豊臣秀吉や明智光秀をはじめ、前田利家に柴田勝家、丹羽長秀などなど。
織田信長のもとには数多の有名武将がおりますが。
もしも長生きしていれば、もっと出世を重ねて後世にその名を轟かせたであろう――という人物がおります。
森可成(もりよしなり)です。
浅井朝倉軍の蜂起で信長がピンチに陥ったとき、少数の兵を引き連れ、敵の進軍を阻止。
激戦の末に命を落とした猛将でありますが、今回の主人公は彼ではありません。
※以下は森可成の関連記事となります
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彼の息子にして森家を継いだ森忠政で、嘉永11年(1634年)7月7日が命日です。
可成の子供たちと言えば、戦国ファンにとっては「人間無骨」の十字槍で勇名を馳せた鬼武蔵こと森長可(ながよし)や、信長に仕えた美形小姓の森蘭丸などが知られますよね。
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一方、忠政となると「この人、誰?」状態。
当コーナー『日本史ワル査定』に登場するぐらいですからステキな話ばかりでないことはご想像つくと思います。
初めに、最大の負の特徴だけ記しておきましょう。
この森忠政、なぜか「磔」が大好物というヤバい方だったのです。
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小姓をクビになったと思ったら本能寺とは……
森可成の6男として生まれた森忠政は、他の兄弟同様に織田家に仕え、1582年の春頃、信長の小姓となります。
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しかし、初っ端からイキナリ
・同僚の頭を扇子で殴り、3日で暇を出される
という香ばしいエピソードを発します。
それでも生まれついての強運というか悪運をお持ちなんでしょう。
これが幸いして【本能寺の変】に巻き込まれず、その結果、森家の跡取りになってしまいます。
後に、兄の長可は小牧・長久手の戦いで死んでしまうのですね。
森忠政に跡を継がせたくなかった長可は『ヤツはダメですよ』という遺言状を遺していたようです。
しかし、結局、継いでしまいます。
それどころか豊臣政権下で上手く立ち回り、豊臣姓、羽柴姓を下賜されて桐紋の使用もオッケー♪と秀吉に可愛がられるのですから、同家にとっては正解だったのかもしれません。
しかも秀吉が死んだ後は、ソッコーで徳川家康に擦り寄る要領の良さ。
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勝ち馬の匂いを嗅ぎ取るのが非常にうまかったようです。
高坂昌元一門を磔! 一揆の農民たちを磔!
1600年2月、森忠政はかねてより希望の信濃川中島へ加増転封されます。
そこでまず進めたのが……
・天正壬午の乱で長可を裏切った高坂昌元一門を全員・磔(はりつけ)!
でした。
ドラマ真田丸では、昌幸にハメられて悲惨な最期を遂げた高坂昌元さん。
実際は北条氏との内通が上杉景勝にバレて粛清されますが、その関係者たちも悲惨な目にあってたんですね。
直後に起きた関ヶ原の戦いで、森忠政は直接の参戦こそなかったものの、徳川に反発する一揆の鎮圧で功績をあげ、そして2年後、領地全域を対象に「右近検地」と呼ばれる鬼検地を行いました。
結果、石高は5万石ほど上昇し、領民は重税に苦しみ、一揆が暴発します。
しかーし……。
・徹底的に弾圧して数百人を磔!
となりました。
磔にする柱は足りたのか?
って少しズレた疑問を抱いてしまいますが、この忠政さん、評価の難しいところがありまして。
なんというかただ単に冷徹な人間ではないというか、実は人の心の機微を感じ取る嗅覚にも優れていると申しましょうか。
1603年に美作18万石6500石(津山藩)へ加増転封が決まった際のことです。
彼の信濃での悪政を聞いた地元民が反発してここでも一揆を起こされてしまうのですが、今度は力づくで磔にするのではなく、地元の有力者を凋落し、一揆をグダグダに終わらせてしまうんですね。
調略された農民たちが情けないというよりも、森忠政が人の心の隙をつくのが上手なのでしょう。
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