1336年4月13日(建武3年3月2日)は【多々良浜の戦い】が勃発したです。
場所は筑前国(現在の福岡県)。
戦いの主役は足利尊氏ですが、京都・室町幕府の初代将軍となる尊氏がなぜ九州にいたのか?
この戦いにはどんな意義があったのか?
『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(→amazon)に収録されている記事をお借りしてきましたので、同合戦を振り返ってみましょう。
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幕府を倒した元・家臣
鎌倉幕府が倒れ、次に生まれた室町幕府。
その初代将軍となったのが足利尊氏です。
尊氏は「鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ人物」として教科書などでも紹介されますが、彼は初めから鎌倉幕府の敵だったわけではありません。
むしろ、鎌倉幕府側の執権・北条氏に仕える優秀な家臣だったのです。
今で言う「高級官僚」的な立場であった尊氏が、なぜ幕府を滅ぼす側に回ったのか?
それは、幕府が遅かれ早かれ滅びるだろうという予感があったからでしょう。
鎌倉幕府は源氏から北条家へとリーダーが変わり、承久の乱で天皇に勝利すると、天皇家は衰退し、両者の関係は幕府が優位になりました。
幕府は皇位継承にも口を出せる力を持っていたため、幕府の介入によって自身の子孫への皇位継承が失敗することに不安を抱いた後醍醐天皇は倒幕を決意します。
二度倒幕に失敗しますが、諦めず鎌倉幕府を倒そうと全国に呼びかけました。
再び幕府の大きな危機。
このとき尊氏は幕府の命令で後醍醐天皇討伐へ向かったはずが、なんと幕府を裏切って後醍醐天皇側についたのです。
尊氏に言わせれば「このまま幕府に従ってたらオレも滅ぼされちまう! 天皇に逆らい続けることができるわけないだろう!」という思いだったのでしょう。
尊氏という主戦力が抜けたことで、幕府はあっさり倒れてしまいます。
英雄から一転、反逆者へ
鎌倉幕府が滅んだ後、すぐに室町幕府ができたわけではありません。
まずは後醍醐天皇のもと、天皇中心の新たな政権「建武政権」が発足します。
倒幕に貢献した武士たちは後醍醐天皇から厚遇され、中でも尊氏は「倒幕できたのはキミのおかげ!」と評価され、後醍醐天皇から絶大な信頼を寄せられていたようです。
さらには尊氏のライバルも失脚へ追い込まれ、尊氏は安泰な地位を獲得した……はずでした。
しかし、そう簡単にはいかなかったのです。
1335年、滅亡に追い込まれた北条氏の生き残り・北条時行が反乱を起こします。
時行は足利直義(尊氏の弟)が守る鎌倉へ攻め込みました。
弟の救援のため鎌倉へ向かった尊氏。
反乱は無事鎮圧しましたが、尊氏は後醍醐天皇の帰還命令を無視し、無断で功績のあった武士に恩賞を与えるなどの行動に出ます。
後醍醐天皇はこの行動に「尊氏はオレの言うことを聞かない裏切り者だ!」と怒り心頭。
なんと、尊氏を討伐するために大軍を鎌倉へ派遣したのです。
当の尊氏は、後醍醐天皇に逆らったつもりなどまったくなく、「オレが裏切り者………?」とョックを受けてしまったよう。
戦は弟の直義に丸投げし、寺に引きこもってしまいました。
一方、戦を任された直義は討伐軍には手も足も出ずに敗れてしまいます。この結果尊氏は、「天皇か? 弟か?」という2択を迫られたと言います。
究極の選択を前に尊氏は、「直義を見捨てるなんてできねぇ!」と、後醍醐天皇との対決を決意。
反乱軍のリーダーとなったのです。
◆補足解説 中先代の乱
中先代の乱は、 1335年に北条氏の生き残りである北条時行が幕府再興を目指して起こした反乱。
信濃国(現在の長野県)から連戦連勝で鎌倉へ乗り込むと、この地を守る足利直義をも撃破し、鎌倉を占領した。
直義敗北の一報を受け、尊氏は弟の救援を決断。
時行を鎌倉から落ち延びさせるが、この行動が尊氏と後醍醐天皇の対立を発生させる原因となった。
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