かつて人気を博した時代劇『鬼平犯科帳』シリーズでおなじみ、長谷川平蔵宣以(のぶため)の姿が2025年に蘇りました。
大河ドラマ『べらぼう』で中村隼人さんが演じ、往年の迫力を見せてくれたのです。
序盤に登場した頃は吉原でカネをたかられる「カモ平」だったのに、ドラマが進むにつれて出世を重ね、今では歌舞伎役者・中村隼人さんの鋭い眼力が見どころの一つにもなっていますよね。
第39回では盗賊集団の葵小僧を捕まえる見せ場も描かれましたが、このときやはり目立ったキーワードが「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」でしょう。
火付(ひつけ)と盗賊(とうぞく)を改める方――字面からある程度想像はつきますように重罪犯を捕まえる警察官みたいなものですが、当時の彼らは実際どんな仕事をしていたのか?
そもそも、どんな経緯で設置された役職なのか?
火付盗賊改方の歴史を、史実面から振り返ってみましょう。
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太平の世が訪れても治安は悪い江戸時代
徳川家康が、三河の家臣団と共に関東へ入り、江戸という都市を作り上げ、太平の世が訪れる――。
戦国末期から江戸初期にかけての時代って、そんなイメージがありますよね。

徳川家康/wikipediaより引用
しかし、都市づくりはそう単純でもありません。
特に難しいのが治安。
豊臣秀吉が家康に関東を治めさせたのは、そこを見越してのことだったのか、当時は武田氏や北条氏の残党が暗躍していました。
戦国乱世を戦い、諜報活動をしていたプロの戦闘集団があちこちに潜んでいるのですから、平和な街作りが簡単なわけありません。
北条と言えば、有名な風魔小太郎が率いた一派もいますよね。
もしも忍の残党が盗賊団ともなれば、その戦闘力は侮れず、取り締まる方にしてもリスクは小さくないので、幕府側も戦闘力を高め、敵を殲滅するほかありません。
また、傾奇者も頭の痛い問題でした。
ファッションが奇抜なだけならまだしも、彼らは市中で暴れ回り、刃傷沙汰をも起こしかねない存在だったのです。
こうした乱世のカオスが残る環境の中で、江戸幕府の体制は、三代・徳川家光の治世で急速に固まってゆきます。
江戸に南北二ヶ所の【町奉行】が置かれたのは、その時代のことでした。

南町奉行所跡(有楽町駅前)
明暦の大火後に制定された「盗賊改」
家康の死後、四代・徳川家綱の時代の明暦3年(1657年)、江戸の歴史を決定付ける【明暦の大火】が発生しました。

明暦の大火(振袖火事)の様子/wikipediaより引用
三ヶ所からほぼ同時に出火したため、放火説が有力の大惨事。
その直後、恐るべき事態が発生します。
盗賊が跳梁跋扈し、江戸の治安が悪化したのです。
町奉行だけでは対応できず、幕府の常備軍である先手頭・持筒頭・持弓頭(あわせて持之頭)が配置されると、不審者がいれば捕らえ、抵抗するものは斬り捨て、治安を保ちました。
彼らが【火付盗賊改方】の前身――明暦の大火が、火災予防を行う【定火消】を生み出し、凶悪犯を取り締まる火付盗賊改も誕生させました。
同職は、家綱の時代に【盗賊改】となり、五代・徳川綱吉の時代となると【博打改】も設置。
盗み・火付け・博打。
これらの行為が江戸の三大犯罪だったことがわかる役職でした。
八代・吉宗「火付盗賊改」を制定する
紀州徳川家から徳川吉宗が八代将軍として江戸へ入ると、様々な改革を実施。
盗賊改と博打改を統合し、火付盗賊改としました。

徳川吉宗/wikipediaより引用
他に、吉宗の採用した画期的な制度として【足高の制(たしだかのせい)】があります。
各役職に「役高」をさだめ、それに満たぬ石高の者が就いた場合、差額分を「足高」として支給するのです。
この措置により、石高が低い者でも高い役職に就く道ができた、画期的な仕組みでした。
では火付盗賊改方はどんな環境で仕事をしていたか?
まず奉行とは異なり、仕事場となる奉行所のような場所がありません。
自邸をオフィスとし、掛かる費用も自腹を切る必要があった。ゆえに熱心に勤めれば勤めるほど、金が出ていった。
そうした理不尽が足高制によって解消され、役職に就くためのモチベーションは俄然あがります。
吉宗は働き方を見て、評価をくだす名君でした。
やればやるほど評価されるとなれば、張り切る者も当然出てきます。
ただし、素晴らしい効果だけでなく、悪しき一面も生み出してしまいました。
享保3年(1718年)に火付盗賊改となったのは、山川忠義です。
名前からして“忠義”であり、この役目にいた期間も歴代2位の長さ。
となれば、さぞかし有能であろうと考えたくなるところですが、なんと彼は「火炙り記録保持者」でもあるのです。
当時、火炙りになるのは放火犯だけでした。
放火犯をそれだけ捕まえたのであれば、有能であると思えます。そう判断したらこそ、長く務めたのだともいえます。
しかし、これを町人目線で考えてみますと、実に恐ろしいものでして……当時は「怪しい」と見なして捕らえられたら、拷問された上で自白を強要された。
日本独自の拷問制度は、江戸時代に生まれたものが多いのですが、ただ怪しいというだけで捕まり、拷問にあい、火炙りとなる――中にはきっと冤罪被害者もいたであろう、と想像すると恐ろしいとしか言いようがありません。

江戸時代の拷問の一つ「石抱」/wikipediaより引用
確たる証拠もないまま、怪しいというだけで捕縛していたら、町人に好かれるはずがない。
このことは重要な点といえます。
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