大河ドラマ『豊臣兄弟』の第一回放送で、織田信長が暗殺者たちに狙われるシーンがありました。
送り込んだのは美濃の斎藤義龍。
事前に豊臣兄弟と丹羽兵蔵がその情報を掴み、敵を撃退することで事なきを得ていましたが、果たして信長が命を狙われるのは史実だったのか?
史実だとしたら、あのような危機は何度あったのか?
実は他にも暗殺未遂事件はあり『信長公記』に記されていますので、

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
時系列順に見て参りましょう。
なお『信長公記』に続いて、信憑性の怪しい暗殺エピソードも併せて掲載いたしますので、よろしければご覧ください。
美作守・林秀貞・柴田勝家
『信長公記』に記録されている最初の「信長暗殺事件」は、ドラマでも描かれた斎藤義龍……ではなく、林美作守が画策したものでした。
美作守とは、織田家の筆頭家老・林秀貞の弟であり、要は身内ですね。
弘治二年(1556年)のこと。
林秀貞と林美作守は、柴田勝家と共に、信長の弟・織田信勝を擁立しており、信長への逆心は領内で噂が流れるほどにまでなっていました。
にも関わらず、同年5月26日、その織田信長が弟の織田信時だけを引き連れ、林秀貞が城代を務めていた那古野城へやってきます。
「殺れるもんならやってみろ」

若き日の織田信長/絵・富永商太
そう言わんばかりの信長の姿勢に対し、弟の美作守は「絶好の機会ですので、切腹させましょう」と兄の秀貞に持ちかけます。
ここで秀貞が頷いていたら、その後の時代は確実に変わっていたことでしょう。
秀貞は「恥知らずにもここで殺せば天罰が恐ろしい」として弟の提案を却下。
しかし、一度火の着いた逆心は収まることなく、織田信勝と彼ら三名はついに信長と激突し、敗れました。
【稲生の戦い】と呼ばれる合戦で、詳細は以下にございますので、よろしければ後ほどご覧ください(本記事末にリンクございます)。
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稲生の戦いで信長一騎打ち!|信長公記第19話
続きを見る
次は斎藤義龍の暗殺劇を、大河ドラマ『豊臣兄弟』より少し詳しく見ておきましょう。
斎藤義龍と35名の暗殺集団
もともと斎藤義龍は父の斎藤道三と折り合いが悪く、弘治2年(1556年)長良川の戦いで道三を殺害。

斎藤義龍/wikipediaより引用
帰蝶を正妻にしていた信長は、義父である道三の救援に向かいましたが間に合わず、その後、美濃(斎藤)と尾張(織田)は交戦状態に入っていました。
義龍も、硬直した事態を解消しようと考えたのでしょう。
長良川の戦いから3年後、永禄二年(1559年)のことです。
織田信長は、80名という手勢を引き連れ上洛をしました。
足利義昭と共に京都へのぼったのは、永禄十一年(1568年)9~10月のことですので、それとは別の話。
尾張から京都までの道のりには、途中に美濃・伊勢・近江・伊賀などが並び、諸国の大名や国衆、あるいは野盗に襲われる危険性もありました。

いったい何処を通っていったのか?
残念ながらそれは記されていませんが、上洛した信長一行は、十三代将軍・足利義輝との謁見を果たすだけでなく、京や堺で町見物なども楽しみます。
そんな信長に、暗殺計画の一件を知らせた丹羽兵蔵。
どうやってそんな危機を察知したのか?というと、これが偶然のことでした。
兵蔵は、上洛中の信長を追って京都へ向かっていたのですが、途中、琵琶湖の渡し船で30名を超える一団と出会います。
そこで自身の身分を偽りながら、何気なく会話をしていたところ、
「上総介(かずさのすけ)の運も長くあるまい」
と呟く者がいたのです。
上総介とは信長が自称していた官職のこと。

織田信長/wikipediaより引用
いかにも不穏な言葉を聞いた兵蔵は、その後、一団の後をつけ、連中の宿に向かいます。
そして、彼らの下男らしき子供を手なづけ、尋ねると、信長暗殺の計画を把握しました。
兵蔵は、機転の利く人物でした。
計画を掴み「一刻も早く主君(信長)へ伝えよう!」とは敢えてせず、引き続き一団の後を追い、京都で彼らの宿を突き止めてから信長のもとへ出向いたのです。
かくして当面の危機は回避した信長。
最終的に、打った手段は「暗殺集団を先に倒してしまう」ではなく、“説得”に近いやり方でした。
これが何ともスマートでして。
詳細は以下の記事をご覧いただき、
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京都上洛の信長に向け義龍が放った刺客|信長公記31話
続きを見る
次の暗殺事件へ参りたいと思います(※上記のリンク先は、本記事末にも掲載しております)。
ゴルゴ13のごとく、大胆にも、信長を狙撃したスナイパーがいたのです。
六角義賢と杉谷善住坊
それは元亀元年(1570年)のことでした。
同年、越前の朝倉攻めを強行した織田軍。
徳川家康との連合軍で北陸へ向かうと、次々に城を落とす快進撃を続けていましたが、突如、浅井長政に裏切られ、信長たちは命からがら京都まで逃げ帰ってきました。
こうなると本拠地の岐阜へ戻るのも一苦労です。
浅井家の所領である北近江など危険すぎて通れませんので、南側の迂回ルートを選ばねばならない。そこで、千草峠を選んだところ、六角義賢にその情報を掴まれてしまいます。

六角義賢(六角承禎)/wikipediaより引用
六角義賢は永禄十一年(1568年)、織田信長と足利義昭が上洛したときに滅ぼされており、以降、甲賀でゲリラ戦を展開していました。
そんな義賢にとっては絶好のチャンス。
狙撃による暗殺を思いつきます。
もちろん本人が撃つのではなく、南近江の豪族「甲賀五十三家」の出身とされる杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)を雇ったのです。
善住坊は約22m~24mの至近距離から2発を発射!

距離感は、25mプールぐらいだと思えば想像しやすいですかね。
当時は火縄銃ですから連射機能などなく、精度も高くはない。
結果、撃たれた信長は……かすり傷で済みました。
今も現地には、狙撃のために身を隠したと伝わる巨石「杉谷善住坊のかくれ岩」が残されておりますので、ご興味のある方は以下の地図からどうぞ。
暗殺に失敗した杉谷善住坊は、その場から逃げることには成功しています。
そして、そのまま歴史から名前は消え……と思いきや、元亀四年(1573年)、朝倉家と浅井家が滅亡に追い込まれると織田軍にひっ捕らえられてしまいます。
そのときの処刑方法がエグくて。
耐性や興味のある方だけ以下の記事からご覧ください。
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信長を襲った刺客の処刑は恐怖の鋸挽き|信長公記第101話
続きを見る
天王寺砦で危うく射殺されそうに
暗殺劇ではありませんが、信長が撃たれた銃撃戦も見ておきましょう。
天正四年(1576年)のこと。信長は
・荒木村重
・細川藤孝
・明智光秀
・原田直政
の四名に石山本願寺への攻撃を命じ、織田軍は砦を築きながら攻撃を仕掛けていきました。

織田軍と石山本願寺が11年にわたって激突した『石山合戦図』/wikipediaより引用
しかし、本願寺には鉄砲傭兵集団の雑賀衆もいて、次第に形勢は逆転。
原田直政らが討死するだけでなく天王寺砦の織田軍は取り囲まれ――そんな報告を聞いた信長は居ても立っても居られなくなり、湯帷子(ゆかたびら・浴衣の原型となる軽装)姿で出陣します。
このとき信長の後を追えた兵はわずか100人程度でした。
家臣団は必死に追いかけ、やがて3,000ほどまで兵数は膨らみますが、戦場に到着した信長は、あろうことか先頭に立って軍を指揮したというのです。
そのときでした。
敵側の銃が、信長を狙い撃ち!
鉄砲を用いた傭兵の雑賀衆ですから、狙いは外さない――と、その結果、弾は足に的中し、信長は負傷してしまいます。
ただし軽傷であり、その後も天王寺砦で戦い続け、無事に勝利を収めました。
浅井家の遠藤直経
元亀元年(1570年)6月に織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が激突。
俗に【姉川の戦い】と呼ばれる激戦が行われました。
このとき遠藤直経という浅井家の猛将が信長の暗殺計画を実行したことが小瀬甫庵『太閤記』に記されています。
『太閤記』は寛永2年(1625年)に成立した軍記物(読み物)ですので“創作”を念頭にご覧ください。
なんせ、話がよく出来ていて。
歌川国芳の浮世絵シリーズ『太平記英勇傳』の題材にされているほどなのです。

歌川国芳『太平記英勇傳 遠藤儀右衛門政忠』/wikipediaより引用
それは以下の通り。
遠藤直経はかねてより信長暗殺計画を秘かに建てていた。
浅井軍の武将首を掲げて織田軍の武将を装い、武功の報告と偽って信長の本陣に迫る――遂にその計画を実行するときがきた。
織田徳川と浅井朝倉の間で姉川の戦いが始まったのである。
直経は首尾よく織田家の本陣に近づき、いざ信長と刺し違えるべし!というところで以前、浅井家に仕えていた竹中久作(半兵衛の弟・竹中重矩)に見つかってしまい、討ち取られてしまった。
かなり近づくことができたけど、最後は結局身バレしてしまう。
実に惜しい展開でした。
伊賀忍者・城戸弥左衛門
最後に、信長を二度も狙撃した忍者・城戸弥左衛門についても触れておきましょう。
弊サイトの著者である、れきしクン(長谷川ヨシテル)の書籍『あの方を斬ったの……それがしです』で注目された暗殺劇です。

『あの方を斬ったの……それがしです』(→amazon)
城戸弥左衛門は火術を得意とする伊賀忍者。
『萬川集海※1』に掲載された「伊賀流名人」の一人であり、信長暗殺を狙う強い動機はありました。
【天正伊賀の乱】によって織田軍に攻め込まれていたのです。
天正伊賀の乱は経緯がややこしいので、結果だけ示しておきましょう。
◆天正七年(1579年)第一次天正伊賀の乱
→上洛中の信長を膳所(ぜぜ)で狙撃するが、弾が朱色の傘の柄に当たって失敗

◆天正九年(1581年)第二次天正伊賀の乱
→伊賀を屈服させ、敢国神社(あえくにじんじゃ)で休憩している信長に向けて大鉄砲で狙撃したが、周囲の者が数名倒れて終わり、信長は無傷だった
杉谷善住坊のケースを発展させたような展開ですね。
終わり方は微妙に異なっています。
◆城戸弥左衛門の最期
味方の密告で捕縛され、激しい拷問を受けるも情報は一切漏らさず。
隙を見て脱獄するが、観念して自害する。
※1『萬川集海』……藤林長門守の子孫とされる藤林左武次保武(ふじばやし さむじ やすたけ)が延宝4年(1676年)に編纂
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ





