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【毛利元就】
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中国地方に激震! 大内義隆が陶晴賢に討たれる
天文20年(1551年)、中国地方に走った激震。
それは当時の覇者であった大内義隆が家臣の陶隆房(後に出家して陶晴賢・すえはるかた)によって殺害されことだ。
主君筋であった義隆の死で、意気消沈……する元就ではない。むしろ当初はこのクーデターに賛同していたともいわれている。
義隆殺害の影響で大内氏に【大寧寺の変】という内乱が起きると、元就はこの動きに同調しつつ、守護武田氏がいた佐東郡(広島市)などを奪取。
大内氏支持であった平賀氏の当主をすげ替え、傘下に収めたのである。
山の毛利が広島湾に面したところまで領有したことで、小早川を含めて水軍の力が一気に強化された。
急拡大する元就の勢力に危機感を抱いたのがクーデターによって大内氏の実権を奪った陶晴賢である。
ドサクサ紛れに毛利が得た大内の支配権の返上を求めるが、むろん受け入れる元就ではない。
両者の対立が静かに激しくなっていく最中、大内氏配下の石見(島根県西部)の吉見氏が、陶晴賢に叛旗を翻した。
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これに対し、家中の反対で動けずにいた陶晴賢は、すぐさま安芸の国人衆たちに「吉見氏を鎮圧せよ」との使者を出したが、この頭越しの出陣命令が元就との決裂の決定打となる。
「元就が国人衆のまとめ役である」という約束に反しており、毛利と陶の同盟に終止符が打たれた。
ときに謀略も辞さない元就は、同時に人心掌握にも優れており、難しい国衆たちの心をシッカリと掴んでいたのである。
しかし実情が相当に苦しいのは、兵力を見れば歴然である。
当時の大勢力であった陶晴賢率いる大内勢は、動員兵数3万。
一方の毛利家は最大でも5千余。
陶晴賢3万
vs
毛利元就5千余
正面から当たって突き崩せる相手ではなく、元就は謀略を用いて大内家の内部分裂を計った。
その一例が陶家臣の江良房栄(えら ふさひで)だ。
元就は、陶晴賢の家臣であった江良房栄に、まず内応を約束させた。
が、実際は、両者の条件が折り合わずに調略は不成立となる。
そこで、転んでもただでは起きない元就は、毛利との関係をリークして、陶晴賢自身の手により江良房栄を粛正させたのだ。
そして1554年に元就は、石見の謀反鎮圧に手間取っている陶晴賢に対して堂々と反旗を翻す。
晴賢は重臣の宮川房長に3,000人の兵を預け毛利氏攻撃を命令するも、元就軍は先制攻撃でこれを打ち破り、宮川房長は敗死した(折敷畑の戦い)。
夕刻から天候が崩れて暴風雨「これぞ天のご加護である!」
毛利元就、最大の合戦は何か?
鮮やか過ぎる戦術で「西国の桶狭間」をしのぐほど著名なのが【厳島の戦い】であろう。
このとき元就は60歳近く。
老い先短い(と世間から思われる)中で、一体いかなる戦いを演じたのか。
弘治元年(1555年)、折敷畑の戦いの敗北に激怒した陶晴賢は、自ら大軍を率いて毛利氏の交通かつ経済の要衝である厳島(いつくしま・広島県廿日市市)の「宮尾城」攻略に乗り出した。
厳島(安芸の宮島)は、ご存知、神社で知られる瀬戸内海に浮かぶ島で、日本三景の1つとして知られる景勝地である。
島は周囲約30キロメートルで楕円形。
対岸からは現在のフェリーで約10分、距離は最も近いところで300メートルしかない。
海上に浮かぶ大鳥居で知られる同神社は、平安末期に平清盛の庇護を受け、その後も大きく発展していた。
厳島はまた、周防(山口県)から安芸(広島県)への水運の要衝ともみなされており、1554年5月に厳島を占領した元就は、宮尾城を補修し番兵を置いたとされる。
宮尾城は、島内の「要害山」と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた城だった。現在のフェリーの港のすぐそばだ。
当時の岸は、城北部の山麓まで迫っており、三方が海に面した、水軍の運用も可能な重要拠点である。
厳島の合戦に先立ち、陶方の水軍が宮尾城を攻めるも攻略出来ず、そこで陶晴賢の家臣・三浦房清が進言したのが厳島への上陸。
これを受けた晴賢は9月22日、陶軍約2万をもって厳島へと進み、宮尾城が見通せる塔の岡(厳島神社のすぐとなり)に本陣を置いた。
知らせを受けた元就は、水軍の基地である対岸の草津城(広島市西区)に入り、26日には熊谷信直の水軍を宮尾城へ援軍として派遣させる。
宮尾城では27日にも水源が絶たれ、堀も埋められ、攻撃されるのを待つばかりであった。が、毛利にとっては幸いなことに、陶軍は「日柄が悪い」として総攻撃を延期していた。
30日、およそ4000の毛利軍は厳島への渡海を準備しており、夕刻から天候が崩れて暴風雨となった。
「これぞ天のご加護である!」
かくの如く将兵を鼓舞した元就は、夕闇と嵐に紛れて島の東岸・包ヶ浦に上陸、村上水軍を沖合に留まらせて開戦を待った。
厳島の戦いで大逆転 計8カ国に膨らむ
翌10月1日の午前6時、毛利軍は奇襲攻撃を開始した。
主力が、陶軍の背後から襲いかかり、これに呼応して別働隊(小早川隊)と宮尾城の兵が陶本陣を前面から攻め、沖合に待機していた村上水軍が陶水軍を焼き払う。
圧倒的大軍と、前夜の暴風雨でスッカリ油断していた陶軍は、狭い島内で進退もままならず総崩れとなり、追い詰められた晴賢は自刃して果てるしかなかった。
とまぁ、あまりに鮮やかな毛利元就の代表的合戦だが、実はこのとき元就自身が相当に追い込まれ、様々な策を巡らせて必死だったのは意外かもしれない。
この戦いの詳細は当サイトの【厳島の戦い】に譲るが、いずれにせよこの一戦を機に毛利の家名と家勢は一気に上昇していく。
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翌1556年、陶晴賢を失い弱体化した大内氏が撤退した後の石見銀山(島根県)を巡る攻防では出雲の尼子氏に敗れるが、翌年には大内氏の内紛に乗じて当主の大内義長(大友宗麟の弟)を討ち、複数の国を支配した大大名の大内氏を滅亡させた。
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周防・長門(いずれも山口県)を手に入れた元就は、尼子氏と肩を並べる西国の大大名に躍進した。
さらに永禄3年(1560年)に名武将・尼子晴久が急死すると出雲への侵攻を始め、永禄9年(1566年)11月には【第2次月山富田城の戦い】で晴久の子・尼子義久を降伏させる。
これにより戦国大名としての尼子氏(石見・出雲・隠岐・伯耆を領有)は滅亡。
さらに瀬戸内海をわたり伊予(愛媛県)の河野氏を下した元就は一代にして、中国地方を中心に8ヶ国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)+四国(伊予)を支配する大名になった。
ただし、尼子氏との戦いの間に嫡男の隆元が亡くなってしまった。
3人の息子を枕元に呼んで「一本の矢ならスグ折れるが、三本なら折れない」とする遺言を伝えたという逸話が創作であることがご理解できるであろう。
※後述するが、吉川・小早川の両川と協力して国を維持せよ――という生前の指示という意味ではキッチリ引き継がれている
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