浅井・朝倉家

信長が浅井に裏切られた理由が超スッキリ!近江の複雑な事情とは

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これまで3回に渡ってお送りしてきましたシリーズ戦国大名織田信長の城」。

今回は美濃の地に築城された戦国のモダニズム建築「岐阜城」と、その先に見える「近江国の複雑な事情」をご紹介しましょう。

織田信長がなぜ浅井長政に裏切られたか?
その背景を考察してみたいと思います!

 

織田軍団、ついに美濃を手中に

斉藤家の家臣団を切り崩して稲葉山城を一気に陥落させた我らが織田信長は、ついに美濃の支配権を手に入れました。
ここでまたまた本拠地の移転を決断。理由ははっきりしておりませんが、稲葉山城を中心に据えた周辺地域一帯の防衛能力の高さを認めていたのでしょう。

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稲葉山城(岐阜城)の眺望を遮るものは何もありません。「天空の城」の名にふさわしい地の利を有しています/©2015Google,ZENRIN

前回も紹介しましたが稲葉山城そのものは各曲輪が狭く、井戸は雨水を溜めたものしかないため、城そのものの防御力は非常に低いです。当然ながら長期の籠城にも向いていませんでした。

しかし稲葉山城の真価は、その眺望性と地の利にあります。

現代でも南は名古屋の中心地から西は関ヶ原まで見渡せるように、美濃への侵入者をいち早くキャッチすることが可能です。さらに長良川と木曽川が絶妙な位置で防衛ラインを形成して敵の侵入を食い止め、たとえ渡河されても広大な濃尾平野で縦深が取れるので、十分に味方の軍勢を整えることが可能なのです。
レーダー施設のような稲葉山城を本丸と見立て、木曽川と長良川を天然の水堀として広大な濃尾平野とセットで防御ラインを形成する稲葉山城への移転は、信長にとって合理的な決断でした。

にしても、この決断はほんと凄いです。いくら合理的であっても基本的に戦国大名は本拠地を移転するようなことはしません。

武田信玄は何年にもわたる川中島の戦いの時期でも最前線に本拠地を動かさず、甲斐の「躑躅ヶ崎館」から毎回川中島まで、手間も経費もかかる遠征を繰り返していました。
上杉謙信は関東管領就任後も居城は依然として関東からはるかに遠い越後の西の端「春日山城」で「関東管領の意味って何よ」状態でした。

先進的な法律の導入や軍制改革を行った今川義元でさえも、戦線が西へ拡大したからといって駿河の「今川館」からは離れませんでした。
広大な関東を手中にした北条氏康も関東の西の端、小田原城に拠点を置いたままでした。

このように戦線が拡大しようが本拠地が最前線に近かろうが拠点は動かさない。先祖代々の土地は決して離れない。戦国大名としては当たり前のことでした。

 

親子二代に渡る引っ越し癖は遺伝なのか?

しかし信長は違います。次々と本拠地を移転していきます。
信長が規格外の男だったということもありますが、実は信長の父、織田信秀も本拠地をこれでもかというほど移動させています。
信長の出生地をめぐり「那古野城」と「勝幡城」で論争が起きたのも、信秀が引っ越ししまくったので、信長の出生当時の本拠地が曖昧だったからです。
信秀は築城しては移るというパターンを繰り返していましたが、多くは戦略的な本拠地の移動でした。元々尾張が詰めの城すら築けない低地で、敵との境目になるような自然地形にも乏しく防御に向かない土地だったという環境要因が一つの理由でしょう。

その後、信長は石垣を多用した小牧山城を築城しました。が、麓からの比高が100mにも満たず、遠くの稲葉山城からも見下ろすことが可能な高さしかなく、犬山城や猿啄城など自然の険しい地形を生かした堅城に比べるとまだまだ防御能力に劣っていたことが分かります。

結果的に小牧山城を手に入れても、織田信清など尾張国内が相手ならまだしも、対斉藤家となると機能しません。戦術は依然として素早い機動力での先制攻撃が主体となっていました。

しかし、その先制攻撃も木曽川を渡る度に斉藤方にいち早く侵入をキャッチされ全く利かなかったのです。まさにレーダーのように稲葉山城の高所から捕捉され、木曽川渡河に手こずっている間に斉藤方は既に戦の態勢を整えて対岸で待ち構えて織田方は完敗。この自らの弱点を克服するために、信長は斉藤家・家臣団の調略という、時間も手間もカネもかかる戦術に頼らざるをえませんでした。

そんな苦労して手に入れた稲葉山城ですから、信長としても、このまま放置することはできません。ましてや小牧山城より優れる稲葉山城を家臣に分け与えるなどもってのほかです。

「ならば破壊してしまえ!」と考えずに「自分で住んでしまえ!」と考える男、それが信長なのです。

 

「地名は土地の歴史」byタモリ を今回も完全に無視

美濃攻略後に信長が中国の故事に倣い「岐山」から一字を取って「岐阜」と地名を変更したことはあまりにも有名です。

が、信長は「稲葉山」を「岐阜」と改名したのではありません。正確にいうと、斉藤時代の稲葉山城の城下町「井口(いのくち)」という町名と稲葉山をセットで「岐阜」に改名しました。細かいようですが、これは岐阜城の特徴を語る上で重要です。

信長時代の岐阜城についてはあまりよく知られていません。信長死後に何度も合戦の場になっており、戦国時代を通じても池田輝政や織田秀信三法師)など城主が目まぐるしく変わり、その度に改修され、さらに攻城戦の舞台となって信長時代の遺構が破壊されまくったからです。それだけならまだしも現代になってからお城を観光の目玉にしようと「観光地化」という名の破壊が繰り返されてきました。

現在、金華山(=稲葉山ですが、稲葉山城と区別するため、「金華山」で説明します)の山頂に建つ岐阜城天守閣は、もちろん信長時代のものではなく、その後の岐阜城でもありません。完全なるフェイクの復興天守です。

最初にこの地に復興天守が建ったのはなんと明治時代です。お城フェイク史(そんなものあるのか!)に、貴重な第一歩を記した地としても岐阜城はマニアの間では有名です。ちなみにフェイクな天守すら何度か焼失しており、現在の復興天守は1950年代に再建されたものです。

金華山の山頂では、歴史あるフェイクな天守に全力で釣られるのも良し、怪しげな個所にツッコミを入れまくるのも良しの珍百景スポットではありますが、ここまで来たらぜひ、天守そのものではなく、天守からの「眺め」に注目してください。これだけは斉藤道三や織田信長の時代とは何ら変わりません。木曽川を大軍で押し渡る織田軍団が妄想で見えてきたら岐阜城はもうあなたのものです。

 

ついに見えてきたぞ!近世城郭「岐阜城」へ

話は信長時代の岐阜城に戻ります。
信長が山頂に初めて天守を建てたといわれていますが、では山頂の天守だけが岐阜城かというと違います。金華山の麓にも居館を設けています。

では山全体が岐阜城かというとこれも少し違います。

岐阜の城下町。長良川の流れは戦国期の推定。城下町も城の外郭として完全に守られた造りなのが分かります

岐阜の城下町。長良川の流れは戦国期の推定。城下町も城の外郭として完全に守られた造りなのが分かります/©2015Google,ZENRIN

 

信長は最後の稲葉山城攻めの時に、城下町「井口」に放火して徹底的に焼き尽くしています。戦いで灰になってしまった城下町を土で埋め、新たに「岐阜」と命名して町づくりを始めました。
岐阜の城下町は金華山の西の麓から長良川の岸辺に沿って再建され、これは斉藤家の井口時代とほぼ同じ場所、同じ規模の町並みだったようですが、信長はこの城下町全体を「惣構(そうがまえ)」という土塁で囲むのです。

この総構により、斉藤時代には別物だった城下町の「井口」と「稲葉山城」が、信長時代になると城下町とセットで「岐阜城」となります。
ここに至って城下町も城の一部として吸収され、城郭は単なる軍事施設ではなく、政治や商業の拠点の意味も含むようになり、いよいよ近世城郭の萌芽が見られるようになりました。

信長は、この新生「岐阜」へ織田家の家臣団を移らせ、武家屋敷街を作りました。
小牧山城でも同じように家臣団の引っ越しと町割りをしましたが、もともと尾張で先祖代々の土地を持っていた織田家の重臣たちは基本的には自分たちの土地で自前の城(館)に住んでおり、全員が小牧山城下に住んではいませんでした。

しかし、ここは新天地・美濃です。「先祖代々の土地があるんで~」とか、古参が「ここだけの話よ、今の織田家の勢いは俺様のおかげでもあるのよ。まあ、織田家中で親方様にモノ申せるのは俺様だけさ」by佐久間とか、城下への引っ越しを拒んできた有力家臣たちもいよいよ岐阜の町に移るしか選択肢の余地はありませんでした。

 

これだけでも信長の権威が尾張時代と比べて格段に増していたことが分かります。
思えば信長は美濃攻めのほぼすべての戦いで陣頭指揮を執って結果にコミットしてきた男でした。勲功第一は、信長とその直轄軍といっても過言ではありません。

相対的に織田家旧来の家臣たちは権威が落ちてきて、もはや馬廻り衆や新参の美濃衆、また木下藤吉郎秀吉や川並衆など、無頼の輩からノシ上がってきた家臣との区別もなくなってきました。

岐阜城下への移転は身分や出仕歴にこだわらない、実力主義の流れをさらに加速する効果もありました。

また、以前は居候のような扱いを受けていた半農半士の二男三男を積極的に直轄軍の兵士として採用してきた結果、岐阜の城下町は農村社会から完全に切り離された都市の住民で溢れ、賑やかな大都市に生まれ変わるのです。実際、1万人くらいが岐阜城下に暮らしていたもよう。ちなみに当時の町割りは現在の区画とほぼ同一で、現在の道路も当時の配置とほぼ同じだそうです。

信長が山頂の本丸に住んだ理由

城下町から見て、東に位置する金華山にあったのが「岐阜城」の城郭です。こちらも斉藤時代の麓の居館は破棄されて新たに館が作られました。
金華山の山麓には傾斜を利用した居館が作られ、山頂には天守が作られました。

ルイス・フロイスの記録によると、信長は麓の館ではなく、麓からの比高が約300mの山頂の天守に家族とともに住んでいたそうです。
岐阜城に訪れたことのある方は金華山の険しさがよく分かると思いますが、ケーブルカーのない時代に、信長は毎日この険しい山を降って通勤していたわけです。

そんなバカなと思いますが、当時、岐阜城を訪れた京の公家、山科言継も同じようなことを日記に書いています。

信長は毎朝山頂から降りて来ながら、麓の居館付近まで来ると、待ち構えている陳情に訪れた人々や指示を待つ家来に面会し、立ったまま決済を下していたようです。
毎朝オフィスに到着する前にウォーキングを済ませ、始業前にメールチェックも済ませるという、信長は「朝活」の達人でもあったのです。

では何故、信長は山頂の天守に住んだのでしょうか。

これには諸説あり、城主の権威を示すためとか、セキュリティのためとか言われております。私は、「何事も合理的に考える」信長が岐阜城の特徴を最大限に発揮するため天守に住んだと考えます。

前回、稲葉山城がイージスシステムを搭載した司令塔だと紹介しました。そしてこの司令塔にはその情報を分析して次の戦略を繰り出せる頭脳として「城主の資質」も大切だと書きました。斉藤道三や義龍の時代にはこれがよく機能し、龍興の時代になるとさっぱり生かされなくなるのはこのためです。生の情報を高度な分析で「インテリジェンス」にするのも、単なる「インフォメーション」にするのも城主の資質次第なのです。

イージスシステムは情報をキャッチしたらいち早く迎撃態勢に入ります。これはスピードが早ければ早いほどより味方が有利になります。

信長はより遠くを見渡せる岐阜城の山頂で情報をキャッチしてから麓に伝えられるまでの時間を斉藤時代より更に短くするために自らが天守に住むことで決断のスピードを上げます。
これは間に取次をいれてしまうことでせっかくの生の情報が、伝言ゲームの要領で不確実性が増してしまうことも防げます。
これによって非常に効率の良い軍の運用が可能になります。

山頂の天守には司令部機能だけではなく、信長の家族の御殿もありました。家族の身の回りの世話は各地から集めた武将の子供たちを使っていたそうです。つまり人質ですね。

家臣でも柴田勝家のような重臣中の重臣しか天守には入ることが許されなかったようですから、作戦計画が漏れる心配のない司令部と人質の隔離、そして家族とのプライベートな空間が完璧に維持されていたのでしょう。このそれぞれの機能は切り離すのが普通なのでしょうが、何ごとも合理的に判断する信長です。「秘するもの」という共通点ですべて結合させたのでしょう。

 

戦国のモダニズム 山麓の「岐阜城」

では麓の居館「岐阜城」はどのような構造をしていたのでしょうか。

麓の岐阜城は現在、公園になっている場所、岐阜城千畳敷と呼ばれる場所にありました。千畳敷とは、畳が千畳あったということではなく「すごい広い」という意味です。

近江の「小谷城」には千畳敷曲輪と呼ばれる曲輪があります。天空の城「竹田城」にも「北千畳」、「南千畳」と呼ばれる曲輪があります。どれも曲輪としては広い敷地なので、このように呼ばれています。

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現在はケーブルカー乗り場などで遺構が破壊されてしまい完全復元は難しいでしょうね/©2015Google,ZENRIN

 

最近の発掘調査でようやく分かってきたこの山麓の岐阜城こそ、信長のセンスが光る現代建築(当時)でした。

山麓の傾斜を利用して部屋が何層にも重なり、通路らしくない通路でそれらをつなぎ、さらに建物の間には小川を通すという、言葉で表現するのが非常に難しい、まさにモダニズムなデザインだったようです。

イメージに近いものとして米国の有名な現代建築家フランク・ロイド・ライトの代表的な建築「落水荘」をご覧ください。

「落水荘」pixabayより

タイムスクープハンターもびっくりの未来の建築アイデアですね。
山麓の岐阜城は、固定概念を覆すそれぐらい斬新な建築だったのです。

ではその全貌を見ていきましょう。

いくら建物が斬新だからといっても戦国時代のお約束は外していません。戦国時代の城は防御施設という基本コンセプトに加えて、室町時代から継承する当主と家臣団が面会や会議をする施設、すなわち大広間を持つ表御殿が必要でした。
基本的に城の中の館なので当主の家でもあるのですが、館は私的な空間と公的な空間に必ず分かれています。これは江戸時代になっても同様です。
岐阜城も先進的な石垣を配された入り口の先に表御殿を備えていました。

ルイス・フロイスの記録によると、この広間で家臣たちは額を床にすりつけて決して信長の顔を見ない。そして信長の指示に対して家臣たちはとても素早く動くと描写しております。このような描写が現代の「信長さん怖えぇ」という評価に繋がっているのでしょうか。

表御殿の奥には「くい違い虎口」と門の存在が確認されています。小牧山城を含めてこれまでの織田家の城には「くい違い虎口」の存在は現在まで確認されていません。つまりこの岐阜城の「くい違い虎口」は岐阜城で初めて出てくる画期的な出入り口だったのです。

「くい違い虎口」だけでは防御性能はあまり発揮されませんが、この最初の「折れ」の先に櫓門などの城門を配すことで格段に防御力が高まります。また巨大な石を配した虎口と言いますから、訪れる人を十分に威嚇できたことでしょう。

このエポックメイキングな「くい違い虎口」と櫓門の先が信長の「奥御殿」。山頂の天守同様、信長の私的な空間でもありましたが、貴族や将軍家の使いの者など大事なお客さんを迎えるVIPルームのような場所でもありました。大小様々な部屋と手入れが行き届いた庭園が山麓の傾斜に階層的にいくつも配置されていたようです。

訪れる者を威嚇する「くい違い虎口」を抜け、通路を進むと建物の地下部分に入って行きます。これは地下から上に抜けるスロープになっており、そのまま建物の中に入っていくという演出になっていたようです。
イメージに近いものは熊本城の御殿に通じる「闇がり通路(くらがりつうろ)」でしょうか。熊本城の御殿は大広間の地下を抜ける通路が配してあります。このアイデアは信長時代の岐阜城が原型にあるのかもしれません。

岐阜城は金華山の麓の傾斜を利用した造りになっていますので、階段状に建物を配すことが可能です。そして階層を結ぶ通路にもこのような創意工夫が凝らされていたのです。信長は、ただ階段を登っていくだけではつまらんぞと考えていたのでしょうね。
信長は、小牧山城では山の傾斜を利用した全室南向きという山の手の住宅地を整備して名デベロッパー振りを発揮しましたが、岐阜城ではさらにフランク・ロイド・ライトもびっくりの名建築家としての才能も発揮しているのです。

もう一つの面白い演出として、この奥御殿の間を抜けるように小川が流れていました。

この小川は奥御殿では景観のアクセントになりますが、下方では表御殿を囲む石垣に沿って配された防御用の水堀を形成していました。一つの小川で性格が異なる二つの役割を演出していたというのも面白いなぁ。

 

ヤバいのは放火 とにかく放火に強い城にしろ!

城郭史のもう一つのエポックメイキングとして岐阜城では、信長時代の遺構から瓦が発見されています。

城の屋根に瓦なんて今でこそ当たり前の光景ですが、この時代の城の屋根は茅葺きか板葺きが一般的でした。
これは城があくまで軍事施設であり、どうせ破壊されるというコンセプトの下に、櫓や門などの城の建造物は掘っ立ての柱で作られた簡易的な建物だったことに起因します。

ゆえに美濃の各地で行われた攻城戦で、最も効果的な攻撃は放火でした。城が火に弱い理由は単純に建物が燃えやすい材質だったからです。攻城戦の度に放火しまくった信長としては、逆に城の弱点を補う意味で城の屋根に燃えにくい瓦を採用したのでしょう。

このあたりの考え方も信長は実に柔軟で合理的です。小牧山城では瓦は発掘されていませんので、岐阜城が城に瓦が使われた初めての城となります。
ちなみにまだこの時代は織豊期の城郭にみられるような金箔瓦ではありませんでした。金箔瓦の登場はもうちょっと先の話です。

これが信長時代の岐阜城の全貌です。惣構で城下町も城に取り込んだり、くい違い虎口を発明したり、城郭の屋根に瓦を採用したりと、信長時代の岐阜城は近世城郭の原型のような城だったのです。山麓の城に至っては戦国のモダン建築でした。現代に残っていてほしかった城ナンバーワンの城だったのです。

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