今年の1月に忘羊社から刊行された『かつてこの町に巨大遊廓があった 熊本・二本木の歴史と記憶を尋ねて』(→amazon)の著者の澤宮優と申します。
本書への思いは序章に書きました。
二本木遊廓が全国に知られるきっかけとなったのが、明治三三年(一九〇〇)に起きたとされる『東雲のストライキ』である。
二本木遊廓でもっとも豪華な東雲楼の娼妓約五〇人が、待遇改善や自由 廃業を求めて接客を放棄し、立て籠ったと伝えられる事件である。彼女たちが歌った『東雲節』は全国に広がり、小学生まで口ずさんだと言われている。…二本木遊廓も他の遊廓同様、負の側面を持っ ている。
私は、かつて栄華を誇った西日本随一の二本木遊廓を通して日本近代の光と影を掘り下げ、その歴史を正しく、ありのまま未来に伝えていくことは一つの責務であり、このままでは二本木遊廓の歴史そのものが忘れ去られてしまうと危機感を抱いた
『かつてこの町に巨大遊廓があった 熊本・二本木の歴史と記憶を尋ねて』より引用
遊廓を扱うことは難しいです。
とくに女性の人身売買が行われた場であるので、基本的人権の立場からもあってはならないものです。
しかし一方的な正義で裁くのも、これも窮屈な見方だと思われます。遊女さんたちを三面記事的にことさらに悲劇として扱うのも疑問を感じます。

遊廓の遊女(古場田博氏コレクションより)
遊廓をどう捉えたらよいのか、今も迷いはあります。
一部の映画やテレビドラマなどに描かれた華やかな世界は、それも事実です。落語に廓話もあります。浄瑠璃や歌舞伎にも遊廓は描かれます。
近松門左衛門の「冥土の飛脚」「曽根崎心中」などに描かれた、女と男の一途な恋物語もありました。
二本木遊廓出身の著名人は、文化勲章を受章した洋画家、世界的なカントリーミュージシャン、宝塚歌劇団の大スター、映画俳優、歌人など数えれば、枚挙にいとまがありません。
文化勲章受章の俳優・山田五十鈴も二本木遊廓ゆかりの人物です。
遊廓は確かに多くの問題も抱えていますが、これほど男と女が見栄や常識を剥ぎ取って、人間の欲望や本性など生々しい人間ドラマが見られるのも特徴のひとつです。
その定義しずらい混沌そのものの姿が、遊廓の特質なのかもしれません。
ただ残念なことにその遊廓に正対して描かれた作品は殆ど無かったように思われます。多様な顔を見せる遊廓のある部分だけにスポットを当てた作品が多いのが現状です。
それだけ描くのが難しいということですが、本書ではあえて正対して書くことで、遊廓を通して、現代に生きる私たちはそこから何を学べるか挑戦してみました。
二本木遊廓というところ
JR熊本駅の南に二本木(熊本市西区)という閑静な住宅街があるが、明治時代には吉原(江戸)などと並んで語られることもあった西日本で屈指の遊廓である。
二本木遊廓は、明治33年(1900年)に東雲楼の娼妓が待遇改善を求め「東雲のストライキ」を起こした伝説があることでも知られる。
二本木遊廓は両側を坪井川と白川に囲まれた細長い郭の形をしている。出入り口が数か所しかないのは、娼妓(認可された遊女)の逃亡を防ぐためであった。

遊廓の周囲を囲む川(坪井川)。昔は水量も多く、ここを渡って逃げるのは困難だった ç
二本木遊廓が発展したのは、熊本が軍都という点に深い関係がある。
明治初期に日本有数の軍隊である熊本鎮台が置かれ、後に第六師団となり、太平洋戦争下では最強部隊の一つとして畏怖された。軍隊の慰安の場として遊廓は存在する。それは熊本の場合も同様だった。
二本木遊廓が作られたのは明治10年(1877年)である。熊本城下の京町にあった遊廓街が、西南戦争で焼けたので、交通の要衝の地である二本木に移ったのである。
明治24年に熊本駅が開業すると、二本木遊廓は遠くからの客も訪れることが容易になり、さらに栄えた。遊廓の前に並ぶガス燈はまばゆいばかりだったと言われる。
大正8年(1919年)には67軒の遊廓があり、約13万5千人が遊客として訪れた。
遊廓の中で代表格が「東雲楼」である。
楼主は中島茂七(1849-1927)で、もとは鮮魚の行商人だったが、大阪堂島の米相場で財をなし、遊廓経営に手を染め、希代の経営者として名を成した。

東雲庭園・『熊本案内』より
茂七は明治16年(1883年)から28年(1895年)にかけて東雲楼の大改築を行い、熊本藩主細川氏の庭園「水前寺成趣園」(通称・水前寺公園)を模した3千300余坪の庭を作った。
日本三大庭園の「後楽園」「偕楽園」「兼六園」にも負けないと自負するほどのできばえだった。
東海道五十三次をイメージした築山、芝生、松、浮石が作られ、娼妓には品川、川崎など宿場の名前をつけた。
本屋は三階建て、破風造りの大玄関に入ると大階段があり、朱色の勾欄、黄金の金具が飾られた。二階には百畳の宴会場と大伽藍と呼ぶにふさわしい作りだった。
東雲楼は「引手茶屋」(遊客を遊郭へ案内するためのお座敷)で、敷地内に「日本亭」という遊廓がある。
客は東雲楼で食事をし、女性たちの芸を堪能し、二次会で日本亭へ移る仕組みだった。女性と床を共にするには、段階を踏むことが当時の高級な店の洋式美だった。
東雲楼の最盛期には、娼妓80余名がいた。
やり手の茂七は二本木遊廓の総元締めとなる。筋骨は隆々、背は五尺八寸(175センチ)と当時では巨体であった。楼主たちの寄り合いでは、その眼光に皆が一斉にひれ伏したという。
ただし彼には学歴コンプレックスがあったようである。
茂七は文盲であった。その反骨がエリート呼ばれる人々を瞠目させる遊廓を作る土台になったのだ。
彼は学歴さえあれば、ゆうに政治家、大臣でも務まるほどの器の広い人物であったと言われている。一代の豪傑であった。
東雲楼の庭には明治27年(1894年)11月に明治の元勲西郷従道が来遊した石碑が立っていた。それも彼の顕示欲の表れだろう。
そんな彼も貧しさで苦界に身を投じた女性たちには、同情も持たなかったようだ。当時の「九州日日新聞」(現・熊本日日新聞)は娼妓たちの身の上をこう記している。
食事は1日二食だったが、多くの娼妓は前夜客の食い残した残りを煮て、副食物とした。
彼女たちが暇をもらい親里に帰っても、1時間を超過したら、身代金、借りた服の着用費を前借金に加えた。
一夜客がなければ、娼妓を部屋に入れず店頭で就寝させた。
娼妓が逃亡したら、その捜索費は本人負担であった。
そんな非道な楼主に彼女たちは怒りを爆発させ、立ち上がることになる。
闇と明るさの交錯する街
闇と明るさが交錯する二本木遊廓を描く絵師がいた。
古場田博(熊本県美術家連盟会員・熊本県文化懇話会会員・平成28年死去)である。
彼は二本木遊廓の近くで昭和24年(1949年)に生まれた。
小学校低学年まで遊廓は存在していたが、親は理由を言わずに「あそこ(遊廓)へ行ってはいけない」と言った。それでも怖いもの見たさで侵入すると、子供ながら、独特な空気感だった記憶がある。匂い、湿度、いろんな恐怖、一言でいえば非日常の空間だった。
古場田は広告代理店でデザイナーとして活躍したが、50歳前に自分の原点である二本木遊廓を描きたいと決意し、何年も取材を重ね作品に残した。

遊女 芸妓百花繚乱(古場田博作・岩田製菓像)
古場田は語る。
「私は日の当たらない人たち、権力の外にある人たち、そんな所で生きた人間に興味がありました。その一つが二本木遊廓にいる人々でした。彼らが文化を築き、経済を担っているのだと知って描こうと思ったのです」
古場田は、平成19年(2007年)に熊本市現代美術館で、「二本木「遊廓」展」を開き、遊廓の絵とともに、全長40メートルの二本木の絵巻物も披露された。これらの作品は、二本木遊廓に生きる人々の息遣いを感じさせ、絢爛な遊廓という舞台を現代に甦らせた。
古場田は言う。
「遊廓を狭い意味でとらえると、最下級の店で肉欲をひさぐだけという所になるかもしれません。しかし上流の店になるほど、日本の文化や政財界を動かす役目もあり、荘厳な文化的サロンでした。お客は知性と粋のある知識人が多かったんです」
二本木遊廓は昼と夜の顔がまったく違うのが特徴だ。二本木本通りの永谷菓子店の息子の永谷誠一(大正15年生)は戦前の光景を語る。
「二本木は昼と違って、夕方の薄暮になると打って変わった華やかな街の表情になります。遊廓に灯がともると仕事始めになり、太夫さんたちが働く店は一段と生き生きします。呼び込みの婆さんもいて独特の雰囲気でした」

二本木「廓」夜景(古場田博作・岩田製菓藏)
店の前には娼妓の肖像画の写真が飾られ、それは娼妓の序列順に並べられる。奥の玄関口には座敷があって、写真の順序と同じに娼妓たちが坐り、そこから遊客が指名する。
表向きは華やかな遊廓街だが、明治33年(1900年)に東雲楼の娼妓たちが自由廃業を求め、娼妓が組織的に客を取ることを拒否した。
同じ敷地内にある日本亭に立て籠もって休業したり、娼妓たちが市内の花岡山に逃げたりした。自由廃業とは、娼妓が借金の有無にかかわらず楼主から解放されることだ。彼女たちには自由の身が最大の夢であった。
これが「東雲のストライキ」と言われる。
私はこのストライキの新聞記事を探したが、当時の新聞で記事を見つけることはできなかった。
私は現段階ではストライキは無かったと考えるが、「火のない所に煙は立たない」で、ストライキ伝説が起こるには何かの土壌があったことは考えられる。その一つはこの頃、自由廃業運動が全国的に流行し、二本木遊廓でも盛んになった事実を考えている。
ストライキについて言えば、東雲楼ではないが、大正15年(1926年)に別の遊廓で起こっている。
娼妓たちは待遇改善を訴えストライキにおよび、楼主に認めさせた。
命がけの自由廃業運動
自由廃業は彼女たちの願いであったが、それまでは国の法律がそれを許さなかった。
遊廓は内務省のもとに各県警察の管轄下に置かれた。
娼妓になるときは、警察で名簿登録を行い、廃業(娼妓名簿削除)するときも警察に申請する。これは本人の意思だけでは認められず、熊本県では遊廓元締の印鑑と貸座敷の連署を必要とした。
それが彼女たちの人生を拘束した。遊廓街からの自由な外出も警察の許可がなければ不可能だった。

東雲楼の煉瓦塀
そのような娼妓たちへ救いの手となる大審院判決が出た。
明治33年2月に函館の娼妓が自由廃業を提訴し、大審院の上告審は「娼妓を拘束する契約は無効とし、借金の有無にかかわらず自由廃業してよい」という判決を下した。
それを受け同年10月に内務省令が発布され、娼妓は楼主を介さずとも、娼妓本人の書面か口頭のみで警察署に行けば廃業届を出せるようになった。
これを契機に、各地でアメリカ人宣教師や救世軍、矯風会などが廃娼運動を行い、自由廃業の指導なども行った。これらの一連の流れに「東雲のストライキ」は位置づけられるべきだろう。
東雲楼に限らず二本木遊廓では、明治33年に虐待を理由に、娼妓たちは自由廃業の挙に出た。
「九州日日新聞」には9月19日に二本木遊廓の娼妓が自由廃業をするため、夜陰に紛れて脱走したが、夜回りに掴まって楼主に大目玉を喰ったという記事が載った。同21日には、清川亭など複数の遊廓から娼妓が10名近く脱走している。東雲楼でも脱走は30人を超えた。
楼主側も遊廓の出入り口6か所に夜警を置くなど、娼妓逃亡の監視強化を行った。博徒に逃亡予防、足抜きした娼妓の捜索を楼主は依頼している。
それでも娼妓たちは命がけの行動に出た。遊廓の周囲を流れる白川や坪井川という大きな河川を渡って警察署に駆け込んだ。
結局、明治33年10月下旬から同34年5月末までの自由廃業者数は260人を超えた。
しかしこの騒動も根本的な解決には至らず、娼妓を救うことはできなかった。
自由廃業をしても、彼女たちは遊廓から支払われた前借金(身代金)を返済できたわけではなかった。
楼主は元娼妓を見つけると暴力的な手段で金を取り立てた。娼妓の実家へ楼主が雇ったやくざが押しかけて、財産を差し押さえることもあった。
経済的自立の方法を持たぬ娼妓たちは、自由になっても結局は私娼となるか、再び苦界に戻るしかなかったのだ。
自由廃業について熊本出身で「矯風会」を作り、廃娼運動を行った矢島楫子がいる。彼女たちの功績は忘れてはならないが、女性識者には差別的目線が含まれていた。
救世軍の病院看護長中尉の高月よねは、「女の世界」という雑誌に「あさましい姿」という題で文章を書いている。
親の為か又は自分が進んでなつたのか知れませんが、何故あゝいう動物的生活をして居るのだらう。露骨な習慣に捉はれて居るのではあるまいかとさう思ひました。
後の東京女子医科大学を創立し、日本の女子教育の基盤を作った一人の吉岡彌生も娼妓を批判する。
彼等があゝして生きてゐるのは殆ど自分の境遇に対して無自覚で、道徳といふものゝ存在も知らず、人道の如何なるものであるかをさへ知らずに生きておるのかと思へばまつたく可哀想と思ふ外ありません。
英語教育者の藤生貞子も厳しい批判を与えている
娼妓――現在の女の中で彼等ほど気楽な呑気なものは恐らく他にありますまい。彼等は常に自由と金を得ることのみ考へて居て更に少しも道義の観念などはありません。全く色と慾との二道にその日ゝを送つて居りますので、言はゞ人間の欲求そのまゝ何の憚る處も無く公々然とそれのみに生きて行くのが彼等の生活です。これ程呑気な生活が他にありませうか。
これらに共通するのは、娼妓の実態を知らず、空想と思い込みだけで述べ、彼女たちの境遇に寄り添う姿勢がない点である。
ノンフィクション作家の永畑道子は、昭和の戦前まであった「からゆきさん」という海外で売春や仕事に従事した女性たちについて、『野の女 明治女性生活史』という著書で論じているが、それはそのまま娼妓にも当てはまることである。それは上記の女性識者の論理の盲点を突いている。
“からゆき”をふくめた娼婦の問題が貧しさとは無縁の豊かな階層のひとたちによって論じられるとき、どうしても啓蒙の気配が濃くなる。娼婦自身の思いは、エアポケットのように真空に陥ちこみ、現実とは遊離した廃娼論がたたかわされる
自由廃業の動きによって二本木遊廓はダメージを受けたのは確かである。
店舗数は減ったが、東雲楼は何とか持ちこたえた。しかし中島茂七は昭和2年(1927年)に78歳で死去する。
追い打ちをかけるように2年後に昭和恐慌が起こり、東雲楼はそのあおりで昭和4年(1929年)に廃業した。その後は廃墟となって、広い敷地と伽藍が残された。
東雲楼の建物の一つ「日本亭」だけはアパートとして経営され、平成まで残っていたが、老朽化のため取り壊された。
東雲楼の庭園は更地となり、現在は駐車場などに利用されている。かつて庭園にあった西郷従道の碑は今はない。

「日本亭」内部にあった太鼓橋(古場田博氏のコレクションより)
人間の匂いのする町
太平洋戦争末期の昭和20年5月に、熊本県菊池市の隈府飛行場から飛び立った特攻機が二本木遊廓に墜落する事件が起こった。
この事件の前夜、二本木遊廓に一人の特攻兵が遊廓にやってきた。そこには好きな娼妓がいたのである。
そこで彼は娼妓に伝えた。
「自分は明日に特攻を控えている。今夜限りの命だと思う。だから明日、この上を飛行機で通るので、最後の別れに手を振ってくれないか」
翌日、時刻通りに特攻機は低空飛行で遊廓の上にやって来た。
娼妓は物干し台から何度もハンカチを振る。男もマフラーを振って旋回するが、別れるのが惜しく、二回が三回になり、下降して何度も旋回した。
そのとき操縦を誤り、そのまま東雲楼跡地の庭に墜落してしまった。特攻機は二人乗りだったが、二人とも即死だった。今その場所は熊本朝日放送の建物が建っている。
地元の古老は語る。
「飛行機が落ちたときはドスンという音がしたから、見に行ったら、もう大変な土煙が上がっていました。道は機体の破損したゴミでいっぱいで近寄れんだった。女が手をふりよらしたから、兵隊さんは舵を取り損ねて落ちらしたとです」
8月10日には熊本大空襲があり、二本木遊廓も空襲で襲われ、建物の大方が焼けた。

東雲庭園・『熊本案内』より
二本木遊廓が作られたときから営業している永谷菓子店・店主の息子の永谷誠一(前述)は、戦前戦後の二本木遊廓の光景を思い出してくれた。
「娼妓(遊女)さんたちがよく店に来ていました。表情はにこにこしていましたけど、売られて来ていることは子供心に知っていたから大変だろうなと思っていました」
遊廓で働く女性は週に一回、二本木のはずれにある熊本県立駆梅院(後二本木病院)で梅毒の検査を義務づけられていた。当時梅毒は不治の病だった。
健診が終われば、娼妓たちは安堵して永谷の店に寄ってお菓子を食べてゆく。店は和洋両方の菓子を作っていたが、彼女たちはシュークリームなど今で言うスイーツが好きだった。永谷は、母親や姉が娼妓たちと世間話で長居する姿を見ていた。
永谷は回想する。
「言うならば淋しい境遇の人たちばかりですからね。家庭の香りとかそういうのが欲しかったのかもしれませんね。母は身の上話をよう聞いていましたが、お互いに慰め合っていた感じですね」
その一方で、こんなにきれいで上品な人もいるのかと見間違うほどの女性もいた。
「何でこんな人が遊廓にいるのかという感じでしたね。気品も教養美もありました。社会事情で借金を作って親のためにとか、自分から身体を投げ出して来たわけですね。いろんな事情があるのだろうと思いました」
二本木は人の匂いのする町でもあった。
刃傷沙汰もあり、遊廓のおかみさんが浮気をして、主人が日本刀で切り殺した事件もある。
二本木にいた80代の女性の話である。
彼女の実家は髪結いをやっていた。そこに遊廓に売られて間もない少女が店にやって来た。彼女は髪結いの親戚から、娼妓がよく苦労話をこぼしに来たことを覚えている。
ある日、髪結いの店主は少女におかずになる物を渡し、「これば食べなっせ。隠しておいて、店の人がおんなさらんときに食べたらよか」と声をかけた。
その女性は言う。
「後に、とても美味しかったと言って、わんわん泣いていたと親戚から聞きました」
店主が出したお茶を、ある娼妓はとても美味しそうに飲み、しみじみと言った。
「お師匠さん、こがん美味しかお茶は飲んだこつはなか」
店主は、妓楼ではどんな粗末なお茶を飲ませているのだろうと哀れに思い、「お茶はどれしこでん(どれだけでも)あるけん、小便ばしかぶる(お漏らしする)まで飲みなっせ」と慰めた。
娼妓の声
戦前から化粧品や煙草店を営む90歳(取材当時)のキエさん(仮名)は、10歳から二本木で暮らしている。取材時も縁台に座って店番をしながら話してくれた。
彼女はふっくらとした穏やかな人柄もあって、娼妓たちの身の上話や相談に乗ることが多かった。買い物に来た娼妓たちは、キエさんに店では言えない身の上話や相談を持ちかけるようになった。
キエさんは言う。
「私は聞き役だったし、なだめ役でした。二本木を話すことは難しいところがあります。何でも言うわけにはいけません。だからなるだけ黙っていたんですよ。だけど今回はお話ししましょう」
キエさんはしばし遠くを見つめ、独り言のように話を始めた。その途中で何度も「可哀想と思うばってん」と呟いた。
店の使いで買い物に来るのは、遊廓に来たばかりの少女が多かった。彼女たちは店に行くと、堪えきれなくなって泣き出すことが多かった。
「なぜ自分はこんなきつい目に遭わなければならんとね。売られるときは行きたくなかとだいぶ泣いたとよ。でも借金が家にあったから仕方がなかったつよ」
キエさんは返す言葉も見つからず、最後にこう慰めるのがやっとだった。
「あなたが不幸ば抱えて生まれてきたとは自分の運命だけん仕方のなかこつと思うしかなかよ。だけん悲しかときは、ここに来て泣きなっせ。ずっと話ば聞いてやるけんね。ばってん店や人前で泣いちゃいかんよ。泣いてばかりで世の中は暮らしていけんから、人前では辛くても笑いなっせ」
キエさんはこうも付け加えた。
「あなたは家ば助けて、親孝行ばしとっとよ。だけん嘆くことはなか。店のおやじさん、おかみさんの言うことば、はいはいて聞いて、客さえとれれば、よかとだいけん。がんばらにゃんたい。借銭を倒してしもたら、帰られるとよ」
やがて彼女たちもいつしか逞しさを身につけてゆく。しかし年季明けで、帰宅を許される者は少なかったという。
とくに娼妓たちを悩ませたのが梅毒である。定期検診で病気が見つかれば、即入院させられる。その入院費も彼女たちの借金に加算された。
取材が終わった後も、キエさんはもう一度呟いた。
「可哀想と思うばってん、しよんなか(仕方なか)もんな」
彼女はいつまでも店前に広がる、かつてあった遊廓の場所を見つめていた。あどけない少女たちの在りし日の姿を思い浮かべていたのだろうか。
二本木遊廓を描いた古場田博の絵巻物の最後の絵は、娼妓が病を得て亡くなる場面である。
精も根も尽き果てた娼妓が、痩せ細って蒲団に目を瞑って寝ている。彼女の上に天女になった娼妓たちが何人も空を飛んでいる。ある老婆が彼女の傍に座り、両手を合わせている。

「二本木遊廓絵巻」の一部(古場田博作・熊本市現代美術館藏)
古場田自ら記した文章があった。
オマージュ 誰よりも悲しく、誰よりも無邪気でだれよりも不幸をいっぱい抱え 這うように生き抜いた遊女達
彼が最後にどうしても描いておきたかったのは、この絵だったのだと思った。
そんな彼女たちの微笑ましい逸話がある。
戦後まもなく熊本日日新聞社で文化講演会を行うことになり、東京から作家の高見順がやってきた。
迎えに来た記者に、高見は「二本木遊廓を散歩したい」と言った。
昼時で娼妓たちも休んでいたので、長身で二枚目の高見順がやってくると、彼女たちは窓から一斉に顔を出して嬌声を上げた。
高見も気安く手を振って合図したから、ますます女性たちは喜んだ。
娼妓たちは、高見を知っていたかわからないが、都会的なハンサムな男性に懸命に手を振る彼女たちに、人気歌手に熱中する現代の若い女性たちの姿を見る思いがする。それは遊廓に生きる彼女たちなりの青春の姿であった。
遊女たちの墓は、二本木にある公共墓地にある。
立派な墓が並ぶ楼主のものと違って、彼女たちの墓は墓地の片隅に、雑草が伸びた中にあった。草を刈り、そこに小さな石が見えた。そこが娼妓たちの墓地だった。
苦海で生きる彼女たちに同情するのはたやすい。
しかし目を向けるべきは、人身売買をせざるを得ない貧困を生み出した社会構造にある。
そして巨大な遊廓たり得たのが軍都であった点である。軍隊のあるところに遊廓は存在する。そういう社会状況に目を向けなければ遊廓の本質は見えてこない。

東雲楼の石灯籠
さいごに
二本木遊廓は、悲しい話ばかりでなく、街に大きな活気をもたらした。
街は多くの商店で賑わい、住人と娼妓との親しい付き合いも生まれ、大人たちは娼妓から相談を受け、子供たちは彼女たちに映画へ連れて行ってもらうなど互いに助け合う関係も生まれ、遊廓と街が一体化していた。
そのような栄華の時代を築いた二本木遊廓を、人々の記憶に少しでも残しておきたい、その一心で取材を続けた思いがする。

澤宮優『かつてこの町に巨大遊廓があった』(→amazon)
