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【エリザベス女王(エリザベス2世)】
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アイルランド共和軍(IRA)
1977年にシルバージュビリー(在位25周年記念)を迎えた女王。
そのあとは、北アイルランドのアイルランド共和軍(IRA)によるテロ多発という問題がありました。
女王は、大英帝国の残した傷跡を目撃する運命にあったのです。
※北アイルランド独立派組織によるの爆弾テロで愛娘を失った中国系移民がイギリスで復讐を誓う。歴史の暗部を題材とした『ザ・フォーリナー/復讐者』(2017)
そんな中、1980年代ともなると女王の子どもたちも結婚適齢期を迎えました。
未来の国王たるチャールズは、30歳を迎えます。そろそろお妃候補、プリンセス・オブ・ウェールズの称号を受け継ぐ女性が必要です。
チャールズの結婚は、彼の息子世代と比べれば制約が多いものでした。
・1701年制定 カトリック教徒との結婚を禁じた「王位継承法」
・1772年制定 25才未満の王族が君主の許可無く結婚することを禁じた「王室結婚令」
2013年に改定されるまで、有効であったのです。チャールズにはお妃候補がいたものの、こうした法律によりなかなか決められないのです。
ここで、読み進めている方はこう言いたくなることでしょう。
「カミラが好きだったんでしょ……?」
それはその通りだと、現在証明されています。これも彼女が既婚者という時点で無理であったのです。
かくして、チャールズの妃として選ばれたのは、無垢で清廉潔白なダイアナでした。スペンサー伯爵家の娘であり、すっかり美しい女性に成長していました。
セント・ポール大聖堂のロイヤルウェディングは、テレビ中継で世界の7億5千万人が見守ったと伝わります。
誓いのキスを交わす二人は、まさしく夢の体現のように見えたことでしょう。女王はそんな我が子のことを見守っていたのでした。
しかし花嫁のダイアナは、参列者の中にある女性がいるのではないかと目を光らせていました。そしてその姿を見つけて、怒りと屈辱に胸を燃やしていたのです。
その女性とはカミラ。夫チャールズの元恋人でした。
鉄の女・サッチャー
チャールズとダイアナという大物カップルが生まれた1980年代――。
これも大英帝国の歴史にとって、大転換の時代となりました。この時代のイギリスを象徴する女性といえば、女王よりもむしろサッチャーです。
彼女は良くも悪くも、女性リーダーのイメージを変貌させた人物です。
「女性は平和主義で、思いやりがある」
そんな印象は、サッチャーが否定しています。
「英国病」と呼ばれたほどの経済不振を一掃したその強引な政治手腕は「サッチャリズム」として名を残したものの、現在に至るまで悪名高いものです。
1982年【フォークランド侵攻】ではイギリスの底力を見せつけ。剛腕と判断力はサッチャーの名を知らしめました。
ただ、その剛腕には女王すら眉をしかめていたのです。
その一つが、南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトです。
サッチャーは、人道主義よりも経済的な観点から、白人による支配が望ましいと考えていました。
一方の女王は、長年アパルトヘイトと戦い続けてきた活動家デズモンド・ツツから助力を願う手紙を受け取っており、すぐにでも解決をしたいと考えていたのです。
こうした【女王vs首相】という構図は、どこからともなく漏れ、大衆紙にまで記事が出る状況でした。
アパルトヘイトをどうするのか?
ここで重要なカードが一枚ありました。
ネルソン・マンデラの釈放というです。
人道的な観点からも、長年獄中にいたマンデラの釈放は望ましいものです。
とはいえ、そんな情緒で動くほど、イギリス政府は甘くありません。
政治的な利害をふまえた獄中での面会や、会談を踏まえ、1990年、ついにマンデラは釈放されました。
27年の獄中生活を終えた彼を、女王は「コモンウェルスの日」の演説で讃えます。
コモンウェルスを大きな家族に例え、家族の一員であれば認め荒れると訴えたのです。
1993年、ついにアパルトヘイトは廃止されます。その2年後の1995年、女王は南アフリカを訪問し、メリット勲章を送りました。
この勲章は、君主自らの裁量で贈ることができるものです。政府は関与しません。女王から、大統領となったマンデラへの賛美。
サッチャーにも贈られています。個人の性格的な確執はともかくとして、女王はこの首相のことも称賛したのです。
立憲君主としての裁量を使い、帝国主義の残した負の遺産を解消してゆく。それが女王の使命でもありました。
このあたりで、こう思えてきませんか?
「へぇ〜、エリザベス女王っていろいろしているね。善意の人なんだなぁ」
それはその通りなのです。しかし、彼女の性格ゆえなのか、立憲君主としての自制ゆえなのか、どうにもそれがアピールできていないところはあります。
1990年代とは、そんなアピールをしない奥ゆかしさもあってか、試練が女王を襲う時代となるのです。
在位40周年記念の年に冷戦が終結
冷戦も終結した1992年は、女王のルビージュビリー(在位40周年記念)の年でした。
しかし、それどころではありません。
女王はこの歳のことをラテン語で“アヌス・ホリビリス”(酷い歳)と振り返りました。
確かに問題は山積みです。
・ポンド危機。ヨーロッパ統合の流れが強まる中、イギリスが守りたいポンドの価値が下落
・長女アンの離婚スキャンダル。馬術競技でオリンピック出場経験もある彼女は、自由奔放。この歳には4月に離婚、12月に再婚。案の定、大衆紙が飛びつくことに
・二男アンドリュー、3月に別居へ
・ダイアナ、チャールズとカミラの関係を6月に告白、新聞掲載
・11月、ウィンザー城で火災が発生。甚大な被害が発生
女王は落ち込むばかりでした。
思えば若くして即位してから、女王としての責務ばかりを重視し、家族関係を疎かにしていなかったか?
そんな反省も、じわりと湧いてきます。
確かに、女王の家庭事情は厳しいものがあります。
夫フィリップ:王配としての地位にストレスがあったのか、ともかくいろいろな問題発言ばかりをする。海軍士官であったマッチョさを我が子の教育でも発揮し、チャールズとの仲がギスギスしがち
長男チャールズ:ダイアナとの離婚でいろいろと大変なことに
長女アン:「お前が男ならよかったのになぁ」という父フィリップに伸び伸びと育てられ、結果として“おてんば娘”どころではない弾けぶりを見せる
二男アンドリュー:交際人数1000人を超えると豪語していたプレイボーイ。2019年、富豪エプスタイン(2019年自殺)とともに未成年の女性を買春したとして、アメリカ捜査当局に証言する。2022年1月、英名誉軍人の称号や慈善団体の後援者の地位を剥奪され、称号「殿下(Royal Highness)」も不使用とされ王室を追放される
三男エドワード:割とまともな王子
孫ウィリアム:まともな方の孫王子
孫ヘンリー:やんちゃな方の孫王子。2020年、王室の主要メンバーを退く
このように、なかなか大変なことになっております。
家族トラブルだらけの女王にとって、最大のダメージを与えたのは嫁のダイアナでした。
ダイアナにとって憎むべきカミラの曽祖母はアリス・ケッペル。彼女はチャールズの高祖父・エドワード7世の寵姫でした。
もっと昔であれば、エドワード7世のアレクサンドラ王妃のように、ダイアナは苦虫を噛み潰して耐えるしかなかったのでしょう。
しかし、時代は変わりました。彼女はメディアをフル活用して、自分を騙してきた夫に戦いを挑んだのです。
ダイアナの告白を聞き、イギリス国民の多くは彼女に熱烈な愛情を感じたものです。
「ダイアナは、お高く止まった他の王室の連中とは大違いだ」
「俺ら民衆のプリンセスだよなぁ」
「ダイアナを苦しめる王室はなんなんだよ!」
判官贔屓ならぬ、ダイアナ贔屓に発展。王室人気は低下し、姑である女王は最低の鬼姑扱いをされるようになっていくのです。
そして、その見方を決定づける事件が起きました。
1996年、チャールズとダイアナが正式に離婚。その翌1997年、ダイアナはパパラッチの車に追いかけられ、恋人であるドディ・アルファイドとともに事故に遭い、命を落としたのでした。
このとき、女王はスコットランドのバルモラル城に滞在していました。その影響でダイアナの死への反応が遅れる一方、首相のブレアはダイアナをこう偲びます。
「彼女こそ、人々に愛された大衆のプリンセス(皇太子妃)でした」
比較して、女王は沈黙を保っているように思えてしまったんですね。
「一体どうしたんだ!」
「女王陛下、姿を見せなさい!」
「私たちのダイアナはどうでもいいってことなの?」
かくして女王に対し、バッシングが渦巻きました。その背景には、女王が時代の変化を読みきれなかったこともありました。
インターネット交流が芽生え始め、情報伝達速度が上がっている。ダイアナ騒動もあって王室への見方は変わっている。
そうしたことを捉えきれず、対応に鈍さがあったことは確かなのです。
ダイアナは、地雷の禁止といった慈善事業にも積極的でした。悲劇的なイメージだけではなく、こうした活動も彼女のイメージアップに貢献してきたものです。
女王にとって不幸であったのは、こんな風に誤解されたことでした。
「ダイアナはすごい。庶民なんてどうでもいいと思っている、他の王室の奴らとは大違いだな」
ノブレス・オブリージュの重要性を知る英国王室では、女王はじめ他の王族も慈善事業を行っています。
ただ、ダイアナほどアピールをしてこなかったのです。
ダイアナのことからいろいろ学んだのでしょう。2000年代以降、王室のアピール能力は向上し、慈善事業も喧伝されるようになりました。
ちなみにダイアナの死をめぐる女王の苦悩を描いた映画『クィーン』(2006年)を見て、女王自身も深く心を動かされたようです。
なんと女王を演じたヘレン・ミレンを食事に招待したとか。この招待は、ヘレン・ミレン側の都合で実現しなかったものの、女王自身がそこまで感動したわけです。
インドやマレーシアを訪れて
大英帝国がアジアで終焉を告げたのが、1990年代でもあります。
1997年、香港が中国に返還されました。
同年のインド訪問時には【アムリットサル事件】の現場も訪れ、女王夫妻が慰霊を行っています。1919年、イギリスが支配するインドで最悪の事件とされる虐殺が起こった場所です。この事件以降、ガンディーのよる独立運動が激化したとされます。
このとき、失言癖のある夫のフィリップがまたもやらかします。
「死者2,000人って大袈裟だな。負傷者も含めて2,000人じゃないのか?」
加害者側が、絶対に被害者側へ言ってはならないセリフ。いくら女王が慰霊をしたところで、何もかもが台無しとなってしまいます。
1998年にマレーシアを訪問した際には、女王は車ごとデモ隊に包囲されています。
こうした一連の出来事を通して、女王はアジアの沸騰と、大英帝国の終焉を感じたことでしょう。
21世紀を迎えた2002年、女王はイングランド国王としては5人目のゴールデンジュビリー(即位50周年)を迎えました。
しかし、めでたい年とはなりません。妹マーガレットが2月に他界し、その6週間後には母エリザベス皇太后も亡くなったのです。
たびたびスキャンダルを起こしたとはいえ、その美貌と愛くるしさで愛された妹マーガレット。
夫とともに第二次世界大戦を乗り切り、その知性と人柄で国民を魅了してきて、100歳を超えても健在であった母エリザベス。
女王にとって、あまりに悲しい別れでした。
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