そしてその日本刀を扱うための「剣術」は武士必修の武術として長きにわたり脈々と伝承されてきました。
刀を持てる――すなわち「帯刀」を許されていたのは武士の他には力士や庄屋など、一部の職掌の人々に限られていましたが、その技は必ずしも武士にのみ伝わったわけではありませんでした。
そう、殊に幕末において「庶民の剣術ブーム」とも呼べる流行にいたったのです。
最も有名な庶民の剣術に関する例としては「新選組」に関わる「天然理心流(てんねんりしんりゅう)」が挙げられるでしょう。
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局長「近藤勇」をはじめとして、幹部の多くがこの流派の門弟。
近藤は農家の出身ながらも天然理心流第四代を継承しました。
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後の新撰組の活躍によって近藤らは士分に取り立てられたため、まさに剣による立身出世を果たした幕末ドリームの体現者の一人といえるでしょう。
この流派は剛直な剣風と実戦性の高さで知られています。
が、近郷の庶民を中心とした門弟が多く、しばしば遠方の農民のために出張指導にも出かけるなど市井に根付いた剣術でもあったようです。
幕府から剣術禁止令が出されるも庶民の間で脈々と
江戸などの大都市だけではなく、地方の小村でも庶民の間に剣術が流行していたことがわかる史料があります。
徳川御三家の一角である紀州(和歌山県)北部の伊都地方で剣術稽古を行っていた団体が奉納した額三枚が、高野山の山王院に残されています。
うち、「嘉永七年(1854)正月」の年記があるものには「柳生流」を名乗る「田井勇」門下60名弱の名前が列記されており、いずれも在郷の庄屋や村内の役職者と関連のあることがわかっています。
また、「安政二年(1855)」銘の「貫心流」、「郡兵之進信直」門下として37名が記されたものは「名倉願主敬白」の文字が読み取れ、高野山麓の名倉村の住人が中心となって奉納したことを示しています。
もう一枚の額についてはその地域性は詳らかではないものの、「嘉永七年(1854)」の銘と40名の名前が確認され、ミニチュアの竹刀や木刀を架けたと思われる刀架が残っています。
また、高野山麓の橋本市南馬場に鎮座する天満神社にも8名の名を記した奉納額がかけられており、地方単位での剣術の隆盛の好例となっています。
幕府としては、武家以外の武術の鍛錬について否定的。
文化元年(1804)、同二年(1805)、天保十年(1839)の三回にわたって禁止令を通達しております。
ところが、庶民階層において武術の稽古は脈々と続けられており、諸外国勢力の脅威や内政の混乱など、幕末の情勢不安がより一層、庶民の剣術ブームに拍車をかける結果となったようです。
幕末の紀州藩では外国の脅威に備えるため、土豪や有力領主を士分として扱う「地士(じし)」に対して、嘉永六年(1853)に武芸の修練に励むべきことを布達しています。
この頃には地士の身分は藩に貢献の深い商家や医師が拝命することもあり、地士階層の人々が多くなったため、実質的に「庶民」による剣術・武術の隆盛を後押しすることにもつながったと考えられます。
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帯刀コロク・記
【参考】
「幕末の伊都地方における剣術の流行について」『橋本歴史研究会報 第67号』
岩倉哲夫 1996 橋本歴史研究会
「幕末における剣術の流行と農兵制度―伊都地方を中心として―」『文化橋本 第19号』
岩倉哲夫 1998 橋本歴史研究会
『日本の剣術2』 歴史群像編集部 編 2006 学研