中国地方の覇者として知られ、元亀2年(1571年)6月14日に亡くなった毛利元就。
一本の矢なら簡単に折れるが三本の矢なら強固となる――そんな「三本の矢」の逸話で広く知られた戦国大名は、元々、同エリアの地方領主に過ぎなかった。
それがなぜ最大8カ国にも及ぶ支配を可能にしたのか?
数多の策を弄した【謀将】としても知られるが、一体どのような手段を講じてのし上がったのか?
知っているようで知らない。毛利元就の生涯を追ってみよう。
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毛利元就は明応6年(1497年)に生誕
毛利元就は明応6年(1497年)3月14日、中国エリアの安芸(現在の広島県)に生まれた。
父は内陸部の国人領主・毛利弘元。
母は福原広俊の娘である。
国人領主とは、現在ならば知事に相当する大名にはほど遠い、町長レベルの支配領域を持つ勢力だった。
両親の間には、先に生まれた毛利興元という嫡男がいて、次男の元就にはこの時点の相続権は無い。
幼名は松寿丸と言い、出生地は母の実家である鈴尾城(広島県安芸高田市福原)とされている。
このころ中央では、日野富子らが室町10代将軍・足利義材を廃して11代義澄(義高)を擁立する【明応の政変】(明応2年=1493年)が勃発、1467年応仁の乱から続く一連の騒乱によって戦国時代は本格化していた。
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戦国時代の始まりともされる明応の政変~細川vs足利で近畿の争いはドロ沼へ
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城を追い出され「乞食若殿」と蔑まれ
元就誕生のころ、毛利氏は中国地方の大名・大内氏の勢力下にあった。
しかし、前述のように【明和の政変】が起きると、大内氏の保護下にあった前将軍(足利義材)と、室町幕府の現将軍(足利義高)の両方から、それぞれの命に従うように言われ、父の弘元は完全に板挟み。
幕府にも大内氏にも逆らうことができず、明応9年(1500年)、自身の引退というカタチでこれを解決し、33歳の若さで家督を嫡男・興元に譲ることとなる。
弘元は本拠であった郡山城(広島県安芸高田市)を去り、幼い元就を連れて多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)へと移り住んだ。
悲劇はここからだ。
文亀元年(1501年)に元就の実母が死去すると、永正3年(1506年)には父・弘元も、身体を壊して急逝。
酒が原因ともいわれており、多治比300貫の領地は後見役であった家臣の井上元盛によって横領され、まだ9歳という幼き身にして城を追い出されるという憂き目に合ってしまう。
周囲からは「乞食若殿」と蔑まれた。
困窮する生活、武士としての窮地。
それを救ったのは、父の継室つまり義理の母・杉大方(すぎのおおかた)だった。
彼女の出自は、安芸国から石見国にかけての有力武家であった高橋氏と言われている。
元就の父・弘元の側室ではあったが、正室(元就の母)の死後に継室になったと伝わっており、幼少で城を追われた先妻の子供を不憫に思った杉大方は再婚もせず、これを養育したのだ。
杉大方が元就に影響を与えた
『毛利家文書』には彼女に関する記述が2つある。
1つ目は、弘治3年(1557年)の『三子教訓状』の第十二条だ。原文と現代語訳を並べて見てみよう。
【現代訳】私が11歳で土居(猿掛城の麓にある地名)にいた頃、井上元兼のところへ客僧が来て、念仏の大切さを説く講義があった。
大方殿もこれにお出になられ、私も同様に11歳にて伝授をうけた。以来、今に至るまで毎朝たいてい祈願をしている。
やり方は、朝日を拝んで念仏を十編唱えることである。こうすれば、後世のことは勿論、現世の幸せも祈願することになるからである。
【原文】我等十一之年土居ニ候つるニ、井上古河内守(光兼)所へ客僧一人来候て、念仏之大事を受候とて催候。然間、大方殿御出候而御保候、我等も同前二十一歳ニて伝授候而。是も当年之今ニ至候て、毎朝多分呪候。此儀者、朝日をおがミ申候て、念仏十篇つつとなへ候者、後生之儀者不及申、今生之祈祷此事たるへきよし受候つる
『三子教訓状』はもともと、息子達に謙虚な信仰心を持つようにと伝える文章の一部である。
そこに記されているのだから、杉大方(すぎのおおかた)が元就の信仰に強く影響を与えたことが窺えるであろう。
もう1つの記述は、元就62歳のとき、長男・隆元へあてた書状の中にある。
【現代訳】私は5歳で母と死に別れ、10歳で父とも死別した。
11歳の時に兄興元が京に上ったので、わたしはよく分からないままに孤児となった。
杉大方殿はこの様子をあまりに不憫と思い、捨て置くことができなく、まだ若い身であったのに実家に帰らず留まって私を育てて下さった。
そのため、再婚をすることもなく私の父に貞女を通された。兄が留守の3年間、私は大方殿を頼りにして過ごした。
【原文】我等ハ五歳にて母ニはなれ候。十歳にて父にはなれ候。十一歳之時興元京都へ被上候。誠無了簡ミなし子ニ罷成。大かた殿あまり不便ニ(之)然を御らんすてられかたく候て、我等そたてられ候ためハかリニ若御身にて候すれ共、御逗留候て、御そたて候。それ故ニ、終ニ両夫ニまみえられす、貞女を被遂候。然間、大かた殿ニ取つき申候て、京都之留守三ケ年を送候。
こちらもまた、幼くして身よりの無くなった自分を育ててくれた杉大方への感謝と尊敬の念がにじみ出ている。
その後、所領を横領した井上元盛が急死したため、多治比の地は再び毛利のもとへ。
永正8年(1511年)、京にいた兄の興元へ義母の大杉方が使いを出し、許可をもらって松寿丸は元服、多治比(丹比)元就を名乗った。
あくまで分家であり、このときは毛利ではなく、多治比殿と呼ばれた。
初陣「有田中井手の戦い」で大番狂わせ
運命が大きく変わるのは、それから約5年後のこと。
永正13年(1516年)、兄であり、毛利総領でもある興元が急逝した。またも酒の害が原因だったという。
ここれにより毛利家では、興元の嫡男・幸松丸(こうまつまる)がわずか2歳で家督を継ぐことになり、叔父であった元就が、幸松丸の外祖父(母方の祖父)・高橋久光と共に後見となる。
しかし、当主が立て続けに早世し、主君が2歳となった毛利家内では動揺が避けられない。
好機とみた佐東銀山城(広島市安佐南区)城主・武田元繁が吉川領の有田城(北広島町)へと侵攻するのであった。
明応の政変後、大内氏に服属していた武田元繁は、本来、安芸守護という名門。
武田信玄お馴染みの甲斐武田氏から派生した安芸武田氏である。
この武田元繁は、厳島神社(広島県廿日市市)神主家における跡目争いのイザコザに乗じて、大内氏から離反し挙兵、安芸国内で勢力を拡大していた。
幸松丸の代理である毛利元就は、武田氏に対抗すべく、西隣の吉川氏の有田城救援に向かった。
若干20歳の初陣だ。
それはイキナリ、毛利家の命運をかけた【有田中井手の戦い】となった。
永正14年(1517年)10月22日、有田へ進軍した毛利・吉川連合軍は、猛将として知られる武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を撃破し、これを討ちとる。
有田城包囲中の武田元繁はその報に激怒。
一部の手勢を有田城に残すと、自ら主力部隊を率いて毛利・吉川連合軍の迎撃態勢に入った。
戦いは多勢に無勢で、元就率いる連合軍が押される展開。
一時、又打川の東まで軍を後退せざるを得なくなったが、元就は兵を叱咤激励してよく粘り、武田元繁が先頭に立って馬で川を渡ろうとした瞬間を狙い一斉に弓をかけた。
そこで元就にとっては行幸の出来事が起きた。
なんと放った矢が敵将・元繁の胸を貫き、川へ転落したのである。
すかさず駆け寄る毛利軍の兵士たち。そして首を取ったという。
大将を失った武田軍は総崩れとなって多くの将兵を失い、撤退する結果となった。
この【有田中井手の戦い】は、後世になって「西国の桶狭間」とも称され、毛利氏の勢力が拡大する一方、安芸守護の武田氏が滅亡への道を歩んで行く契機となる。
なお、実際の【桶狭間の戦い】はこれから44年ほど後であることを補足しておく。
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話を毛利元就に戻そう。
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