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【毛利元就】
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織田信長との対戦がジリジリと迫る最中に大往生
尼子氏を滅ぼした後も、織田信長の支援を受ける山中鹿之介率いる尼子残党は毛利に抵抗を続け、更には九州・豊後(大分県)の大友宗麟とは北九州の支配権をめぐり、激しく争うこととなった。
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宗麟は大内氏の残党を支援。
長門(山口県)へ攻め込ませるなどしたが、博多湾の支配権を大友氏へ渡すことで和睦し、毛利は尼子残党軍を一掃する。
そして元亀2年(1571年)6月14日、自ら築いた王国を見守るようにして、ふるさとの吉田郡山城(広島県安芸高田市)で死去。
死因は老衰とも食道癌とも言われ、享年75だった。
なお、元亀2年は、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした年であり、畿内の諸勢力や、武田信玄からの脅威にさらされるときでもあった。
この時点で信長の中国地方への侵攻は現実味は薄かったかもしれない(毛利水軍と織田水軍の直接ぶつかった第一次木津川口の戦いはその5年後の1576年となる)。
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元就は、この時代として破格の長寿ともいえる年齢で死去している。
父も兄も酒毒のため短命だったばかりか、実は祖父も酒のため33歳の若さで死亡しており、アルコールに弱い家系であったと推測される。
ゆえに元就自身は酒を断ち、身内にも節酒の心得を説いた。
それが健康に大きく影響したのであろう。
家督を継いだのは、後に関ヶ原などでの戦略が拙いと酷評される、孫の毛利輝元(急死した毛利隆元の嫡男)である。
三本の矢は創作なれど、教えは守られていた
ここからは蛇足であるが、元就の人物像に注目し、まずは「三本の矢」について見てみたい。
晩年の元就が死の間際に、長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景を呼び、
「1本の矢は折れやすいが、3本の矢は折れない。3人が結束し毛利家をよく守るように」
と教え諭した逸話である。
前述の通り、長男・隆元は元就が亡くなる8年前に死去しており、創作であることは説明させていただいた。
しかしコレ、全くの創作でもなく、1557年(弘治3年)に書かれた『三子教訓状』に基づいている。
三子教訓状は14条から成り、まだ全員が生きていた3人の息子たちを中心に、一族が一致団結して毛利家を盛り立てて行くように――という内容だ。
実際、この中で次女の五龍局と、元春・妻の不仲をたしなめている。
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「三矢」や「三子」という言葉から、元就の子は3人と誤解されがちであるが、そもそも正室・妙玖との間には早世した長女と五龍局の女性2人と、隆元、元春、隆景の3兄弟がいる。
正室の死後には、四男の元清(母は乃美氏)、五男の元秋(母は三吉氏)、六男の元倶(母は三吉氏)、七男元政(母は乃美氏)、八男元康(母は三吉氏)、九男秀包(母は乃美氏)の男子が6人(一説に7人)、女子が1人いたとされる。
中でも元就71歳の時に生まれ、兄・隆景の養子となった毛利秀包(ひでかね)は武勇に名高い。
九州征伐や肥後国一揆、文禄・慶長の役で戦功を挙げ、豊臣政権下で筑後久留米13万石の大名となっている。
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そもそも毛利氏の家系は鎌倉幕府の重臣?
毛利氏の祖は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元の四男・毛利季光(もうり すえみつ)とする。
季光は父の所領のうち相模国毛利庄(厚木市)を相続し、領した地名から毛利季光と名乗り、毛利氏の祖となった。
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しかし、1247年(宝治元年)、北条氏執権派と対立した妻の実家・三浦氏方に付いて敗北し、毛利季光は息子4人と共に自刃。
合戦に参加しなかった四男・経光の家系だけが唯一残ったとされ、安堵された所領のうち安芸国吉田荘を経光の息子が継ぎ、この家系から元就が輩出されている。
ただ、実際に安芸国に移り住んだのは14世紀になってからともされている。
毛利家の家紋「一文字に三つ星」は大江家の氏族が用いているもので、大江氏の祖・阿保親王が正一品であったことから「一品」を図案化したものといわれる。
また、数字の始まりである「一」とオリオン座の中央に輝く三ツ星、これは三武、将軍星と呼ばれ武勇の象徴であり、こちら2つの組み合わせという側面もある。
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文・編集部
【参考】
国史大辞典
東京大学史料編纂所(→link)
毛利元就/wikipedia
備陽史探訪の会(→link)
岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(→amazon)
戦国武将の履歴書/宝島社
『戦国武将合戦事典』(→amazon)