパパラッチの車に追いかけられ、恋人であるドディ・アルファイドとともに事故に遭い、命を落としたのでした。
このとき、女王はスコットランドのバルモラル城に滞在していました。その影響でダイアナの死への反応が遅れる一方、首相のブレアはダイアナをこう偲びます。
「彼女こそ、人々に愛された大衆のプリンセス(皇太子妃)でした」
比較して、女王は沈黙を保っているように思えてしまったんですね。
「一体どうしたんだ!」
「女王陛下、姿を見せなさい!」
「私たちのダイアナはどうでもいいってことなの?」
かくして女王に対し、バッシングが渦巻きました。その背景には、女王が時代の変化を読みきれなかったこともありました。
インターネット交流が芽生え始め、情報伝達速度が上がっている。ダイアナ騒動もあって王室への見方は変わっている。
そうしたことを捉えきれず、対応に鈍さがあったことは確かなのです。
ダイアナは、地雷の禁止といった慈善事業にも積極的でした。悲劇的なイメージだけではなく、こうした活動も彼女のイメージアップに貢献してきたものです。
女王にとって不幸であったのは、こんな風に誤解されたことでした。
「ダイアナはすごい。庶民なんてどうでもいいと思っている、他の王室の奴らとは大違いだな」
ノブレス・オブリージュの重要性を知る英国王室では、女王はじめ他の王族も慈善事業を行っています。
ただ、ダイアナほどアピールをしてこなかったのです。
ダイアナのことからいろいろ学んだのでしょう。2000年代以降、王室のアピール能力は向上し、慈善事業も喧伝されるようになりました。
ちなみにダイアナの死をめぐる女王の苦悩を描いた映画『クィーン』(2006年)を見て、女王自身も深く心を動かされたようです。
なんと女王を演じたヘレン・ミレンを食事に招待したとか。この招待は、ヘレン・ミレン側の都合で実現しなかったものの、女王自身がそこまで感動したわけです。
インドやマレーシアを訪れて
大英帝国がアジアで終焉を告げたのが、1990年代でもあります。
1997年、香港が中国に返還されました。
同年のインド訪問時には【アムリットサル事件】の現場も訪れ、女王夫妻が慰霊を行っています。1919年、イギリスが支配するインドで最悪の事件とされる虐殺が起こった場所です。この事件以降、ガンディーのよる独立運動が激化したとされます。
このとき、失言癖のある夫のフィリップがまたもやらかします。
「死者2,000人って大袈裟だな。負傷者も含めて2,000人じゃないのか?」
加害者側が、絶対に被害者側へ言ってはならないセリフ。いくら女王が慰霊をしたところで、何もかもが台無しとなってしまいます。
1998年にマレーシアを訪問した際には、女王は車ごとデモ隊に包囲されています。
こうした一連の出来事を通して、女王はアジアの沸騰と、大英帝国の終焉を感じたことでしょう。
21世紀を迎えた2002年、女王はイングランド国王としては5人目のゴールデンジュビリー(即位50周年)を迎えました。
しかし、めでたい年とはなりません。妹マーガレットが2月に他界し、その6週間後には母エリザベス皇太后も亡くなったのです。
たびたびスキャンダルを起こしたとはいえ、その美貌と愛くるしさで愛された妹マーガレット。
夫とともに第二次世界大戦を乗り切り、その知性と人柄で国民を魅了してきて、100歳を超えても健在であった母エリザベス。
女王にとって、あまりに悲しい別れでした。
ロンドン同時爆破事件の年にチャールズ再婚
2000年代は、イギリスにとっても大変な時代でした。
2001年の「9.11同時多発テロ事件」に対する報復措置として、アメリカはイラクへ戦争を宣戦します。
イギリスのブレア首相もこれに賛同し、イギリスも参戦。
しかし調査の結果、イラクにフセイン大統領からの「切迫した脅威」は存在せず、不適切な判断であったと発表されることになります。
つまり、間違った参戦でした。
このイラク戦争は、各地に禍根を残し、テロを減らすどころか危険性を増やしています。
2005年、イギリスでは「ロンドン同時爆破事件」が起き、新たな困難へと突入しました。

ロンドン同時爆破事件/photo by FrancisTyers wikipediaより引用
同年、カミラと再婚したのがチャールズです。
再婚には条件が付けられました。夫は「プリンス・オブ・ウェールズ」、妻は「コーンウォール公爵夫人」という称号になったのです。現在に至るまで、最後の「プリンセス・オブ・ウェールズ」はダイアナです。
この再婚は冷たい目で見られたものでした。
ダイアナへの裏切りを考えれば理解できなくもありません。
しかし、王室の結婚がもっと自由なものであれば、チャールズは初めからカミラと結ばれていた可能性が高いのです。チャールズの結婚生活には、時代の価値観も反映されているといえます。
孫のチャールズが結婚
2010年代は、そんな王室に漂う暗い雰囲気を振り払う慶事が飛び込んできました。
孫チャールズが、キャサリン・ミドルトンとの婚約を発表したのです。
キャサリンは、まさしく新時代の象徴と言えました。彼女の両親は、パーティグッズ販売で財をなした中産階級の出身です。あまりに身分が低いのではないかと言われましたが、時代は変わっておりました。
王室のスキャンダルとは、時代の鏡でもあります。
思えばキャサリンが登場する一世紀前。王族も身分を問わずに結婚できる(貴賤結婚)ようになっていった時代ですが、それは惨劇をもたらしました。
ドラガは虐殺され、全裸死体が投げ捨てられる。
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ゾフィー・ホテクは夫のオーストリア大公フランツ・フェルディナントとともに、サラエボで射殺されてしまう。
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まだまだ危険であり、混乱をもたらしかねないものではありました。
ところがキャサリンは、未来の英国王と愛を育み、結婚できるのです。時代は変わりました。
2011年、この二人はロイヤルウェディングを披露しました。
2013年にはジョージ、2015年にはシャーロットが生まれております。王女を由来として、日本でも動物園のサルにシャーロットと名付けたことがあります。
これは失礼でしょうか?
そう思うのは、日本人だけの可能性が高いことをご理解いただければと思います。
避諱(ひき・目上の者の名前を避ける)は、東アジアの概念です。イギリス王室のファーストネームは有名なので、むしろ避けることは難しいものです。むしろ親愛表現として通じるのです。このあたりは文化の違いです。
名前以外でも、イギリス人の王室への感情と、日本人の皇室への感情にはかなりの温度差があることもご理解いただければと思います。
2010年代、女王はじめ王室は、オープンな存在であることをアピールしてきました。
結婚を制限する法律「王室継承法」を改正し、財産管理をオープンにし、インターネットSNSアカウントを開設し、情報を発信していくのです。
2012年、ついにダイヤモンドジュビリー(在位60周年)を迎えました。ヴィクトリアを抜き、最長の在位年数を記録したのです。
この年の2012年のロンドン五輪開会式では、007ことジェームズ・ボンドに扮したダニエル・クレイグと、女王の共演映像が話題となりました。
現代の英国王室は、メディアアピール効果が抜群です。それも女王はじめ、工夫を重ねた結果なのです。
あのパフォーマンスは、大英帝国としての力を失っても、ソフトパワーは健在であるというアピールにもなりました。
それはまさに、エリザベス女王が体現している存在感でもあるのです。
ブレグジット
しかし、グッドニュースだけではありません。
バッドニュースもあります。
大英帝国の遺産が解消されてゆくのが、エリザベス2世の治世。のみならず、歴史をさらに遡るようなことが起こるのです。
2015年、キャメロン首相がEU加盟継続を問う国民投票を実施すると、事前の予測に反し、離脱が勝利してしまいました。
紆余曲折の末、2020年に離脱は実行され、加盟までの困難を見てきた女王は、どれほど衝撃を受けたことでしょう。
このブレグジット(イギリスの欧州連合離脱)は、イギリス国内の分断も明瞭にしました。
スコットランドでは、圧倒的に残留派が勝利。
もはや無謀な決定をするイングランドに従う理由はないと、スコットランドは独立の気運を高めてゆきます。
2011年には、スコットランド国民党(SNP)が多数を占めるようになりました。
家庭問題と新型コロナウィルス
家庭問題も、まだまだおさまりません。
2017年になると96才という高齢であったフィリップが公務から引退し、翌2018年、ヘンリーがアメリカ人女性のメーガンと結婚します。
彼は2020年、王室の主要メンバーから身を引くこととなりました。
そして、女王の孫が苦渋の決断を下した2020年春――。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が全世界で猛威を奮い始め、3月25日にはチャールズ皇太子が感染します。4月2日には「奇妙で腹立たしい」経験だったと発表しました。
続けて3月26日には、ジョンソン首相も感染を発表しており、4月12日に退院、自分の命を救った医療従事者に感謝を表明しました。
そして5月2日に誕生した男児には、ウィルフレッド・ローリー・ニコラス・ジョンソンと命名されました。
ウィルフレッドとローリーは、治療に当たった2人の医師の名前から取られています。また彼は、献身的に治療に当たったニュージーランド出身のジェニー氏と、ポルトガル出身のルイス氏の名前を挙げ、感謝を表明していました。
入院前はブレグジットを推し進め、ヨーロッパに頼らない姿勢を明確にしていたジョンソン首相ですが、感染経験でその考えが変わったのか。注目を集めています。
皇太子と首相が感染する中、高齢の女王にも異例の事態が降りかかります。
94回目にして、初めて誕生日の祝砲が鳴らされませんでした。
愛用ドレスメーカーも、医療用ユニフォームを作り始める状況の最中、ヘンリーとメーガン夫妻の子・アーチーが1歳を迎えても、顔を見ることすらできない。
そんな苦しい中、国民は女王の激励を望み、彼女はそれに応じました。
この未曾有の困難の中――医療従事者、生活を支える人々に感謝を述べ、家に留まるよう訴えました。
この困難に打ち克ち、また顔を合わせることができるはずだと、女王はBBCを通して呼びかけたのです。
彼女の父は、国民にこの苦しい戦争に勝てるはずだとラジオを通して訴えました。
父のように、4月11日、キリストの復活を祝うイースターの日曜日を前にして、女王はスピーチをして国民を激励したのです。
英女王のスピーチは、国民を力づけるものとして2020年においても必要とされています。
第一次世界大戦を経験した両親を持ち、第二次世界大戦で従軍し、新型コロナウイルスとも戦ったエリザベス2世。
その生涯最期の公務は、イギリスの与党・保守党の新党首になったリズ・トラス氏を首相に任命することでした。
女王が任命した首相は14人目であり、バッキンガム宮殿ではなく、バルモラル城でのことでした。
女王は歩行に困難があったため、ロンドンから片道820キロの距離を移動してきたのです。
そのあと体調を崩し、2日後に亡くなったエリザベス2世。
国民に愛された女王として、その名は歴史に刻まれることでしょう。
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【参考文献】
君塚直隆『エリザベス女王-史上最長・最強のイギリス君主 (中公新書)』(→amazon)
君塚直隆『物語イギリスの歴史(下) - 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書)』(→amazon)
森護『英国王室史話 下』(→amazon)
他










