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細川家

三淵藤英が信長と光秀に処刑されるとき~麒麟がくるで谷原章介演じる名門武将

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三淵藤英なる幕臣――戦国武将をご存知でしょうか?

当代きっての風流武将・細川藤孝細川幽斎)の兄にあたり、足利義昭の上洛&将軍就任に際しては、ひとかたならぬ貢献をし、本来であればもっと世に知られていい人物です。

しかし、実際はそうではありません。
弟・藤孝と違い、三淵藤英は、義昭と信長の間で激しく苦悩し、最終的には志半ばにして自害へと追い込まれました。

その自害に関わったのが『麒麟がくる』主人公・明智光秀です。

織田信長
・明智光秀
・細川藤孝
・足利義昭

という大河ドラマの中心人物4名と、そして……

彼らを結びつけるキーパーソン・三淵藤英。

一体どんな生涯を送ったのか?
史実に基づいて振り返ってみましょう。

 

弟と共に将軍を支えた三淵藤英

三淵藤英は生年が不明ながら、ある程度の推測はできます。

弟の細川藤孝が1534年6月3日生まれなので、それより数年前、享禄から天文のはじめあたり(1528年からの数年間)でしょう。
1534年と言えば織田信長が生まれた年でもあります。

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父は室町幕臣として13代将軍足利義晴に仕えた三淵晴員。
藤英は、後継者となることを期待されておりました。

経歴だけ見ると、
『身分の高い生まれで、戦乱とは無縁では?』
と思われるかもしれませんが、さにあらず。

彼には特筆すべき点がありました。

実弟(異母弟とも)が「戦国最強の文化人」として名高い細川藤孝(細川幽斎)だったのです。

細川と三淵――。

二人の名字が違うのは、次男として誕生した藤孝が養子として細川晴広へ送られたから。
藤孝は姓を「細川」と改めましたが、兄弟離れ離れになったとはいえ両者共に幕臣の家系であり、後には幕府の奉公衆として将軍を補佐していきます。

 

13代将軍義輝の暗殺事件

藤英が史料に登場するのは天文9年(1540年)のこと。

当時、父と同じく12代将軍・足利義晴に仕えており、相国寺鹿苑院へ使者として派遣されています。

この頃の年齢は、おそらく10歳そこら。
子供が使者になるなんて……と、時代の違いを感じさせますが、その後、洛中で起きた権力争いの結果、将軍・義晴は京都を離れて坂本への移動を余儀なくされ、天文15年(1546年)には息子の足利義輝へ将軍職を譲りました。

藤英も義輝へと主君を変え、弟の藤孝と同じく足利義輝の京都復帰と権力確立のために奔走します。

兄弟の尽力もあり、永禄元年(1558年)に5年ぶりの帰京を果たした義輝。
各地の戦国大名と積極的な交流を図ることで体制の安定化を目指します。

彼に仕えていた藤英が、当時、どのような行動をしていたのか?

具体的に把握することは難しいですが、弟・藤孝の動きから察するに、それまでの期間と比べて平穏な日々を送っていたようです。

ようやく将軍の周囲が落ち着いた――。

そう思われた矢先の永禄8年(1565年)5月18日、藤英ら幕臣だけでなく日本史を揺るがすような大事件が発生します。

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ようやく京都に復帰して室町幕府再興。
その矢先の凶事でした。

※三好三人衆=三好長逸・三好宗渭・岩成友通

 

「次期将軍は、覚慶でいかがだろう?」

将軍暗殺という一大事に、二人は多大なショックを受けたでしょう。
しかし落ち込んでもいられず、すぐさま次の一手を講じます。

「次期将軍は、覚慶にしてはいかがだろうか?」

実は暗殺された義輝には、興福寺一乗院で僧侶を務める覚慶という弟がおり、この僧を擁立しようと考えたのです。

とはいえ、ことはそう簡単ではありません。

三好三人衆や松永久秀らは、足利義栄を次期将軍職につけるため、覚慶が余計な動きをしないよう興福寺一乗院に幽閉したのです。

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厳しい監視体制の中。
覚慶は、如何にして寺を脱出したか?

詳細は不明ながら、医学に詳しい米田求政が医者に化け、監禁場所や逃走ルートなどの下調べをしたと言います。
彼ら幕臣だけでなく興福寺僧侶の協力も得られたようで、同年7月28日、藤英や藤孝ら幕臣は囚われの身にある覚慶を救出し、まずは近江の和田惟政を頼り、その後、紆余曲折を経て越前朝倉氏のもとへと出向きました。

将軍候補の身でありながら、流浪の生活を送る覚慶は永禄9年(1566年)2月17日、還俗して足利義秋となります。

そして、その2年後に足利義昭へ改名。
以後、藤英は義昭の将軍就任に向けた活動を補佐していくこととなるのでした。

 

信長の協力を取り付け、義昭ついに15代将軍

朝倉氏の庇護下に入った義昭は、京都復帰と将軍就任を目指し、諸大名へ協力を要請します。

彼が文書を発給した大名の数は非常に多く、その中でも特に手助けを期待していたと思われるのが上杉謙信と織田信長でした。

まずは謙信。
12代将軍・足利義晴のころより懇意な関係にある上杉家にまずは望みをかけました。

が、関東で北条氏康や信濃で武田信玄との抗争に明け暮れている身では、そう簡単に上洛の支援はできません。

次に協力を見込んだのは織田家です。
すでに永禄8年(1565年)には藤孝の仲介で、信長と義昭の間に交流をもたせておりました。

義昭の要望に対し信長は
「いつでも上洛にお供いたします」
と非常に前向きな返答を行っており、義昭の幕臣らは彼に大きな期待をかけたことでしょう。

ところが、永禄9年(1566年)になると、これまで上洛に乗り気であったはずの信長が突如として協力を渋り始めるのです。

 

永禄11年――いざ上洛へ!

実際に、どうやって上洛するか?

おそらくや、信長はそこを考え、冷静になったのでしょう。
このころはまだ美濃・稲葉山城(岐阜城)を制してはおらず、尾張から軍を引き連れての入京は実質不可能な状況にありました。

小規模(80人ほど)の伴を連れての上洛であればすでに経験があります(以下に参照記事)。

京都上洛の信長に刺客が!~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第31話

『 ...

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しかし、一定規模の軍を連れてとなると俄然話は変わってきて、美濃だけでなく、近江でも敵が待ち構えており、現実的ではありません。

こうしている間にも藤英は、同じく幕臣の和田惟政らと共に別の上洛工作も手掛けるなど、本気であることがわかります。
信長とは、いささか距離感があるんですね。

そしてこの距離感こそが、後に藤英と藤孝の運命を左右するのですが……それは後述するとして、結局、信長が再度上洛に協力を表明するのは永禄10年(1567年)に稲葉山城の戦いに勝利して美濃を治めた後のことでした。

永禄11年(1568年)9月7日――いざ上洛へ!

義昭ら一行は、織田信長という後ろ盾を獲得して、道中の六角氏を打倒。
仇敵・三好三人衆も、信長を警戒して京都を離れるなど、上洛の障害はすべてクリアされ、同年9月28日、義昭は悲願であった京都入りと将軍職就任を果たすのでした。

数年の流浪を経てようやく将軍に就任した義昭の晴れ姿を眺める幕臣たちの心情にも、さぞこみ上げるものがあったでしょう。

なお、上洛の過程を詳細に知りたい方は、本サイト連載「超わかる信長公記」から以下の記事を御参照ください。

信長と義昭 上洛戦の一部始終!戦国初心者にも超わかる『信長公記』第52話

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幕府奉公衆として、義昭の側近として活躍

ここまで義昭の将軍職就任への流れと共に三淵藤英の足跡を振り返ってきました。

個人的に細川藤孝や和田惟政と比べてインパクトが薄く感じるのですが、それはやはり信長との交流が少なく、特徴的な逸話もないためです。

しかし、藤英が何もしていなかったことにはなりません。

義昭が将軍となって以降は、
・幕府の奉公衆として
・義昭の傍らに仕える側近として
信長と義昭の二頭体制で大きな存在感を発揮するようになります。

地味ではあるのですが、藤英が幕府の実務処理を担ってもおりました。

以下、その両面から藤英の活躍を追っていきましょう。

まず、藤英は幕府奉公衆の一員として多数の戦に参加をしております。
一番派手なのが【本圀寺の変】でしょう。

永禄12年(1569年)1月4日、京都帰還を目論む三好三人衆が将軍・義昭のいる本圀寺を襲いました。
が、三淵藤英や細川藤孝、三好義継、明智光秀らが、守備側が寡兵ながらよく戦い、将軍の窮地を救っています。

本圀寺の変(六条合戦)で信長ヒヤヒヤ~超わかる『信長公記』第56・57話

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時系列を無視して記述しますと、高槻城での戦いや、三好長勝らとの合戦、あるいは高屋城や京都留守衆としての働きなど、数多の戦歴が残されています。

実務面では、書類の発給や取次などの業務にも携わりました。そして……。
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