「畳の上で死ぬ」という慣用表現があります。
穏やかに自宅の寝所で亡くなる、要は変死や事故死ではないという意味であり、現代人であれば多くの人が迎えたいと思うものでしょう。
しかし、戦国武将の場合はどうか?
実は、最期の最期まで後悔していた人も珍しくなく、大往生に満足していた人のほうが少ないのではと思わされるほどです。
今回は「畳の上で亡くなった」大名の中から、臨終間際の印象深いエピソードを三種類ご紹介しましょう。
豊臣秀吉
天下人・豊臣秀吉の最期は強く無念を滲ませるものでした。
なぜそう言えるのか?
というと遺言状に記されているのです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉の遺言状は複数伝わっていて、例えば以下の三種があります。
1.浅野長政が秀吉から聞き取った内容を記した『太閤様御覚書』
2.早稲田大学所蔵の『豊臣秀吉遺言覚書書案』
3.毛利博物館に所蔵されている『豊臣秀吉自筆遺言状案』
一言で内容をまとめると、こう。
「秀頼のことをどうかよろしく頼む!!」
と、これでは身も蓋もないので、もう少し詳しく見て参りましょう。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
1の『太閤様御覚書』は、秀吉が亡くなる直前、7月15日に諸大名へ提示された11か条のお触れが元になっていると思われます。
内容が最も詳細であり、五大老だけでなくその子息である徳川秀忠や前田利長らにも「秀頼のことをくれぐれも頼む」といった内容が主軸ですね。
当時すでに徳川秀忠の娘である千姫と秀頼の結婚話が進んでいたため、秀忠には「秀頼の舅として力になってほしい」ということだったようです。
利長については「大納言(前田利家のこと)も、もう歳なので、その後を引き継いで秀頼の(後略)」という理由で特記されています。
そのほか以下のようなことが記されていますね。
・家康は伏見で政務をとってほしい
・利家は大坂城で秀頼の傅役をつとめてほしい
これを受けて8月5日、五大老と五奉行は起請文を出しています。
次に2の『豊臣秀吉遺言覚書書案』は、最も公的な遺言状らしい形式です。
こちらでも秀吉は家康に三年間の在京を依頼し、さらに家康が全体の留守居として責任を持つようにと書かれています。
この件に限らず、江戸時代を通して家康や徳川家に不利なものは徹底的に隠される傾向がありますので、ぶっちゃけ、1と2については後年の改ざんがあってもおかしくないと思われます。
3の『豊臣秀吉自筆遺言状案』は写しではありますが、「秀吉が自筆したものを写した」とあるため、今際の際に秀吉が力を振り絞って書いたらしきこと、秀吉が今際の際に考えていたことがわかる生々しい内容です。
慶長三年(1598年)8月5日付けで、なんだか振り絞るようにして以下の言葉が残されています。
「秀頼のこと頼み申し候(そうろう)」
「五人の衆に頼み申し候」
「名残惜しく候」
「(秀頼のことを除けば)何事もこの他には思い残すことなく候 かしく」
必死さが津川ってきますよね……。
なお、末尾に五大老の宛名が記されています。
家康
筑前(利家のこと)
輝元
景勝
秀家
すべての遺言状で五大老の名前順が一致しているわけではないのですが、上から
家康
利家
という点だけは同じです。実力や年齢を重要視して書かれていたことが浮かんできますね。

徳川家康(左)と前田利家/wikipediaより引用
8月5日は秀吉が亡くなる13日前のこと。
最後の最後まで幼い息子のことを案じていたことが生々しく伝わってきますが、
「よその大名に幼い息子を託すくらいなら、身内をもっと信用すべきだったのでは」
「家康も利家も秀吉と大して変わらない年齢なのだから、その後まで考えておくべきでは」
とツッコミたい気もしてきます。
まあ、豊臣秀次事件の時点でそのあたりはあまり重視していなさそうなんですけれども。
徳川家康
秀吉とは対照的に、万全な状況を整えてから亡くなったのが徳川家康です。
家康の没日は元和二年(1616年)4月17日。
大坂夏の陣が慶長二十年(1615年)5月ですから、後顧の憂いを絶つと一年を経たずに亡くなっているのですね。
しかもその間、楽隠居していたわけでもなく、バリバリ働きまくっています。
最期までをざっと追いかけてみましょう。

絵・富永商太
大坂夏の陣後、京都に滞在した家康は、豊臣方から没収した金銀などの整理や参内を行い、後水尾天皇、後陽成上皇、後宮の后妃たちへ銀と綿を進上しました。
他にも、書物の点検を命じたり、大坂城で燃えてしまった刀を鍛え直させたり、秀忠や公家、大名らと共に舞を見物したり、元気そのものです。
この間5月28日に後水尾天皇から「改元」の意向もあり、準備を進めています。
同年7月、家康はいったん体調を崩しますが、すぐに回復し、その直後の7月7日には『武家諸法度』の初版が発布されました。家康の回復を待っていたのかもしれませんね。
万が一そのまま……ということがあれば、法度を出すどころではありませんし。
さらに7月13日には慶長から元和への改元が行われ、7月17日に『禁中並公家諸法度』が出されました。
その後は、時間さえあれば江戸や駿府を行き交いながら鷹狩と移動をひたすら繰り返し、常軌を逸するような活動的な日々を過ごしています。

年が明けて元和二年の1月にも鷹狩に出かけたり、曹洞宗の僧侶から法話を聞いたり、積極的に活動していましたが、1月21日、鷹狩に出かけて帰ってきた後、深夜に痰が詰まって発病したとされます。
豪商・茶屋四郎次郎が勧めた鯛の天ぷらが原因とされることもありますが、定かではありません。
幸い、翌日には回復。しばらく鷹狩先で休養し、駿府へ帰ったのは1月25日のことでした。
知らせを受けた秀忠は父の身を心配し、安藤重信と土井利勝を駿府へ送り、2月2日からは秀忠自身がやって来て、家康が亡くなるまで2ヶ月ほど滞在します。
他の大名からすると幕府をひっくり返す絶好のチャンスにもなっていそうですが、もはや不穏な動きはなかったようです。
「家康発病」の知らせを受けた朝廷は、病気平癒の祈願を行うよう諸寺社に命じ、同時に家康を太政大臣へ推認することを伝える勅使を送っています。
家康は3月17日にその勅使と会って受諾し、3月21日に太政大臣へ任命されました。
しかし、この段階で既に覚悟は決まっていたのでしょう。
勅使と会ったその日に秀忠へこう告げます。
「この病で果てると思うが、思い残すことはない。義直・頼宣・頼房を目にかけるように、これだけ頼んでおく」
既に秀忠が将軍になっていたこと。年齢的にも30代後半だったこともあってか、実に落ち着いた態度です。

徳川秀忠/wikipediaより引用
安藤重信と土井利勝にも「幼き子へ諫言し、秀忠へ仕えるよう伝えてほしい」と言っていたとのことです。
幼き子とは義直たちのことですね。
さらに4月2日には、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝などの側近に死後のことを申し伝えます。
・遺体は駿河久能山に葬ってもらいたい
・葬儀は江戸の増上寺で行うこと
・位牌は三河の大樹寺に置くこと
・一周忌が過ぎたら日光へ小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守となろう
最後の言いつけが東照宮に繋がり、今日に至るわけですね。
これで本当に思い残すことがなくなったのか、4日からは一進一退といった病状になり、11日には食事ができなくなっていたようです。
14日には「今日明日には」という病状になっていたそうですが、亡くなったのは17日の巳の刻(=午前10時の前後2時間くらい)でした。
自分にできることは全てやった――その上で、死んだ後もなお「関八州の守りになる」と明言したとは凄まじいですね。
しかも私欲に妄執することなく、世界史的に見ても稀な太平の世を作ったのですから、天晴れな死に様といえるでしょう。
豊臣秀吉と徳川家康。
天下人二人の最期は、実に対照的でしたが、今回は他に二人の大名にも注目してみたいと思います。
「亡くなる間際の言動」が詳しく記録されている人は意外に少ないのですが、さすがキャラ濃武将の二人は興味深いもので、まずは伊達政宗に注目です!
伊達政宗
伊達政宗の最期については、近習だった木村宇右衛門という人が詳細な覚書を残しています。
それによると江戸へ向かおうとする政宗は、出発時点で既に病を発しており、「最期のご奉公」を意識して向かったとされます。

伊達政宗/wikipediaより引用
江戸には無事着いたけれど、本格的に病状は悪化。
亡くなる前日の23日夜に政宗は
「若い頃には戦場で九死に一生を得てきたが、年を取って畳の上で死ぬとは思いもしなかった」
「上様の先手となって、子らに戦を教えてやりなが死にたかった」
と言っていたとか。
上様こと、当時の将軍は三代・徳川家光です。

徳川家光/wikipediaより引用
家光が参勤交代の制度化を諸大名の前で告げた際、政宗は
「ご命令に背く者があれば、この政宗に討伐をお命じください」
と自ら申し出たことによって、その場の動揺を収めた……という逸話があります。
話が事実かどうかはともかく「政宗が公の場で幕府への忠誠をアピールしていた」のは間違いなさそうですね。
そしてそれは「戦で役に立つ」ことを前提にしたものが多かったため、今際の際にも前述の言葉が出たと思われます。
政宗については関ヶ原ぐらいまで危ない橋を渡っていたこともあって「死ぬ間際まで天下を狙っていたのでは?」と言われたりします。
しかし、これらの発言・逸話や、後継ぎの伊達忠宗の性格や実戦経験がないことなどを考えると、ある程度の年齢から領土拡大に対する欲など消え失せていたのではないでしょうか。
歳を重ねて落ち着いた政宗ってのも悪くないじゃないですか。
というわけで、最後に細川忠興を見ておきましょう!
細川忠興
細川ガラシャに対する偏執的な愛情で知られる細川忠興。
忠興もまた政宗に負けず劣らず強烈なエピソードが多い人ですが、息子の細川忠利に家を譲ってからは、文化人としての顔を強く見せていました。

細川忠興/wikipediaより引用
忠興と忠利は、交代で江戸と国元にいるようにし、手紙で互いの情報を頻繁に送ることによって、代替わりや遠隔地におけるトラブルを防いでいます。
素晴らしい連携ですね。
しかし、忠興が長命だった分、息子の忠利に先立たれるという不幸にも見舞われました。
忠利が危篤に陥ったとき、江戸にいた孫(忠利の子)の細川光尚へ送った手紙が実に泣けるのです。概要だけでも見ておきますと……。
「忠利の病気は良くなったものと聞いていたが、突然危篤だという知らせが来た。
慌てて熊本まで来たけれども、もう手遅れのようだ。
光尚はどうにか幕府へ話をつけて国元へ戻ってきてほしい。
私は気が動転してしまって、どうしていいのかわからない」

細川忠利/wikipediaより引用
なんでしょう、このしみじみと溢れ出る哀しみは……。
かつて「天下一気の短い人物」やら、妻・ガラシャに「鬼」とまでいわれた人と同一人物とは思えません。
忠興は忠利に先立たれた後、四年ほど生きたのですが、今際の際に周囲の家臣たちを見て、
「皆どもが忠義、戦場が恋しきぞ」
「いづれも稀な者どもぞ」
と言っていたとされます。
文字通りに受け取れば、戦場で戦っていた自らの若い頃と、従ってくれていた家臣たちの姿が懐かしかったと取れるでしょう。
あるいは、その頃にはまだ元気だったであろう、愛息子の姿が恋しかったのでしょうか。
政宗や忠興は江戸時代の始まりに対してうまく順応していったといえる人たちですが、それでも根っこの部分にはやはり
「武士は武働きを見せてこそ」
という思いがずっと残っていたのでしょう。
その意味では、この二人も無念を抱えて亡くなったのかもしれません。
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【参考】
小和田哲男『豊臣秀吉(中公新書 784)』(→amazon)
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書 新装版)』(→amazon)
山本博文『徳川秀忠 人物叢書』(→amazon)
小林千草『伊達政宗、最期の日々 (講談社現代新書)』(→amazon)
山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状 (講談社文庫)』(→amazon)





