明智家

光秀の妻・明智煕子(妻木煕子)のナゾ多き史実~糟糠の妻の生涯とは?

大河ドラマ『麒麟がくる』で木村文乃さんが演じた明智光秀の妻――明智煕子(ひろこ)。

旧姓は妻木煕子ですが、残されている史料が極めて少なく、その実像はほとんどわかっておりません。

理由は切ないものです。

夫・光秀が世紀の謀反人である敗者となってしまったため、明智家そのものに関する史料が残されなかったからです。

※以下は明智光秀の生涯まとめ記事となります

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一応、明智家の事績を記した史料としては、江戸時代中期に成立した『明智軍記』という軍記物が存在します。

しかし、創作や誤りを多分に含んだ内容であり、全面的に信頼できる史料とは言い難い。

さらに、もともと史料が少ない明智家の中でも、こと煕子に関する記載はさらに限られたものになってきます。

そうした状況を踏まえながら明智煕子の生涯を振り返ってみましょう。

天正4年(1576年)11月7日は彼女の命日とされますが、複数の理由から、怪しいものだと感じています(詳細は後述)。

 


妻木煕子は信長と同い年?

煕子が生まれたのは享禄3年(1530年)説と天文3年(1534年)説があります。

・西教寺に残されている『過去帳』→1530年

・『明智軍記』→1534年

このため、おおよそ1530年代の前半に誕生したと考えられています。

1534年ですと織田信長と同年となりますね。

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出自は妻木氏が定説です。

同家は、明智家と同様に美濃国守護を務めた土岐氏にルーツを持つ一族であり、彼女の父親については二人の人物が候補として挙がっています。

・妻木範煕
・妻木広忠

この二人は【同一人物説】も存在しているほどですから、父の素性も明らかではありません。

彼女の名前は「妻木煕子」または「明智煕子」として知られていますが、この表記は煕子の生前に用いられていたものではありません。

そもそも戦国期において、現代流に「名字+名前」で人物名を表現するスタイルは男性に限られたものであり、当時の女性は「〇〇殿」「〇〇の方」「〇〇姫」といった名称がつけられていました。

そのため、上記の名が一般に知られるようになったのは近代以降のことで、特に煕子の娘として知られる「細川ガラシャ」が有名になるにつれて定着した俗称であると考えられています。

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「細川ガラシャ」という名前も当然ながら当時に用いられたものではなく、「たま(玉・珠)」または「たまこ(玉子・珠子)」と表記されていました。

では、当時の煕子はどのように呼称されていたのか?

その答えを知るには、本来、史料上の記載をあたるのが一番ですが、そもそも史料上に煕子の名を記載したものが少なく、彼女の名については確定するに至らないのが実情です。

なお、煕子という名が定着する前は「お牧の方」あるいは「伏屋姫」という名で知られていたという指摘もあります。

ただしこれは、光秀の母や別の女性を示す名という説のほうが有力で、煕子を表したものではないでしょう。

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光秀との結婚時期も不明

煕子が光秀といつ結婚したのかは定かではありません。

しかし、戦国期の慣例に照らし合わせれば、10代のうちには夫婦の関係にあったと推測できます。

1540〜1550年辺りになりましょうか。

夫・光秀の生年については

・永正13年(1516年)生まれ

・享禄元年(1528年)生まれ

・天文9年(1540年)生まれ

※1528年生まれだと【本能寺の変】時点で55歳

という主に3つの説があり、仮に1528年を採用しますと、2人の年齢差は2〜6歳程度となり、両人共に10代から20代前半で結ばれたと考えられるでしょう。

仮に年齢一桁など異例の年齢で婚姻していれば、何かしらの逸話が残されていてもおかしくはありません。

そうでないということは常識的に収まっていたと考えられます。

 


天然痘に罹り煕子の顔に痕が残ってしまった!?

伝説によれば、煕子は美しい女性であったにも関わらず、婚姻前に疱瘡(天然痘)を疾患。顔に痕が残ってしまったとされています。

戦国期において疱瘡は一般的な病気であり、かの伊達政宗も疱瘡によって視力を失いました。

こうして顔に痕が残った煕子と光秀の婚姻は前途が危ぶまれましたが、光秀は彼女の痕を意に介さず妻にしたと伝わります。

煕子の出自は光秀にとって同郷の与力筋にあたる妻木家であったため、外見だけでなく内面的な魅力を光秀が大いに理解していた可能性はあるでしょう。

また、光秀が攻められた際に身重であった煕子を背負って越前へと逃げ延びたという逸話や、諸国を放浪する光秀を支えるべく自身の髪を売って夫を経済的に支えていたという逸話も残されています。

このような伝説や逸話から、光秀と煕子の関係は概ね良好であったと解釈されることが多いです。

なお、結婚後は、光秀と共に行動をしていたと考えられますから、その動きをざっと追っていきますと……。

明智光秀の名前が世に出るのは、足利義昭を奉じて京都に上洛した1568年。

このとき光秀は義昭の家臣であり、細川藤孝(細川幽斎)と共に織田信長と知り合う機会を得て、その後、義昭と信長の取次役をこなしていくうちに織田家になびいていくようになりました。

そして1571年比叡山延暦寺の焼き討ちで大活躍した光秀は、近江坂本に信長から領地を与えられます。当然、煕子も共に移り住んだことでしょう。

では光秀は、いつから正式に織田家の家臣となったのか?

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