三淵藤英

大河ドラマ『麒麟がくる』で活躍した三淵藤英(右)と細川藤孝/絵・小久ヒロ

細川家

信長と義昭の狭間で苦悩~藤孝の兄・三淵藤英は突如自害を命じられ

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合戦や日常業務なども的確にこなす藤英は、幕府内で大きな力を有し、その事実は外部の人間も知るところであったようです。

実際、戦国時代の一級史料としてしばしば参照される『兼見卿記』の作者・吉田兼見が、藤英を頼りにしており、その影響力が想像できます。

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もともと兼見が弟・藤孝とイトコという関係にあり、藤英のもとへ何度も足を運んでいるのです。

また、時期は定かでないものの、藤英は京都・伏見城主にも任じられ、山城国内に相応の知行地を持っていたと考えられます。豊臣秀吉が築いた伏見城とは別の城で、「三淵伏見城」については詳細がよくわかっていません。

以上の点からも、藤英は幕府内で安定した地位を築いていたことがわかります。

が、時同じくして信長と義昭の対立が表面化していき、幕臣たちは「理想と現実」の狭間で苦しめられるようになっていくのです。

 

藤孝と決別し最後まで義昭に尽くす

永禄12年(1569年)以降、信長と義昭の二人は徐々に確執を抱えるようになっていきました。

義昭は各地の大名に「信長包囲網」を呼びかけ、信長もこの動きに激しく抵抗。

京都は不穏な空気に包まれます。

ここで一番割を食ったのが藤英をはじめとする幕府奉公衆の面々でした。

彼らは「将軍への忠義」を貫いて義昭に味方するか、「強大な勢力」を誇る信長のもとへ走るか、その選択を迫られました。

上洛の際に感じていた信長との距離感とは、まさに義昭将軍の処遇について、でした。

和田惟政も、この対立に懊悩を抱えておりました。

惟政は、義昭と信長の仲介に奔走したと考えられていますが、それが原因だったのか信長の怒りを買い、一時期、史料から名前が消えてしまっています。

1年ほどで許しを得たものの、元亀2年(1571年)、義昭に味方した池田知正との戦いで、惟政は命を落としました。

一方、藤英の実弟である藤孝は、義昭を見限り信長へと接近。

元亀2年ごろから信長への連絡回数が増加しており、元亀4年(1573年)には包囲網の形成を目論む義昭の方針に異を唱えます。

結果、怒りを買い、鹿ケ谷での謹慎や勘当を経て、同年中に藤孝は信長への忠誠を誓いました。

 

義昭方への味方を表明するも弟は

かように幕臣の間でも信長服従の動きが表面化する中、藤英はあくまで将軍への忠誠を違えませんでした。

対立初期は信長の戦にも従軍していますが、元亀4年に信長と義昭の間に合戦が勃発すると、そこで正式に義昭方へ味方することを表明。

これまで兄弟として足利将軍家を支え続けてきた両者はついに敵同士になってしまいます。

将軍を見限った弟の藤孝。

藤英にしてみれば「どうしてそんな非道なことができるのか!」という気持ちだったかもしれません。

実際、彼は信長に下り、勝竜城へ籠った藤孝を攻撃する構えを見せる程で、両者が戦場で相見える可能性さえあったほどです。

結果的にこの戦は未遂に終わりましたが、ここから兄弟仲が決定的に冷え込んでいたことを理解できます。

義昭は京都を出ると、槙島城に籠って信長軍と戦う構えを見せました。

藤英もこれに従って将軍不在の二条城を守り、2,000の兵と共に信長軍を迎え撃ちますが、大軍に包囲されてしまうと公家衆が震え上がるばかりか、共に籠城していた日野輝資や高倉永相らも降伏し、兵たちも次々に逃げ出してしまいます。

藤英だけはあくまでも一人抵抗を続けました。

が、最終的には柴田勝家の勧告を受け入れて城を明け渡しました。

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戦の経験豊富な藤英に、この絶望的な状況が理解できなかったはずはないと思いますが、すぐに城を去らなかったのは義昭に対するせめてもの義理立てであったのかもしれません。

なお、藤英を含めて信長に降伏した勢力は一切の処罰をされておらず、彼も信長の家臣として活動を開始しました。

潔く降伏した者に対しての信長は、かなり柔軟な対応をするのでした。

 

突然の記録断絶と謎の死

信長の家臣となった藤英は将軍方の残党狩りに協力し、再び藤孝と共に淀城の岩成友通を攻撃。

彼を打倒して城の確保に成功しました。

しかし、この後の藤英は、突如として一切の記録から消えてしまいます。

騒動終結後に伏見城は安堵されたようですが、信長家臣として活躍していた形跡が全く見当たらず、これまで親しくしていた吉田兼見の日記も欠落していて、その動向が闇に包まれるのです。

薄気味悪いほどに記録から姿を消した藤英。

再び表舞台に現れたのは天正2年(1574年)5月のことでした。

その内容は、不憫なものです。

三淵家の居城「伏見城を破棄せよ」という信長の命令であり、藤英とその子・三淵秋豪(みつぶちあきひで)は明智光秀坂本城へ預けられました。

そして、それからわずか2か月後。

藤英と秋豪は自害を言い渡され、その生涯を終えるのです。

藤英、近江坂本城に自害すること、本年7月6日の条に見ゆ。『年代記抄節』

年齢は不詳ながら1530年頃の生まれだとすれば、享年45前後だったでしょう。

 

信長が幕府勢力の一掃を目論んだ

晩年の藤英に関してはとにかく謎ばかりです。

・1573年8月~1574年5月の間どのような行動をしていたのか?

・なぜ記録に現れないのか

・どうして伏見城は突如破棄されたのか

・藤英に加えて子まで自害を言い渡されたのはなぜか

疑問点を挙げていくとキリがありません。

一応、推測できる範囲で藤英の死を検討すると、同時期に細川昭元が槙島城を没収され、塙直政が南山城守護に任じられていることから、

【信長が幕府勢力の一掃を目論んだ】

という意図が見えます。

もっとも、所領の没収だけでなく父子の死まで言いつける必要性は感じられません。

ここには記録に残されていない「何か」が影響しているのでしょう。その「何か」によって信長の怒りを買ったと考えるのが、苛烈な処分の理由ではないでしょうか。

弟である藤孝が、藤英の助命に動いている様子も確認できず、【信長勘気説】による藤英の死を後押ししているように思えます。

下手をすれば藤孝ですら身が危なくなるような何かがあったと思うのです。

藤英と藤孝兄弟は、確かに一時は敵同士となりました。

しかし、藤孝が、藤英の死後に次男・三淵光行を養っているという事実もあり、二人がずっと不仲であったとは考えにくいです。

この光行、後に徳川家康に仕えて旗本となり「三淵」の名と血脈を後世に伝えるのでした。

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文:とーじん

【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『信長と将軍義昭(中央公論新社)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon

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