ブクブク太った体型に加えて、薄気味悪いお歯黒姿――。
かつて今川義元と言えば、まるでバカ殿、バカ貴族のように描かれ、織田信長に喰われるだけの当て馬キャラでした。
最近はかなりイメージが変わってきたのではないでしょうか。
大河ドラマ『麒麟がくる』では片岡愛之助さんが演じ、『どうする家康』では野村萬斎さんが華麗な舞を披露して話題となりました。
そもそも義元は「海道一の弓取り」と称され、「東海道で一番優れた武士」という高い評価が与えられるほどで、実際、そちらのほうが実情に近いのではないでしょうか。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
本稿では、信長に討たれてしまっただけの滑稽な印象は捨て、真の今川義元に迫ってみましょう。
今川義元は家督継承順の低い五男か
今川義元は、永正16年(1519年)に生まれました。
父は今川家の当主である今川氏親で、母は中御門宣胤という公卿の娘(寿桂尼)。
母の寿桂尼は氏親の正室として今川家にかなり大きな影響を与えていたようで、「女大名」「尼御台」などと称されることもあります。

寿桂尼/wikipediaより引用
しかし、上記のように格の高い出自を有しながら、義元の家督継承順位はかなり低いものでした。
それはなぜか。
義元には複数の兄がいたと考えられるからです。
広く知られているところで二人の兄(今川氏輝・玄広恵探)がおり、また近年では、経歴不詳な彦五郎という人物や、仏教界ではそれなりに名の知られた象耳泉奨も兄とされます。
依然として義元の兄弟については複数の説が乱立していますが、本稿では今川家の五男として進めます。
たとえ大名家の子息として生まれても、これだけの兄弟がいればどのような生涯になるか?
家臣の一員として兄を支えるか。
あるいは出家して俗世間を離れるか。
大半がこのパターン。
義元の場合も後者で、大永元年(1521年)、駿河国富士郡の善徳寺(現在の静岡県富士市付近)に預けられました。
御家騒動を避けるために出家
今川義元の出自にこれといった特徴は見当たりません。
興味深いのは、義元だけでなく嫡男の氏輝と彦五郎を除いた兄弟もそれぞれ出家しているというところです。
戦国の慣例からするとそれほど違和感はないかもしれませんが、当時の今川家が同じく東国の有力大名である【北条氏】の影響を強く受けていたという事実を踏まえると、ある疑問が浮かんできます。
北条氏は、基本的に当主となった兄を補佐する弟たち(一門衆)が家臣となり、彼らの働きで成長していった一族です。
それゆえ彼らの影響下にあり、この頃はまだ一流の大名と呼べるほど勢力が大きくなかった今川家も、その「成功例」にならうのが妥当に思えます。
ところが義元の父・氏親は、まず嫡男の氏輝と、彼が病弱だったための「保険」として彦五郎を家元に残し、それ以下の弟三人を出家させたと考えられているのです。

義元の出家先となった建仁寺
これにはもちろん理由があります。
・今川家は家督継承をめぐって内乱が絶えず、兄弟を遠ざけることで争いを避けた
・今川家には嫡子を除いた男子を僧侶とする習いがあった
・有力な寺社に息子たちを預けることで、仏教界に「コネ」を作ろうとした
義元の生涯を見直す限り、「仏教界との関係づくり」という目的自体は果たせていたと考えてよいでしょう。
すぐ後に義元の「師」として有名な大原雪斎と過ごした幼少期についても解説しますが、仏教世界が彼にもたらした影響は大きかったからです。
一方、「後継者争いを避ける」という目的については、残念ながら見込み違いに終わってしまいました。
今川家に勃発した御家騒動【花蔵の乱】についても、また後で詳細に触れていくこととします。
生涯の師・雪斎との出会い
善徳寺に入った義元は、そこで父による三顧の礼をもって教育係に迎えられた僧侶・大原雪斎と出会いました。
彼らは善徳寺で数年ほど修行をしたのち、上洛して京都の建仁寺や妙心寺に滞在。
義元は幼いながら都で一流の公家や文化人と交流を深め、栴岳承芳(旧説は梅岳承芳)という名の僧侶として、非凡な才覚を高く評価されていたようです。
しかし、すでに家督を継承していた兄の氏輝によって「駿河(今川氏)と甲州(武田氏)の間で戦乱の気配がある」との知らせが届き、天文4年(1535年)ごろに善徳寺に戻りました。
しばしば指摘される「義元の貴族趣味」については、おそらく幼少期に一流の文化人たちと交流をもったことが根本にあるのでしょう。
駿河に帰ってからも、祖母・北川殿の邸宅を改装した善徳院にて、流されてきた公家らと積極的に交流。
義元は彼らの影響から文化人として振舞い、戦国大名屈指の教養を身に着けていくのです。
ゲームなどで「麻呂言葉に、白塗りの顔」で表現されるのもこのためでしょう。
勘違いしてはいけないのが、こうした「教養人であること」は戦国乱世といえども重要だったということです。
話を戻しまして。
駿河へ戻った義元のもとに衝撃的なニュースが飛び込んできました。
天文5年(1536年)、今川家当主の座に就いた今川氏輝と、その弟である彦五郎が同日に死去してしまったのです。
いくら氏輝が病弱といえど、弟ともども同日に亡くなるというのは明らかに不審。
当然、二人の死をめぐって「自殺説」や「暗殺説」が囁かれてきましたが、今なお具体的な死因は不明です。
ともかく、二人の兄の死により、義元に家督継承のチャンスが舞い込んできたのは間違いありません。
彼の兄のうち象耳泉奨(しょうじせんじょう)は家督に興味を示さず、もう一人の兄・玄広恵探(げんこうえたん)も、母が優先順位の低い側室(福島正成の娘)だったのです。
例えば、同じ織田信秀の子供でも、側室生まれの織田信広(長兄)に家督は引き継がれておらず、正室・土田御前の実子・織田信長(次男)が継いでますよね。
しかしながら、義元の家督継承に「待った」をかけた人物がありました。
花蔵の乱
義元の当主就任に「待った」をかけたのは、他ならぬ兄の玄広恵探です。
出自的には不利なはずなのに、彼には「兄の自分が優先されるべき」という思いがあったのでしょう。また側室とはいえ、母の生まれが有力家臣・福島氏だったのも影響していると思われます。
義元と玄広恵探。
二人の家督継承争いは、従来「玄広恵探が個人的に反乱を起こした」という、比較的小規模なものだったと考えられてきました。
ところが近年では、福島氏を中心に大きな勢力が敵対しており、「家中を二分するほどの大騒動だった」という見直しが進んでいます。
なんせ義元の母である寿桂尼が「花蔵(玄広恵探)と同心(心を合わせること)した」というのです。
今川家にとっては重要かつ複雑な一大事件でした。
両者の対立は、後に【花蔵の乱】と呼ばれる戦いに発展。
壮絶な御家騒動が始まりました。
乱については詳細な史料が残されていないため深堀りすることができませんが、義元方についた大原雪斎や岡部近綱といった人物らの活躍によって合戦を優位に運びます。
そして、義元側に北条氏が介入したこともあって見事に勝利を挙げた――と考えられてきました。
ところが昨今は「北条氏は玄広恵探に味方したのではないか」と考えられるようになっています。
寿桂尼と福島氏の間には密接な関係があったうえ、寿桂尼の娘と北条氏康は結婚していました。だとすれば、北条氏が玄広恵探に味方する理由は十分に存在します。

北条氏康/wikipediaより引用
加えて、以上が仮に真実だとすれば、寿桂尼の裏切りや戦後の外交政策にもすべて説明がつき、極めて妥当な線に見えてくるのです。
やはり【花蔵の乱】は単なる局所戦ではない。
現代においてはその実像を解き明かせない複雑で大きな戦いだったと考えた方がよさそうです。
もっとも、個人的には乱の発生によって「義元に敵対する勢力」が一掃され、その後の躍進につながったのではないか、と見ています。
武田氏との同盟はなぜ?
乱に勝利した義元は、当主としての地位を盤石なものにしました。
政治面でも大原雪斎の補佐を受け、本格的に戦乱の世へと歩み始めます。
天文6年(1537年)、義元は氏輝以前の外交戦略を大きく見直す、ある決断を下しました。
武田信虎の娘を正室として迎えることで、武田氏との同盟を結んだのです。彼らは代々、今川家と敵対関係にあり、この知らせは衝撃的なニュースでした。

武田信虎/wikipediaより引用
結果、これまで築き上げてきた北条氏との関係を悪化させてしまいます。
武田氏と北条氏は対立関係にあり「敵の味方は敵」とみなされたのです。
これまでの説ですと、この義元による「外交政策の大転換」が謎とされてきました。
なぜ義元は、わざわざ北条氏と敵対したのか。損得勘定を考えると、まるで道理に合わない。
しかし【花蔵の乱】が影響していたとすれば?
北条氏が義元に敵対していたと考えれば、この外交転換は大いに納得がいきます。
義元の当主就任には、その背景に武田氏がいたと考えるべきで、【甲駿相】三国の関係性がいかに複雑であったかを物語っています。
問題は「花蔵の乱に武田氏が介入した」という有力な史料が残されていないことでしょう。ゆえに仮説の粋を出ないのです。
いずれにせよ義元が武田と手を結び、北条と敵対した事実は事実。
反感を抱いた北条氏綱はすぐさま今川領であった駿河国河東地域に出陣しました。
【河東一乱】の幕開けです。
第一次河東の乱
天文6年(1537年)2月から始まった【第一次河東の乱】。
今川領へ侵攻してきた北条氏綱軍は非常に手強く、義元は苦戦を強いられました。

北条氏綱/wikipediaより引用
北条軍は、駿河より西の三河・遠江国にも調略を仕掛け、義元を挟撃しようと画策します。
彼らの目論見は成功したようで、今川一族に類する堀越氏や遠江の有力国人である井伊氏が義元に敵対。
結果として河東地域は完全に北条氏の手に落ちてしまいます。
ただでさえ家督継承直後という不安定な時期であり、義元は精神面にも大きなダメージを受けたことでしょう。
乱の結果としては、北条氏の侵攻は武田氏の援軍によってなんとか食い止められ、河東地域を切り取られるものの自然休戦の状態に落ち着きました。
武田軍の存在もあって北条氏がこれ以上の侵攻をすることはなく、月日が流れていきます。
ところが、です。
盟友関係とも思われた北条氏を裏切ってまで手にした武田氏との同盟が、危うくなってしまう事件が勃発してしまいます。
天文10年(1541年)、同盟相手である武田信虎が「領主として悪逆非道な行いをした」として武田家を追われてしまったのです。
息子の武田晴信(武田信玄)により信虎は駿河へと追いやられ、義元は血縁関係からこれを受け入れざるを得ませんでした。
結果的に後継者の信玄と同盟の継続ができたため大事には至りませんでしたが、義元も肝を冷やしたことでしょう。
あるいは武田軍との連携を途絶えさせたくないからこそ、信虎を引き受けたのかもしれません。
天文14年(1546年)、義元は武田信玄と組んで河東地域の再支配を目論みます。
最初は京都の公家らと通じて和平の道を探っていたようですが、それが不調に終わったためここに【第二次河東の乱】が勃発。
義元軍は家督継承直後であった北条氏康率いる北条軍とよく戦い、さらには関東の山内上杉氏とも連携して優位に戦を進めました。
そして信玄の介入や雪斎の活躍もあり、河東地域から北条勢を追い出したうえでの和睦を成立させます。
義元を苦しめた河東一乱はなんとか終息をみることになったのです。
今橋城の戦い
北条氏を相手とする泥沼の争いから解き放たれた義元。
さっそく三河方面の攻略に乗り出しました(一方の北条氏康も関東北部の平定に専念します)。
ターゲットとしたのは東三河地域です。
まずは雪斎を大将とする攻略軍を派遣し、戸田宣成を攻めました。
【今橋城の戦い】です。
同合戦では、家臣の天野景泰らによる活躍で見事に勝利を収め、東三河の一部を占領。その地を足掛かりに、三河の敵を一掃しようと目論みます。
しかし、この今橋城の戦いによって今川の脅威を実感したのか。三河の先にある尾張国の戦国大名・織田信秀が西三河の松平氏に攻め込む構えをみせます。
西三河で一定の勢力を有していた松平氏は、天文6年(1537年)より義元に服属するような立場でした。
義元の庇護によってなんとか勢力を維持していた松平広忠に、織田氏と争うだけの力はありません。
近隣の水野信元にも見限られ、松平氏は窮地に陥っておりました。
広忠は、義元に救援を乞います。
知らせを受けた義元は「息子の竹千代(=徳川家康)を人質に入れよ」と回答。
嫡男を預けるのは心臓を掴まれるにも等しい行為ですが、弱小・松平家には他に選択肢はありません。
結果、彼の息子である【竹千代】が義元のもとへと送られ……ることはありませんでした。

竹千代(少年期の徳川家康)と今川義元像
なぜなら道中で田原城を領有した戸田宗光・戸田堯光親子の計略にハマり、竹千代一行は織田信秀のもとに届けられてしまったのです。
義元は当然大激怒。
天野景泰らに命じて田原城を攻めさせ、包囲戦のすえに城を落としました。
こうして義元の勢力は三河に大きな影響を与えるようになり、同じく三河攻略を目論んでいた織田氏との対決は避けがたい情勢になっていったのです。
※竹千代の人質奪還騒動については「はじめから織田家へ送られた」という説も最近は有力になりつつありますが、ここでは従来の定説で進めます
小豆坂の戦い
信長の父であり、尾張の虎とも称される織田信秀。
義元は、この信秀との戦いに備え、東三河地域で戦の準備に着手しました。主に実務を担当したのは雪斎で、周辺勢力の服属や兵糧の確保を進めます。
そして、天文17年(1548年)に【小豆坂の戦い】が勃発、義元と信秀はついに直接対決することになったのです。

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用
この両者は天文11年(1541年)にも戦を行ったという記述が『信長公記』の首巻にあり、そのときの戦いを【第一次小豆坂の戦い】、今回の天文17年を【第二次小豆坂の戦い】とする説もあります。
ただし、第一次については他に有力な証拠がなく、この時期に「岡崎方面で義元が力を有していた」という設定に無理があるとして、近年は事実ではないと考えられています。
第二次小豆坂の戦いに関しては、家康の家臣が編纂した『三河物語』に詳しく描写されています。
信秀は、岡崎城を襲撃せん!と打って出ていき、義元は雪斎を中心とした軍勢を同地域へ送り込みました。
両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、最終的には、損害がひどく戦を継続できなくなった信秀が安祥城へと退却したことで今川軍の勝利となります。
信広と竹千代の人質交換
敗戦した信秀は、安祥城に長男の織田信広を配置。
西三河攻略への執念をみせました。
一方の義元も早急に織田氏の勢力を三河から駆逐したいという思いがあり、再戦は時間の問題となります。
しかし、ここでまたも風雲急を告げる出来事が勃発。
天文18年(1549年)、松平広忠が死亡したのです。
側近の岩松八弥に殺害されたとも、病死だったともされますが、義元にとっては到底歓迎できる事態ではありませんでした。
広忠の息子・竹千代が織田氏に囚われている以上、残された松平家臣らが織田への従属を決めかねないからです。
【今川&松平】
vs
【織田&水野】
だった関係が
【今川】
vs
【織田&水野&松平】
となりかねません。
義元はこのリスクへ即座に対処し、松平家の岡崎城を接収すると人質を何人か確保する非情な対応を実行。
その上で太原雪斎に命じて安祥城を攻めたのです。
「一家の存亡」がかかっていた松平家臣らも、今川に協力を惜しみません。
この戦では彼ら「岡崎衆」は先手役に命じられ、地の利を活かして奮戦、今川軍とともに安祥城を包囲します。そして無事に城を落とし、織田信広を生け捕りにしました。
今川にとって、この一戦は非常に大きな契機となりました。
・織田信広と竹千代を人質交換
・松平家跡取りの竹千代を確保し、三河を完全平定
・尾張への攻撃が可能に
大河ドラマ『麒麟がくる』で染谷将太さん演じる織田信長が、人質交換に対して激しく反発しておりましたのは、こうした背景があったからなんですね。
三河へ攻め込む気だった織田は、逆に尾張へ攻め込まれるピンチに追いやられたのです。
そのために今川義元が進めた鬼手とされるのが【甲相駿三国同盟】です。
甲相駿三国同盟の真実
尾張進出と三河の統治を優先したいと考えた今川義元。
背後にある武田氏だけでなく、これまで敵対してきた北条氏とも和睦を結んだことはよく知られます。
今川義元・武田信玄・北条氏康の三者が義元ゆかりの「善徳寺」で直接会談し、互いに政略結婚を重ねた【甲相駿三国同盟】ですね。
特に、この会談の場面は【善徳寺の会盟】としても華々しく後世に伝えられ、大河ドラマ『武田信玄』や『風林火山』においても名シーンとして親しまれてきました。
しかし……。
俗説と有力説が入り混じっているのが実情で、結論から言ってしまえば「善徳寺の会盟がなかった」というのはすでに証明されています。
また、政略結婚の時期にもそれぞれズレがあると指摘されています。
実際のところは、北条氏と今川氏それぞれと友好的だった武田氏が中心となり、個別に同盟を構築していったというのが実情でしょう。
武田=北条
武田=今川
↓
今川=武田=北条
義元の正室(武田信虎の娘)が亡くなった後の天文21年(1552年)、義元の娘である嶺松院が、信玄の嫡男である武田義信と結婚。
甲駿同盟は継続されており、その翌年に武田=北条間の同盟が締結、残すは今川=北条間のみだったのです。
【花蔵の乱】に続く【河東の乱】から、今川家と北条家の関係が冷え込んでいたのは、前述の通り。
これを解消するため、その翌年には北条氏康の娘・早川殿が、義元の嫡男である今川氏真と結婚し、ついに【甲相駿三国同盟】が成立するのです。
同盟の趣旨としましては……。
互いを攻撃しないという不可侵条約から一歩進んで「同盟国が攻撃されたら援軍を出す」という、今風に言えば集団的自衛権に近いものでした。
実際、第二次川中島の戦いにおいては、義元が信玄の援軍に家臣を派遣しており、さらには上杉と武田の和睦をも斡旋しています。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
同盟最大のメリットは、それぞれが背後を気にすることなく目の前の敵に集中できたことでしょう。
◆武田家→信濃へ ※主な敵・上杉謙信
◆北条家→関東へ ※主な敵・上杉謙信
◆今川家→尾張へ ※主な敵・織田信秀
武田信玄と北条氏康を同時に相手にする上杉謙信ってヤバすぎない?
そう思われるかもしれませんが、それは別の記事に譲りまして、あらためて今川義元に注目。
※以下は上杉謙信の関連記事となります
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北条氏との争いから一時は衰退しかけた今川氏を見事に立ち直らせ、
・駿河
・遠江
・東三河
・西三河
と次々に勢力固めを成し得た義元は、いつしか【海道一の弓取り=東海道で最も優れた武士】と称されるようになり、名実ともに天下を狙えるだけの戦国大名となったのです。
桶狭間前夜
かくして今川氏の地位を盤石にした義元。
実は、弘治2年~永禄2年(1556~1559年)の間に家督を嫡男・氏真に譲り、隠居の身となっています。
もちろん「引退」したのではありません。
自身が健在のうちに後継者を示すことで【花蔵の乱】の二の舞を防ぎ、駿河や遠江の支配を氏真に任せ、自身が三河国(とそれに続く尾張)の統治に集中するためだったと言われています。
しかし、それこそが戦国期でも一二を争う大激震へと繋がるんですね。
そう、【桶狭間の戦い】です。
短期間で三河を支配した義元は、隣国・尾張への攻撃を継続します。
と言っても尾張攻めの目的が「上洛説」というのは近年ではほぼ否定されたような状況です。

絵・富永商太
なぜ義元は大軍を率いて尾張へ向かったか?
「尾張方封鎖解除説」→尾張国境沿いにある鳴海領を確保し、領国に平和をもたらす
「三河確保説」→三河国の支配を完全なものにする
「尾張侵略説」→尾張の攻略を狙った
「東海地方平定説」→天下とまではいかずとも東海地方の支配を固める
上記のように様々な学説が乱立している状況ですが、尾張をターゲットにしていることに変わりはありません。
桶狭間当日
義元は尾張攻略戦に、相当な準備をもって向かいました。
史料によって軍勢の総数はまちまちですが、少なく見積もっても2万。自ら尾張へと乗り込みます。
軍勢の中には徳川家康も家臣の一人として参戦しており、今川家の前線支城である大高城へ兵糧入れを命じられていたことが確認できます。
一方、迎え撃つ織田家の軍勢は、義元に比べると明らかに少ないものでした。
加えて、当時の織田家を取り仕切っていたのは「大うつけ」として馬鹿にされていた織田信長です。

若き日の信長イメージ/絵・富永商太
家臣らは「織田家の命運もこれまでか…」と嘆いていたところ、信長は少兵をもって桶狭間で立ち止まる今川軍を迂回して襲撃し、奇襲作戦によって見事な勝利を挙げた、という通説は皆さんもよくご存じでしょう。
しかし、「桶狭間」の実像は、我々が知る上記の展開とは少し異なっていたようです。
『信長公記』を参考にすると、大高城に兵糧を運ばせてしまったことでピンチになった信長でしたが、家臣らの前では落ち着き払って「敦盛」を舞い、熱田神宮へ戦勝を祈願したのち、少兵を率いて出陣します。
当時は天候が荒れ模様で、雨が上がると信長は無謀にも正面から義元軍へ飛びかかっていき、壮絶な乱戦の中で退却していく義元を討ち取ったとされます。
『信長公記』の情報に加えて近年の研究を補完しておきますと……。
信長の兵は、少数ながら屈強な精鋭部隊でした。
家督を継げない武家の次男以下を専属の親衛隊として従え、普段から戦闘のプロとして仕上げていたんですね。
黒母衣衆(佐々成政)や赤母衣衆(前田利家)などで知られますように、非常に強兵だったのです。
一方、義元軍は雑兵も多い大軍だったため指示の伝達が遅く、さらに信長との決戦に備えて徳川家康の軍を後方に下げていたことも大きかったとされます。
信長の出現は、奇襲というよりセオリー無視のタイミングだったため、義元も策を見誤ったのではないか?という指摘もあります。
いずれにせよ今川義元が死んだことは確か。
享年42。
武田氏や北条氏と互角に渡り合ってきた「海道一の弓取り」であっても、たった一度の戦ですべてを失ってしまう――まさに戦国乱世を象徴する出来事でした。
卓越した領国経営センスと文化的素養
日本人の信長贔屓のせいなのか。
「貴族趣味にかまけていた」
「桶狭間で慢心していた」
などと言われ、評価の低かった今川義元。
しかし、その軍事外交政治手腕が卓越していたことは、ご理解いただけたのではないでしょうか。
実は彼の功績はそこだけに留まりません。
義元は領国形成センスと、文化人とての才能にも恵まれておりました。
まず、義元は領国で本格的な検地を実施しました。
かなり重要な施策と考えていたようで、大規模なものから小規模なものまで頻繁に実施、土地生産能力の把握に成功します。
さらに家臣を「寄親」と「寄子」に分類して上下関係を明確にし、【寄親寄子制】を根付かせました。
経済面でも非凡です。
金山の開発や流通・商業の整備に力を入れ、今風に言えば「殖産興業」にも手間を惜しまなかったのです。
父・今川氏親の出した分国法『今川仮名目録』への条文追加も行うなど、法整備にも尽力しました。
しかし駿河・遠江・三河は生産能力が低い=年貢を集めにくい土地であったため、段銭や棟別銭といった年貢以外の税金で財源を確保していたようです。
それが結果として百姓らの負担を大きくさせ、義元死後に今川家が瓦解する原因になったという指摘もあります。

義元の跡を継いだ今川氏真/wikipediaより引用
最後に、文化人としての教養をご紹介しましょう。
幼少期に京都や善徳院で一流文化人らと交流していたことはすでに触れましたが、成長した後もその素養を保ち続け、駿河は大内氏や朝倉氏と並び「戦国三大文化」と称されるほどになっていきます。
義元は都から積極的に文化人を招き、駿府の城下町を「小京都」のようなつくりにしていました。
公家と寺社双方の文化を上手に取り入れ、特に京都五山から大きな影響を受けたようです。
義元自身としても茶の湯や和歌に精通。
能楽など各種芸能を愛する人物でもあったようです。
息子の今川氏真が蹴鞠にのめり込んでいたことは有名ですが、義元も「蹴鞠スト」だったかもしれません。
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【参考文献】
小和田哲男『今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
有光友學『今川義元 (人物叢書)』(→amazon)
藤本正行『桶狭間の戦い (歴史新書y)』(→amazon)
日本史史料研究会/大石泰史『今川史研究の最前線:ここまでわかった「東海の大大名」の実像』(→amazon)





