武将ジャパンの読者様、こんにちは!
「全国的には知られてないけど、ある地域ではバツグンの知名度を誇る戦国武将」というテーマでお送りしている当コーナー。
今回ご紹介するのは、永禄12年(1569年)8月11日に亡くなられた、レペゼン高知県安芸市の「安芸国虎(あき くにとら)」さんです。
申し遅れましたが、わたくし、「れきしクン」こと長谷川ヨシテルと申します。以降お見知り置きください!
安芸国虎 高知県安芸市で絶大な支持!
とにかく名前がめちゃくちゃカッコいい!
「安藝國虎」と書くこともあり、この時点で「あ〜知ってる知ってる」という方は、おそらく高知出身か『信長の野望』プレイヤーでしょう。
ということで『信長の野望』(シリーズは私が一番ハマった『革新』)から、安芸国虎さんの能力データを引用したいと思います。
コチラです!
【信長の野望 革新】
安芸国虎データ
統率64
武勇68
知略32
政治42
うーーーーむ、弱い……(笑)。
しかし、です!
地元の安芸市では絶大な支持を得ています。
実は昨年2019年は、安芸国虎さんの没後450年にあたり、安芸市立歴史民俗資料館では『安藝國虎没後450年記念展』を開催。
地元の高知新聞でも“安芸の英雄”として取り上げられました。
また、安芸市にある超有名なうどん屋さん(なんとパリに支店も!)の名は「国虎屋」です。
由来はもちろん安芸国虎さんですね。
手打ち麺と特製味噌ベースの出汁に、ゴボウやニラや豚肉が合わせられた力強いうどんだそうで。
その力強さのイメージとなったのも、そう、 安芸国虎さんなのです!

同じく安芸市観光協会サイトより引用/ちなみにアッシが安芸市を訪れた時は、営業時間外だったため食べられず……orz
地元では、とにかく人気抜群。
かつては「国虎祭り」が行われ、安芸国虎さん扮する武者行列も実施されただけでなく、昨年の特別展では『安芸国虎450回忌 人形劇 国虎物語』まで開催されました。
なんとも愛されているご当地武将ではありませんか。
そんな安芸市が誇る……あ……今更ながら安芸市ってどの辺にあるかご存知でしょうか? 急でスミマセン(笑)。
野球が好きな方、特に阪神タイガースが好きな方は、春と秋にファーム(二軍)のキャンプが安芸タイガース球場で行われているので見慣れているかもしれません。
高知龍馬空港から東に約20km、高知駅からは東に約35kmの辺り……って、地図をご覧いただいた方が早いですね。
こうして高知県の地図を見ると、おそらく戦国ファンの皆様はあの方を思い浮かべましょう。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)――。
岡豊城(おこうじょう・南国市)や浦戸城(うらどじょう・高知市)を拠点として四国統一を成し遂げた人物です(遂げてない説も)。
安芸国虎さんは、この四国が誇る名将“長宗我部元親の最大のライバル”であり、長宗我部家から安芸を守るために戦い、家臣や領民のために散ったと伝わるお方であります。

長宗我部元親/wikipediaより引用
それでは安芸国虎さんの人生に迫って行きましょう!
「土佐七雄」とは?
土佐国の戦国大名というと長宗我部家がダントツ有名。
しかし元親が天正3年(1575年)に四国を統一するまでは群雄割拠であり、大きな勢力が7つありました。
「土佐七雄」と称され、そのメンバーは次の通りです。
赤字:長宗我部家に攻められ滅亡した勢力
青字:長宗我部家に飲み込まれた勢力
以下に「土佐七雄」の概略を掲載させていただきますね。
ちょっと長くなりますので、飛ばし読みされれても大丈夫です!
長宗我部家
領地:長岡郡3,000貫
長宗我部兼序(元親の祖父)が永正5年(1508年)に本山家・大平家・吉良家・山田家に岡豊城を攻められ滅亡。
一条家に落ち延びた息子の長宗我部国親(元親の父)が後に岡豊城に復帰して勢力を伸ばし、長宗我部元親が土佐国を統一する。
○系譜メモ:長宗我部兼序―国親―元親
香宗我部家
領地:香美郡4,000貫
大永6年(1526年)に東の安芸家に攻められ大敗。
西の長宗我部家からも圧力を受けたため、弘治4年(1558年)に香宗我部親泰(長宗我部国親の三男・元親の弟)が養子に入り、長宗我部家に飲み込まれる。
※香宗我部家の代わりに香美郡の「山田家」(香宗我部家の親戚)を入れる場合も
大平家
領地:高岡郡4,000貫
天文15年(1546年)に一条家に蓮池はすいけ城(土佐市)を攻め落とされる。
小領地を与えられていたものの、謀反を疑われ永禄9年(1566年)に再び一条家に攻められ滅亡した。
吉良家
領地:吾川郡5,000貫
天文9年(1540年)に本山茂宗に攻められ滅亡。永禄6年(1563年)に吉良親貞(長宗我部国親の次男・元親の弟)が養子として復興する。
長宗我部家に飲み込まれた。
津野家
領地:高岡郡5,000貫
長宗我部家に対抗するが、長宗我部家への従属を勧める家臣たちにより当主(津野定勝)が追放され、従属化。
後に長宗我部元親の三男(津野親忠)が養子に入り、飲み込まれる。
本山家
安芸国虎さんと同じくアンチ長宗我部家!
本山茂宗の代にピークを迎えるが、本山茂辰(茂宗の子)が永禄3年(1560年)【長浜の戦い】で長宗我部国親・元親の親子に大敗する。
大劣勢の中、本山茂辰は4年後に病死。跡を継いだ本山貞茂は滅亡寸前となり、元亀2年(1571年)に降伏した。長宗我部元親に従属して一字をもらい「本山親茂」と改名する。
【系譜メモ】本山茂宗―茂辰―貞茂(親茂)
安芸家
領地:安芸郡5,000貫
安芸国虎さんの代にピークを迎える。
アンチ長宗我部家の代表的存在として長宗我部元親と戦う。詳しくはこの後!
以上、土佐七雄の上には、リーダー的立ち位置で別格の「一条家」もいました。
この一条家は特殊な存在で、元々は京都にいた一条教房という元関白が、応仁元年(1467年)に始まった【応仁の乱】から逃れるため、土佐国にあった領地の幡多荘(四万十市)に下向したことがスタートとされる大名家です。
つまり公家から戦国大名化したんですね。
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戦国大名に転身した名門貴族~土佐一条家はなぜ四国に下向した?
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非常に珍しい一族であり、領地も16,000貫と別格でした。

中村御所(一条家の本拠地:高知県四万十市) の後には、現在一條神社が建っている/本社拝殿と天神社/photo by Saigen Jiro wikipediaより引用
ご先祖様はあの蘇我氏!?
飛ばし読みされた皆さま、お帰りなさいませ。
とりあえず土佐七雄については、安芸国虎さんの時代に土佐国でブイブイ言わしていたのが「一条家」「長宗我部家」「本山家」そして「安芸家」だと思っておいてください。
さて、今回の主人公・安芸国虎さんは享禄3年(1530年)に生まれたと言われています。
タメ歳には上杉謙信や大友宗麟などがおりますね。

上杉謙信(左)と大友宗麟/wikipediaより引用
安芸家の家系はスタートがよく分かっておらず、諸説あり、一説には蘇我赤兄が家祖ともされています。
蘇我氏といえば?
皇極天皇4年(645年)の【乙巳の変】で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足のクーデターにより、滅亡した一族というイメージが強いかと思います。
しかし、滅ぼされたのは、あくまで蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子であり、実はクーデター側についた蘇我氏もいました。
蘇我倉山田石川麻呂といいます。名前、長っ!(笑)
ちなみに、乙巳の変で蘇我入鹿を討ち取った実行犯・佐伯子麻呂については、拙著『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)でまとめております。
ぜひお手にお取りくださいませ!(すいません、宣伝です・笑)
話を戻します。
安芸国虎さんの家祖とされる蘇我赤兄は、蘇我倉山田石川麻呂の弟でした。
赤兄は、兄がクーデターに協力したこともあり天智天皇の重臣となるも、その天皇が亡くなった天武天皇元年(672年)に、皇位継承争い【壬申の乱】が勃発。
蘇我赤兄は大友皇子(天智天皇の子)に味方をし、敵方である大海人皇子(天智天皇の弟)に敗北しました。敗者の蘇我赤兄は、死は免れるものの配流となってしまいます。
この配流先が詳細不明でして……伝承の1つとして挙げられるのが、古代から配流先の定番だった土佐国なんです。
そして、その末裔(?)というのが安芸国虎さん!
いやぁ、長くなりましたが、話を安芸国虎さんの時代へぶっ飛びましょう。
名門の管領・細川家や一条家との深い繋がり
安芸家は、室町時代後半からグーンと力を伸ばしていきます。
まず安芸国虎さんの父・安芸元泰が大永6年(1526年)、隣接する香美郡の香宗我部家を攻撃。
西に勢力を拡大していきました。
跡を継いだ安芸国虎さんは、歴代安芸家の当主と同じく室町幕府の管領・細川家から偏諱(名の一字)である「国」を貰います。
当時の管領は細川高国です。

細川高国/wikipediaより引用
歴史好きには“魔法使いになりたかった男”としてお馴染み細川政元の養子で、第10代将軍・足利義稙(別名「足利義材」)を擁立した実質的な天下人でもあります。
高国は、対立した三好之長(三好長慶の曽祖父)を死に追い込むものの、逆にその孫・三好元長(長慶の父)に攻められて自刃しています。
将軍擁立にまつわる室町時代の権力争い、詳しくは『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)で!
宣伝ばかりでダメですね、すみません!
ともかく安芸国虎さんと繋がりのあった権力者は細川高国だけではありません。土佐国の盟主である一条家とも強い繋がりを持ちました。
土佐湾を挟んだ西の一条家から正室(名は「峰子」とも・一瞬感じるルパン三世感)を迎え、名門の親戚となったのです。
これにより安芸家の存在感はぐぐーんとアップ!
父の代で香美郡を支配下に置いていたため、新たに領地を接した長宗我部元親が敵となります。
ちなみに、長宗我部元親は天文8年(1539年)生まれなので、安芸国虎さんの9歳年下。
両者は永禄年間(1558〜1570年)のはじめ頃(1560年前後?)、初めて本格的なご近所トラブルへと発展していくのでした。
岡豊城に攻め込み落城寸前まで追い込むが……
土佐国に夜須(香南市)という地域があります。
この地域は安芸国虎さんが支配していたのですが、長宗我部元親が侵攻して重臣の吉田重俊(幕末の土佐藩士・吉田東洋はその末裔!)を派遣していました。
安芸国虎さんは、これを奪還しようと画策。長宗我部家と一触即発の緊張関係となります。
そして両者が激突したのが1563年(永禄6年)のことでした。口火を切ったのは長宗我部……。
この年、ライバルの長宗我部元親は、北部・本山城(本山町)の本山茂辰を攻めていました。
前述の通り、本山茂辰は【長浜の戦い(元親の初陣)】で長宗我部に大敗した後、海岸部の拠点である浦戸城だけでなく、平野部の拠点・朝倉城まで奪われ、かつて本拠地だった山間部の本山城に逃れていました。
そこへ長宗我部元親が「トドメを刺そう」とばかりに出陣した、その隙を突いたのが安芸国虎さん!
政略結婚により同盟を結んだ一条家と共に挙兵して、東西から長宗我部元親の居城である岡豊城に攻め寄せました。
安芸国虎さんの軍勢は約2,000。
そこに一条軍が加わり合計約5,000。
手薄だった岡豊城を囲い込み、長宗我部家は苦境に追い込み、本拠地も「すわ落城か!」というところまできました。しかし……。
【福留の荒切り】で落城のピンチを回避
主君・長宗我部のピンチを聞きつけた吉田重俊が夜須から駆け付け、さらに福留親政という長宗我部家の重臣も援軍に到着しました。
この福留親政がとにかく強い強い。
例によって『信長の野望 革新』の能力は、こんな感じです。
【信長の野望 革新】
福留親政データ
統率64
武勇87
知略45
政治30
武勇、高っ!
この高い武勇が設定されたキッカケと思われるのが、この岡豊城の攻防戦なんですね。
援軍に駆けつけた福留親政は、安芸国虎さん&一条家の軍勢に斬りかかって37人(20人とも)を斬り伏せ、【福留の荒切り】と称された戦いぶりを見せたと伝えられています。
安芸国虎さんにとっては不運としか言いようがない。この憎き福留親政らの活躍により、落城寸前まで迫った岡豊城から撤退を余儀なくされてしまいました。
これまたちなみにですが、援軍を送ってくれた一条家の当主は、京都から下向してきた一条教房の孫の孫にあたる「一条兼定」というお方。
コチラの人物もまた、戦国好きの中で非常にコアなファンが付いていますね。
魅力の要素は“その弱さ”でしょうか。これまた『信長の野望 革新』から引用しますと、能力値はこんな感じです。
【信長の野望 革新】
一条兼定データ
統率2
武勇18
知略1
政治37
えっ!
久々に能力を確認して驚きました。いくらなんでも低すぎやしませんか!!!(笑)
一条兼定も当連載で取り上げても面白いかもしれませんので、詳しくはまた今度。
一条家は、一条房家(京都から下向してきた一条教房の子)の時に、一度滅亡に追い込まれた長宗我部家の遺児(後の長宗我部国親=元親の父)を保護。
長宗我部家の再興を手伝ったお方なんですが、その後、長宗我部家に滅ぼされることになります。何とも皮肉。
さて、話を安芸国虎さんにグッと戻しましょう!
長宗我部元親と激突! 八流の戦い
【岡豊城の戦い】により、安芸国虎さんと長宗我部元親の対立は本格化。
すぐさま再戦の動きになったところで一条兼定が両者を仲介し、翌永禄7年(1564年)に和睦となりました。
この後、表立って大きな争いは無く、再び両軍が激突するのは永禄12年(1569年)のこと。安芸国虎さん40歳、長宗我部元親31歳の時でした。
同年4月、安芸国虎さんのもとへ、長宗我部元親から急に使者が訪れ、次のようなことを伝えたといいます。
「数年前、不慮の事(夜須の領地争い、岡豊城の攻防戦)が起きて、確執が生まれてしまいました。
戦国にはよくあることですが、これでずっと怨敵というわけではないでしょう。
近々、岡豊城へお越し下さい。会談をして和睦の誓約を結び、同盟を組みましょう」
この使者の口上に対して、読者の皆さんが安芸国虎さんだったら、どのように返答されます?
個人的な感想ですと、まず「怖い」。絶対、暗殺モードじゃないですか、これ。仮病で会見を断りたくなりますよね。
ただ、すでに使者と会ってしまっていると、仮病がバレてしまいそうですが(笑)。
とにかく、私だったら岡豊城には絶対行かないです!
しかし安芸国虎さんは、私のようなチキン野郎とは少し違ったようです。
結果的には「岡豊城には行かない」という点は一緒なのですが、断った理由は“安芸の英雄としてのプライド”でした。
安芸国虎さんは次のように答えます。
「互いに領地の境に出て誓約を結ぶべきであろう。岡豊城に来いというのは、私に降参しろと言っているのか」
家格も領地の大きさも長宗我部元親に劣らない安芸国虎さんは、同盟相手の一条家の援軍も見込んで、追い返す気満々。
しかし、重臣の黒岩越前守が次のように助言します。
「現状では、同盟相手の一条兼定が、隣国(伊予国の西園寺公広)と戦っていて援軍は見込めません。そのため長宗我部元親との友好を保つ方が……」
しかし、安芸家の家格を冒涜された安芸国虎さんは、長宗我部元親が送り付けてきた無礼な使者を岡豊城には返します。
使者を斬り捨ててもおかしくない場面ですが、きちんと送り返すところに安芸国虎さんの人の好さを感じます。
こうして、冷戦関係だった両者の対立の火は再び着火。土佐名物・カツオ藁焼きの藁くらい一気に燃え上がり、7月に雌雄を決する【八流の戦い】が起こります!
敵援軍を装った漁船! 続出する裏切り……
先手を打ったのは長宗我部元親でした。
すでに北部の敵だった本山家を滅亡同然に追い込み、兵の動員に余裕が出ていた長宗我部家は7,200の兵で岡豊城を出陣。
安芸家の忠臣・黒岩越前守が守っていた金岡城を包囲します。
黒岩越前守はわずか500の兵で三日三晩籠城戦を繰り広げますが、ついに力尽きて安芸城へ撤退となりました。
金岡城を落とした長宗我部元親は和食(芸西村)あたりに陣を張ったといいます。
赤い拠点(左)→岡豊城
赤い拠点(右)→和食の陣
黄色拠点(左)→八流の陣
黄色拠点(右)→安芸城
これを迎え撃つために安芸国虎さんは、本拠地の安芸城や海沿いの支城・新城城と穴内城の防備を固め、5,300の兵を率いて出陣。
海に面した要害の地である八流あたりに陣を張ったといいます。
地の利のある安芸国虎さんが合戦を優位に進めるように思えますが、長宗我部軍は奇策を以って安芸国虎さんの軍勢を翻弄します。
アノ吉田重俊とソノ孫の吉田孝俊が、事前に周辺の漁師を買収。合戦中に船の上から鬨の声を挙げさせ、援軍が訪れたように見せかけたといいます。
この奇策によって安芸国虎さんの軍勢は大きく動揺をしました。
しかも、長宗我部軍が買収していたのは漁師だけではありませんでした。
安芸家の譜代家臣たちは長宗我部軍に調略され、次々に安芸国虎さんを裏切っていくのです。
裏切り者たちは長宗我部軍の山越えルートを先導。安芸国虎さんの軍勢の背後に迫りました。
奇計、裏切り、奇襲―――。
最悪な状況に陥った安芸国虎さんは、安芸城へと撤退し、籠城戦に持ち込むほかありませんでした。
兵糧は尽き井戸には毒……城兵の命と引換えに自害を
安芸家代々の居城だった安芸城が築かれたのは、延慶2年(1309年)と伝えられています。
大きさは約10ヘクタール(東京ドーム約2個分)。
詰(城内の小山・見張りや籠城戦用の施設)からは安芸平野や太平洋を一望でき、東には安芸川、西には矢の川が流れ、北には城ヶ淵が広がる天然の要害でした。
この地を頼りに籠城戦を続けた安芸国虎さん。
しかし頼みの綱の一条家からは援軍を見込めず、さらに長宗我部軍の調略によって籠城していた将兵が続々と寝返り、城内に蓄えていた兵糧も尽きてしまいます。
そして、籠城から24日後―――。
東の安芸川対岸から放たれた長宗我部軍の火矢によって安芸城は炎上。
さらに悪いことに、長宗我部軍に内応した横山民部という者が城内の井戸に毒を入れしまったため、飲用水の確保すら出来なくってしまいました。
ちなみに、この時の井戸と伝わるものが、現在も安芸城に残されています。
兵も糧も失った安芸国虎さんは、ついに長宗我部元親に降伏することを決意します。
その時、一つの条件を提示しました。
「城兵全員の助命」です。
長宗我部元親はこれを承諾。国虎さんは菩提寺である「浄貞寺」を最期の地に選びました。
ただし、自害の前に遺児・安芸千寿丸を阿波国(徳島県)へ側近と共に落ち延びさせ、さらに正室を実家の一条家に送り返しています。
浄貞寺は安芸国虎さんの祖父の安芸元親(皮肉にも名前が元親!)が明応4年(1495年)に建立し、山号を「元親山」と称したそうです。
寺名は、祖父の法号「正仲浄貞」に由来するもので、父の安芸元泰が名付けました。
境内には父と祖父のお墓が立てられています。
8月11日。
浄貞寺に入った安芸国虎さんは、最後の最後まで付き従ってくれた家臣たちが見届ける中、境内の池で太刀を清めた後に切腹をしました。
写真を撮り忘れてしまったのですが、現在もその池は「太刀洗の池」として伝えられています。
浄貞寺に国虎、越前守、石見守らの墓と「袂杉」
重臣の有沢石見守は、安芸国虎さんの介錯を務め上げた後、主君を追って自害。
一方、黒岩越前守は主君の正室を一条家に送り返した後に、その才覚を評価されて長宗我部元親から仕官の誘いを受けたといいます。
しかし、忠義の男・黒岩越前守はその誘いを拒否して、8月18日、主君の供養を済ませた後に殉死しました。
安芸国虎さんのお墓は、最期の地である浄貞寺に建てられており、殉死した二人の忠臣のお墓も主君のお墓を守るように今も並んでいます。
なお、安芸国虎さんのお墓の背後には「袂杉」と呼ばれる大杉が立っています。
この逸話が、また泣けるんですよ。
実は、この袂杉を植えたのは安芸国虎さんの正室。無事、一条家の中村御所に送り届けられたのですが、後に亡き夫のお墓を訪れて植えたと伝えられているんです。
初代の袂杉は残念ながら、大正9年(1920年)の台風で倒れてしまったそうで、今は2代目がお墓を見守っています。
お墓の奥の石段を登ったところには、安芸国虎さんや殉死した有沢石見守や黒岩越前守、安芸家の祖とされる蘇我赤兄などを祀った「安藝神社」が建立されています。
大正2年(1913年)、安芸家にゆかりのある有志の方々によって建てられたものです。
長宗我部は滅び、後任は山内家
長宗我部元親はその後、安芸城に弟の香宗我部親泰を入れて「安喜」と改名し、阿波国に攻め込むための拠点としました。
四国を統一しても豊臣秀吉との対立から領地を減らされ、さらには長男の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死し、元親は失意の内に亡くなります。
それが慶長4年(1599年)のこと。
跡を継いだ四男・長宗我部盛親は西軍に付いてしまい、同家は改易となってしまいました。
替わりに土佐国へ入ったのが大河ドラマ『功名が辻』(→amazon)でもお馴染みの山内一豊です。
一豊は安喜城に重臣の後藤為重を入城させています。ドラマでは小倉久寛さんが演じてましたね。
ちなみに主役の山内一豊は上川隆也さん、正室の千代は仲間由紀恵さん、後藤為重の兄・後藤吉兵衛は武田鉄矢さんでしたね。懐かしい!!
※『功名が辻』はアマゾンプライムから見れますね!(NHKオンデマンドで有料)
その後、安喜城は元和元年(1615年)の「一国一城令」を受けて“お城”としてキープできなくなってしまいました。
「安喜土居」と改称して、明治時代まで後藤家の拠点となっています。
城内には明治20〜30年に後藤家が建てた屋敷が残されていて、安芸市の文化財に指定されました。
城下町は、現存の武家屋敷をはじめ、江戸時代の雰囲気がしっかりと残っています。現在は「土居廓中」と呼ばれ、国の『重要伝統的建造物群 保存地区』に選定。
また、安芸市は岩崎弥太郎の出身地です。
生家が現存し、生家前には銅像が建てられていますので併せてどうぞ!
息子・千寿丸の後日談
阿波国に逃れた安芸千寿丸は、阿波国の大名・三好家の家臣である矢野備後守のもとで養育されます。
その後、板西城(徳島県板野町)の城主である赤沢(信濃守)宗伝を頼って元服し「安芸(飛騨守)重宗」と名乗ったといいます。
ところが、天正10年(1582年)に板西城はある大名に攻められて落城。
お世話になった養父の赤沢宗伝も討ち死にしました。
この攻め手の大名というのが長宗我部元親です。何という因縁……!
安芸重宗は武士に嫌気が差したのか。
現在の板野町犬伏というところに住み着き、土地を開墾して農家を始めたそうです。
名前も「彦兵衛」に変えた後、さらに「二十太夫弘恒」に改め、寛永14年(1637年)に亡くなったといいます。
この伝承がどこまで真実かは分かりませんが、徳島県は「安芸」姓が多い都道府県です。
特に板野町には「安芸」の名字が多く、安芸重宗が住み着いたという犬伏の畑に立っている五輪塔は、現地の安芸家の方々が安芸重宗の墓と語り伝えているそうです。
もしかしてアンジェラ・アキさんは???
最後に!
「もしかして…?」のお話を1つ。
“徳島県板野町”で“安芸”というと、ほら、アノ有名アーティストがいるではありませんか!
そう!「アンジェラ・アキ」さんです!
本名は「安藝聖世美」さんなのですが、もしかしてアンジェラ・アキさんは、安芸国虎さんの末裔だったりして???
安芸千寿丸が阿波国に逃れたのは13歳って説もあるようで、そうすると、赤沢宗伝の許で元服をして安芸重宗と名乗ったのは15歳だったかもしれません。
となると、アンジェラ・アキさんの代表曲の『手紙~拝啓十五の君へ~』は、元服を迎えたものの父の安芸国虎さんを失って悩み苦しむ安芸重宗へ宛てた曲なのかもしれない!!!!(絶対違う)
えっと、以上です。
今回も熱くなり、長文になってしまいました(笑)。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
次回もお楽しみに!
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◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)






























