こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【アレクサンドル1世】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
やっぱりナポレオンが嫌いだし、フランスを倒したい
しかし、そんなナポレオンの期待をアレクサンドル1世は裏切ります。
古女房ジョゼフィーヌを離婚したナポレオンは、花嫁探しを始めました。
そして、ロシア皇女であるアレクサンドル1世の妹に白羽の矢を立てると……。
「おはんの妹アンナさぁをおいの嫁じょにくいやんせ」
「お断りします」
アレクサンドル1世は、この申し出を突っぱねたのです。
身分のせいではありません。
のちに彼はこの妹を、ナポレオンの宿敵となる、フランスの平民出身であるスウェーデン王カール14世ヨハン(元はナポレオン配下のベルナドット元帥)に嫁がせようとしていたのです。
どうやら個人的にナポレオンが気に入らなかったようで……本当になんなんだ、この人。
君主の決断とは、むろん好悪で決まるほど単純でもありません。
アレクサンドル1世にとって、暴君の味方よりも、暴君を倒す側に回る方が得策でした。その方が国民は団結し、統治しやすくなるのです。
ロシア国民も、ヨーロッパの人々も、ナポレオンを倒すことを望んでいる。そうアレクサンドル1世は確信しました。
また、ナポレオンの強さにも、陰りが見え始めていました。
1808年の半島戦争において、フランス軍は苦戦。1809年の【アスペルン・エスリンクの戦い】においてはオーストリアに敗北したうえに、ナポレオンを支えてきた名将ランヌ元帥が戦死を遂げていました。
そして1812年。
ついにロシアとフランスは決裂し、フランス軍の戦車が、同盟国の軍勢とともに怒濤の進撃を開始します。
※BBC製作2016年版『戦争と平和』より(フランス軍のロシア侵攻)
フランス軍が侵攻したモスクワは、大火に包まれました。
そして荒廃しきったモスクワから撤退する過程で、今度はフランス軍が大多数を失ってしまいます。
捨て身の焦土作戦です。
イタリア遠征以来、ナポレオンの軍勢は、物資を現地調達でまかなっておりました。
しかし、フランスから遠く離れた地において、物資を手にすることもできません。
大軍ならばなおのこと一箇所に留めるのは危険。
冬将軍が容赦なく命を刈り取ってゆきます。
ナポレオンの誇る「大陸軍(グランド・アルメ)」は、ついにこのとき受けたダメージを回復することはできませんでした。
モスクワを焦がす炎を眺め、アレクサンドル1世は己の使命を確信します。
ナポレオンを倒し、ヨーロッパを救う――。
アレクサンドル1世は反フランス包囲網の先頭に立つ、英雄王としての道を選びました。
慈悲深く平和を願う、繊細な青年君主アレクサンドル1世。
しかし、その優美な顔の裏には、どんな犠牲を払ってでも英雄として名を残したい、強烈な意志も潜んでおりました。
その願いは、叶えられます。
ナポレオンはモスクワ遠征の失敗から立て直すことに失敗し、1814年に退位。
1815年のワーテルローの戦いにおける敗北で、失墜するのです。
しかし皮肉にも、アレクサンドル1世の放つ輝きも、ナポレオンの失墜とともに薄れてゆきます。
無気力に陥る皇帝
ナポレオン以降の秩序を作り上げることになったウィーン会議。
そこに挑むアレクサンドル1世は、自負と気負いにあふれた若き英主でした。
ところがその気持ちは落胆に変わります。
会議の席上で、アレクサンドル1世は必要とはされませんでした。
ナポレオンを倒すまでは一致団結していたものの、それは崩れつつありました。
神秘主義やオカルトに傾倒し始めていたアレクサンドル1世の提案を、参加者たちは真剣には考慮しなかったのです。
秩序をもたらすという顔をしながら、本心はロシアの覇権をもくろんでいるのではないか? そんな風にも疑われました。
このあたりのロシアの立場は、第二次世界大戦後のソ連とも似たものを感じます。
ヨーロッパにとってロシアという国は、非常時には頼りになる味方かもしれませんが、平時になれば鬱陶しい隣人なのです。
それだけではなく、アレクサンドル1世自身の複雑な性格も、人々からすれば胡散臭いものでした。
「あの人は狡猾で、何を考えているかわからないからな」
穏やかで、優美で、誰をも魅了する美貌と知性の持ち主。しかし、本心は誰にもわからない。
なんせ彼は、ナポレオンにすら、かつては心酔していたのです。皆笑みを浮かべてアレクサンドル1世に接している者たちは警戒心を抱いておりました。
アレクサンドルとしても意図的な狡猾さはないでしょう。
複雑な二面性を持つ性格ゆえのことかもしれず、ともかく周囲からすれば胡散臭い人物でもありました。
ロシアでは、外交問題だけはなく、内政でも問題が山積みでした。
若い貴族たちは自由主義に目覚めて改革を迫ります。他ならぬアレクサンドル1世も、家庭教師ラアルプから自由主義を叩き込まれています。農奴制を恥じ、廃止したいとすら考えていました。
しかし、君主にとって自由主義は諸刃の刃。
自由主義に理解を示し、革命の芽を摘み取らなかったために、フランス王ルイ16世は断頭台送りとなりました。
-
無実の罪で処刑されたルイ16世の悲劇~なぜ平和を願った慈悲王は誤解されたのか
続きを見る
権力を保ちたいのであれば、ナポレオンにように徹底して思想弾圧に励んだほうが、都合がよいのです。
自由主義に同調し、革命やクーデターの危険を放置するか?
理想を裏切ってでも、改革主義者を弾圧するか?
アレクサンドル1世は再び、頭の中で天使と悪魔の天秤に挟まれ、身動き取れなくなりました。
思えばナポレオンを倒そうとしていたころ、世界はシンプルでした。
皆団結し、天使と悪魔は黙り込み、たった一つの目標に邁進できたのです。
しかし、そんなことを考えたって仕方ありません。現実は目の前に迫っている。
アレクサンドル1世はかつての溌剌とした活力を失い、次第に無気力となっていきます。
その心の隙間を埋めるように、神秘主義と宗教に救いを求めたのです。
40代に入ると、アレクサンドル1世はナポレオンを倒した栄光よりも、父への所業に対する罪悪感の方が強くなってゆきました。
彼は苦しんでいたのです。
突然の死と生存伝説
1825年9月、アレクサンドル1世は48才の若さで突如崩御しました。
訃報を聞いて、人々は彼をこう評します。
「強い魂に弱い性格を持っていた」
「北国のスフィンクス」
「帝冠を戴くスフィンクス」
「墓に入るまで、ついに理解されることのなかったスフィンクス」
彼の死そのものが不可解でした。
直前まで健康そのもので、体型も理想的。そのまま彫刻のモデルをつとめられそうなほど、美しい肉体を保っていました。
棺に入った遺体を見た人々は驚いております。
遺体は皇帝本人には見えなかった、そんな噂がささやかれました。
それから10年ほど経た1836年。
モスクワから1,600キロほど離れたペルミという村に、正体不明の老人が現れました。
彼は警察に拘束されたあと、老人はシベリアのトムスクという村に送られてしまいます。
フョードル・クジミッチと名乗るその老人は、賢明で親切で、信心深い性格でした。
粗末な格好をしており、髭におおわれているものの、よく顔を見ればなかなか端正。さらにちょっとした仕草にも優美さが感じられるのでした。
次第に彼は住民から尊敬を集めるようになります。
彼と面会した人たちは、その優雅な身のこなし、堂々たる態度に感銘を受け、こう確信するのでした。
「この御方は、かつては身分の高い方であったに違いない」
クジミッチは、記憶喪失状態で発見されたにも関わらず、よく昔話をしました。
「1812年の戦争は、大変なものだった。ナポレオンがモスクワに入場した時のことを、今でもはっきりと思い出せる。クトゥーゾフ、バグラチオン……将軍たちはよくやったものだ」
しかもクジミッチは祖国戦争のことを詳しく語るばかりか、参戦した将軍と個人的な面識があったように語ったのです。
流暢なフランス語を話す姿すら目撃されました。
あるとき、かつてアレクサンドル1世に仕えた兵士が、突如クジミッチを見てこう叫び出しました。
「俺たちのツァーリ様、この方はアレクサンドル様に間違いねえ!」
クジミッチは慌てて「そんなことを言うんじゃない!」と相手を制止します。
彼には冗談として受け流せなかった、ということでしょうか……。
謎の老人クジミッチは、亡くなるまで決しての本名を明かすことはありませんでしたし、彼が生まれたときから“フョードル・クジミッチ”であったと信じる者はおりませんでした。
1864年、87才で天寿を全うしたクジミッチ。
死後は「スターレツ(霊的な父)」という聖人に準ずる称号を贈られました。「スターレツ」の住んでいた家の周囲では、奇跡がたびたび目撃されたのです。
ニコライ2世も皇太子時代日本旅行の帰路において立ち寄り、祈りを捧げました。
一体、これはどういうことなのでしょうか。
「アレクサンドル1世は世を倦むあまり、死を装って隠遁したんだよ!」
「な、なんだってー!」
そんな伝説が、ロシアでは広まっていきました。
前述の通り明智光秀=天海説のようですね。
-
史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?謎多きその一生
続きを見る
しかもです。
後世には「スターレツ」の住んでいた家の跡地に、「聖アレクサンドル」を讃える教会が建てられました。
伝説を通り越して、ついに認められてしまったのです。

スターレツの家あとに建てられた教会/photo by Maximaximax wikipediaより引用
しかし、ご安心ください。
この伝説は、すっきりと解決する方法があります。
アレクサンドル1世の墓を開ければ解決できるはずです。
ニコライ2世界皇女アナスアシアの生存説も、遺体調査によって否定されています。
-
ニコライ2世の惨い最期〜処刑に使われた恐怖「イパチェフ館の地下」
続きを見る
実はアレクサンドル1世の墓は、ソヴィエト政府によって発掘調査が行われているのです。
そしてその結果は
「墓は空であった、あるいは何者かが墓を荒した兆候を発見した」
という結果という……またしてもモヤモヤする答え!
謎が解けたのであれば結果を発表しないはずがないわけでして、これまた何とも……。
さらに2015年には、
「アレクサンドル1世とクジミッチの筆跡には、同じ癖が見受けられる」
と発表されました。
謎は解決するばかりか、深まるばかり。
最後の解決手段としてはクジミッチの遺体鑑定があります。
将来的に実施する可能性はあるようですが、まだ着手はされていません。
生前もミステリアスであった皇帝は、死後も今なお巨大なミステリーを我々に突きつけてきます。
墓に入っても、彼のことを理解できる者はいないのです。
あわせて読みたい関連記事
-
なぜ南光坊天海は家康に重宝されたのか 明智光秀説も囁かれる謎多き僧侶の功績
続きを見る
-
エカチェリーナ2世こそ史上最強の女帝! 多数の愛人を抱えたロシア女帝の迫力
続きを見る
-
ロシア皇帝・パーヴェル1世 マザコンの悲劇~偉大な祖母実母の下で最後は暗殺
続きを見る
-
美脚軍曹・カール14世ヨハンの才 なぜフランス人がスウェーデンの王様に?
続きを見る
-
無実の罪で処刑されたルイ16世の悲劇~なぜ平和を願った慈悲王は誤解されたのか
続きを見る
-
史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?謎多きその一生
続きを見る
-
ニコライ2世の惨い最期〜処刑に使われた恐怖「イパチェフ館の地下」
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
HenriTroyat/工藤庸子『アレクサンドル一世―ナポレオンを敗走させた男』(→amazon)