応仁の乱から長く続いた戦乱の世が終わりへ向かい始めたのは、尾張の一領主に過ぎなかった織田信長の台頭によるところが大きい。
その最初の大きな一歩が永禄十一年(1568年)に行われた京都方面への軍事行動、いわゆる【上洛戦】だ。
この戦はどのような目的で、どのような経過をたどったのだろうか。
足利義昭の要請に応じる
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った信長は、尾張の統一と美濃攻略に力を注いでいた。
その間に京都で大事件が起きた。
「永禄の変」である。
室町幕府の13代将軍・足利義輝が三好勢や松永久通(松永久秀の息子)に囲まれ、そのまま殺されてしまったのである。
次の将軍には誰がなるか?
畿内で県勢を維持したい三好勢は、足利義栄を14代将軍に担ぎ上げた。
義輝の弟である足利義昭は奈良興福寺一乗院の門跡になっていたが、この影響を受けて一時幽閉され、幕臣たちによって救出された。
その後義昭は数年間放浪した末に越前の朝倉義景を頼るが、義景は越前一向一揆への警戒や嫡子の夭折等により長期の外征に消極的であった。
しびれを切らした義昭は、より実行力のある協力車を求める。
そこで白羽の矢が立ったのが織田信長であった。
この連絡を務めたのが細川藤孝や明智光秀であり、後年彼らが信長の家臣となる布石ともなる。
信長は同意したものの、美濃を掌握し、稲葉山城を岐阜城と改めるまでは実行を先送りにした。
そして永禄十一年に実行のときがやってくる。
道中
岐阜から京都までは遠い道のりではないが、障害は多かった。
中でも南近江(滋賀県南部)の六角氏は名門でもあり、兵力でも決して侮れない存在だった。
当初は説得も試みたが、六角氏側の返答は芳しくなく、信長は実力行使を選ぶ。
9月12日、六角氏の本拠・観音寺城(近江八幡市)ではなく、支城である箕作城(みつくりじょう、東近江市)を一日で落とし、織田軍の実力を見せつけた。
このとき佐久間信盛や丹羽長秀などの重臣に混じって、木下藤吉郎(豊臣秀吉)も活躍している。
『信長公記』によると、信長はその後観音寺城をも攻め落とすつもりでいたが、六角父子が逃亡した上で家臣たちが降伏したため、人質を取って監視させるのみにとどめている。
ここで岐阜に残していた義昭に連絡を取り、信長軍を追うような形で義昭が西上の途についている。
わずか40日での決着
続いて9月28日、信長は京都を掌握していた三好三人衆方の勝龍寺城()を柴田勝家・森可成らに攻めさせた。
翌29日には信長も出馬し、三好三人衆の一人・岩成友通が降参。
これを受け、同じく三好氏の重臣・松永久秀が名物「九十九髪」を信長に献上し、臣従を示した。
さらにその影響を受けた近隣の有力者たちも、続々と信長の陣所へ押し寄せている。
その後10月14日に義昭が入京し、長年の悲願が叶ったのであった。
義昭との蜜月
10月22日に義昭は征夷大将軍に任官し、信長はその最大の功労者として深く感謝された。
義昭は信長を始めとした「上洛に功のあった人々」に対し、その感謝を様々な形で示している。
まず観能の会を開いたが、十三番演じさせようとして信長から「まだ天下は定まっていないので、少し控えるべきだ」と指摘され、五番に縮めて演じられた。
この会で義昭は信長へ「副将軍または管領に任じたい」と打診したが、信長はこれを断っている。
10月24日に信長は義昭へ暇乞いをしていることからして、掌握したばかりの美濃を長期間留守にしたくなかったのであろう。
義昭は10月25日に信長へ感状を発行し、この中で足利家の紋である桐紋と引両紋の使用を許した上で「御父織田弾正忠殿」と称している。
官職を受けない信長に対し、義昭が最大限の敬意と感謝を込めたものと推測される。
しかし、この蜜月はほんの数年で終わることになる。
長月 七紀・記
参考:
織田信長 (人物叢書) https://amzn.asia/d/1F95hVa
現代語訳 信長公記 (新人物文庫) https://amzn.asia/d/4uAaBBT