アレクサンドル1世

アレクサンドル1世/wikipediaより引用

ロシア

ナポレオン軍を殲滅したロシア皇帝・アレクサンドル1世は不思議王か英雄王か

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父を殺す陰謀に一枚噛んでいたのか?

この事件をふまえて、毒舌で知られるフランスの政治家タレーランはこうコメントしました。

「暗殺というのは、ロシアでもっともよく用いられる免職方法ですなァ」

暗殺団はアレクサンドルの元を訪れ、帝位に就くよう促します。

しかし、このあとのアレクサンドル1世の言動が不可解であるため、歴史家は今に至るまで混乱させられるのです。

「ああ、クーデターだなんて、なんということだ、おそろしい!」

アレクサンドル1世は父の暗殺を深く嘆き悲しみ、強烈なトラウマすら抱えたものの暗殺団を処罰しません。

そしてそのまま、23才の新皇帝になったのです。

もしかして父を殺す陰謀に一枚噛んでいたのか?

家臣の単独行動か?

気弱な性格が災いし、陰謀を黙認してしまったのか?

父の死を望んでいたのか?

そうではなかったのか?

そうといえるし、そうともいえない。答えはそんなところかもしれません。

なんせややこしいものを抱えているのです。

 


アウステルリッツで敗北

即位したアレクサンドル1世。

彼は自由主義思想を重んじ、啓蒙君主らしさを持つ若き君主でした。

そのころ、ヨーロッパはナポレオンが台頭し、ロシアもその脅威に怯えていました。

彼は父の中立路線外交を転換させ、ナポレオン包囲網に参加することにします。

アレクサンドル1世は凛々しい軍服と、きらびやかな閲兵式を好みました。

しかしその一方で、血みどろの戦争は考えるのもおぞましいとも思っていたのです。

アレクサンドル1世着用の軍服/photo by Mathiasrex wikipediaより引用

戦争で勝利する英雄にも憧れるし、平和をもたらす名君にも憧れる。

彼の理想は、ナポレオンを倒し、ヨーロッパを救う若き英雄王となることでした。

そしてその機会は、1805年に巡ってきます。

イギリスの誇る英雄ネルソン提督が、その命を散らしながらもトラファルガーの海戦で破った、その年の冬。

「アンチキリストの暴君、コルシカの食人鬼、ナポレオンを倒す機は熟した!」

12月2日、オーストリア帝国とロシア帝国の連合軍が、ナポレオン率いるフランス帝国と激突します。

三つの帝国、三人の皇帝がぶつかった「アウステルリッツの戦い」は、別名「三帝会戦」とも呼ばれました。

アウステルリッツの戦い/wikipediaより引用

当初、数で勝る連合軍は勝利を確信していました。

アレクサンドル1世も勝利を確信していました。

しかし、相手は全盛期のナポレオンです。彼の配下の元帥たちも名将揃い。

勝てる――という確信はすぐまた苦い涙に変わってしまいました。

アレクサンドル1世は、涙のつたう頰をハンカチでぬぐいながら敗走したのです。

トラファルガーの戦いにおける大敗北もなんのその、ナポレオンの復活です。

トルストイの名著『戦争と平和』の主要人物でもあるアンドレイが参戦したのも、この戦いでした。

※BBC製作2016年版『戦争と平和』より、アウステルリッツの戦い。灰色の騎兵がロシア軍、青い歩兵がフランス軍

 


ナポレオン大好き! ティルジットの和約を結んじゃえ

「ここのところずっと考えていたんだけど。ナポレオンってそんなに悪い男じゃないかもしれない。ここは和約を結んではどうかな?」

這々の体でロシアに戻り、連敗を重ねたアレクサンドル1世はそう考えるようになりました。

のちの行動を考えると「嘘つけ」と突っ込みたくもなるのですが、これもまた本心であり、そうではないのかもしれません。

祖母エカチェリーナ2世を愛しながら憎んだように、強大な名君に対して相反する感情があったのでしょう。

1807年、アレクサンドル1世とナポレオンは「ティルジットの和約」を結びました。

アレクサンドル1世とナポレオン/wikipediaより引用

両者は対称的でした。

ナポレオンは小柄で肥満し始めており、粗野で、叩き上げで、極めて実務的な男。

一方のアレクサンドル1世は長身でスタイル抜群です。

優雅で、祖母の愛にくるまれて育ち、理想主義者でもありました。

「あなたはイギリス人を憎んでおりますが、それは私も同じこと。貴殿の行動に対して、私が援助を惜しむことはありません」

「おはんなアレクサンドルさぁか。和平は成立したよなものござんで。すっぱいがうまくいくんそ」

この二人のうち、流暢なフランス語を話すのは、アレクサンドル1世でした。

彼は家庭教師から美しいフランス語を習っていたのです。当時のロシア貴族は、フランス語を話せることが嗜みでした。

一方のナポレオンは、きついコルシカ訛りが抜けませんでした(ここでは薩摩弁で表現しています)。

今ではおなじみの「ナポレオン」という名前も、当時は「なんかダサいローカルネーム」とみられていたのです。

何かと正反対の二人でしたが、たちまち意気投合。二時間ぶっ通しで会話し合い、熱い抱擁すら交わしたのでした。

ナポレオンは、アレクサンドルが自分の虜になったと確信したのです。しかし……。

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