北条氏直/wikipediaより引用

北条家

北条氏直30年の生涯 秀吉と対峙した関東覇者の最期とは【戦国北条五代記】

混乱に乗じて所領を拡大し、瞬く間に関東の覇権を握った北条氏

小田原城という日本屈指の堅城を構えて上杉や武田と戦う様は、まさにキングオブ戦国大名の一角であり、
北条早雲
北条氏綱
北条氏康
という三代についての話となると、テンションの上がる戦国ファンも少なくないでしょう。

しかし、その後二代はどうか?

北条氏政
・北条氏直

北条五代という目で見たとき、まるで戦後処理といった厳しい見方になってしまったりしませんか?

彼らがが決して無能ではなかったことは、以前、北条氏政の記事を作成したときにも申し上げさせていただいており、

北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗したか? その生涯53年【戦国北条五代記】

勝 ...

続きを見る

今回、注目したいのはその息子。

北条氏直の生涯について振り返ってみたいと思います。

 

北条氏直は今川家の当主になる予定だった!?

北条氏直は永禄5年(1562年)、北条家四代当主・北条氏政の息子として生まれました。

氏直には彼よりも年長の兄がおりましたが、その兄が早くに亡くなり、実質的な長男として育てられていくことになります。

母は氏政正室の黄梅院殿。
武田信玄の娘にあたる女性です。

信玄の娘にして氏政の妻・黄梅院 同盟破棄により起きた悲劇の離別とは?

永 ...

続きを見る

つまり、氏直は北条直系の血を受け継ぐと同時に、武田にも深い縁を持った人物でした。

しかし、世は戦国。
北条氏や武田氏だけでなく、今川氏や上杉氏ひしめく関東甲相駿は、敵味方が絶えず入れ替わっていた抗争激しいエリアです。

今川氏・武田氏・北条氏の間に結ばれていた【甲相駿三国同盟】も、永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河へ攻め込んだことで破綻。
氏直の母である黄梅院は離縁されて甲斐へと送り返されてしまいます。

こうしてまだ幼い氏直も、戦国の波に巻き込まれ、彼には「今川家当主の座」が用意されることになりました。

えっ、今川家?
当主だった今川氏真は?

今川氏真とは?人質だった家康を頼り 親の仇・信長に蹴鞠を披露する不思議

今 ...

続きを見る

そう思うのが自然ですが、信玄の駿河侵攻によって氏真は北条氏に庇護される立場に転落し、当時まだ国王丸と名乗っていた氏直が、養子として今川家を継ぐことになったのです。

しかし、この話も程なくして消滅します。
元亀2年(1571年)、武田氏と北条氏が再び同盟を結び、さらに天正元年(1573年)に今川氏真が北条氏のもとを離れたため、自然消滅しました。

氏直が生まれてから、ここまでわずか10年余り。
関東戦国史がいかに複雑か、ご実感いただけるでしょう。

ただし、氏直が家督を継承するころには徐々に混沌とした関東地方の勢力図が整理されていき、織田信長豊臣秀吉といった勢力が関東にも進出してくるようになりました。

 

氏直の家督継承で【北条―織田】ラインの強化

天正4年(1576年)の末ごろに元服した北条氏直。
その翌年、梶原政景が守る小田城攻めで初陣を飾りました。

天正7年(1579年)には、またもや武田氏との同盟が瓦解し、以後は対武田の戦いに氏直も参加します。
母の実家を攻撃する――というのは一見辛い話ですが、親類縁者が絡み合う戦国の状況ですと、北条が特別なわけでもなく、氏直本人もさほどの感慨は抱いていなかったようです。

北条氏は、この武田攻めに際し、中央で力を伸ばしつつあった織田信長・徳川家康と連携して対応にあたりました。

彼らとの関係強化を目的として天正8年(1580年)に氏直が家督を継承。
第五代北条氏当主の座につきます。

もっとも、この当主交代は、先代北条氏政の現役引退を意味するものではなく、彼もまた「御隠居様」として大きな権力を有していました。

ちなみに、氏直の家督継承で、なぜ【北条―織田】の関係が強化されるのか?
というと、氏直が信長の娘を妻とすることで親類となり、事実上、服属の形をとることで合意していたと思われるからです。

こうして着々と武田攻略の準備を整えた織田信長。
天正10年(1582年)、いよいよ武田領内へ侵攻します。

総大将は、織田家を継いだ織田信忠です。
その脇を滝川一益などの織田家重臣が固めており、織田家としても、武田勝頼を倒すための本気の布陣です。

彼等の進軍に合わせて北条勢も武田領国へ攻め込むと、すでに全盛期の勢いを失っていた武田家はわずか一か月で滅亡してしまいました。

武田勝頼37年の生涯をスッキリ解説!風林火山を使えぬ悲劇が武田家崩壊を招く

歴 ...

続きを見る

 

本能寺で信長敗死 すぐさま武田領の奪い合いへ

思いのほか呆気なく終わった甲州征伐。

信長が旧武田領を家臣に分け与えて管理したことで、この地は織田領に組み込まれていく……はずでしたが、実際はそうはなりませんでした。

なぜなら天正10年(1582年)に大事件が勃発――。

そうです。
明智光秀による【本能寺の変】が起きたのです。

同謀反で、信長のみならず信忠まで喪った織田家では、後継者を巡って、激しい内紛が繰り広げられます。

その間、関東甲信越エリアはどうなっていたか?
というと旧武田領は、まだまだ統治が行き届いておらず、同エリアを任されていた滝川一益・徳川家康と北条家の間に不穏な空気が流れます。

やがて氏直を大将とする北条軍が滝川軍を襲い【神流川の戦い】が勃発。
氏直はここで大勝利を収めると、敗走する滝川軍を追撃して上野まで侵攻していきました。

さらに氏直は、信濃にも進出して現地の国衆を服属させると、越後上杉氏との間にも一戦を構えます。

こうして信長に服属していたうっぷんを晴らすかのような大暴れをみせる氏直は、続いて甲斐の若神子という地において徳川家康とも対決したばかりか、真田昌幸ひきいる真田家とも和解したり瓦解したり。

北条・上杉・徳川・真田の間で【天正壬午の乱】と呼ばれる大規模な乱戦が繰り広げられます。

天正壬午の乱で昌幸の表裏比興が炸裂! 大国を翻弄した手腕とは【真田合戦譚】

真 ...

続きを見る

一連の合戦は長期化し、次第に北条氏にとって不利な戦況に落ち着いていきます。

そのため天正11年(1583年)、北条氏直は、家康の次女である督姫を妻に迎えるという条件で和睦。
以後、北条氏は羽柴秀吉と徳川家康の争いを注視していくことになりました。

 

秀吉と家康の代理戦争と化した関東

徳川との和睦が成立した天正11年(1583年)。
北条氏は、上野(群馬)と下野(栃木)地方の攻略に乗り出しました。

しかし、国衆の離反や根強い抵抗に妨害され、思うように侵攻作戦を展開することができません。翌年には彼らを攻略するべく藤岡・沼尻にて対陣し、その後ろ盾になっていた佐竹氏を崩すためにも調略を進めました。

そうこうしているうちに越後の上杉景勝が、佐竹氏救援のため上野まで進軍してきます。

さすがに佐竹と上杉の両軍に挟まれては危ういと判断したか。
北条方は、北条氏照を介して佐竹氏と和解するなど、関東での争いもジリジリとしていた頃、中央では豊臣秀吉と徳川家康が本格的な合戦へと突入していきます。

いわゆる【小牧・長久手の戦い】と呼ばれる争いです。

【小・長久手の戦い】
豊臣秀吉
vs
織田信雄・徳川家康

明智光秀を倒して信長敗死の仇討ちを取り、清州会議を経てから、賤ヶ岳の戦い柴田勝家を斃した秀吉。

織田政権内でのトップに躍り出た秀吉は、その地位を盤石なものとするため、信長の二男・織田信雄と、さらに実力では圧倒的だった徳川家とも対峙することになったのです。

そこで北条氏はどう関わったか?

家康と同盟関係にあった北条は、徳川へ援軍を送ったりはしておりません。
というのも秀吉が佐竹氏を支援しており、関東の戦いはさながら秀吉と家康の代理戦争と化していたのです。

佐竹(秀吉)
vs
北条(徳川)

この時期の北条は、一般的にあまり目立った動きはしてないかもしれませんが、もちろん黙ってジーッとしてはおりません。

 

沼田エリアの争奪戦が激しくなっていく

北条氏は同年中に再び上野へと侵攻。
敵対していた由良氏や長尾氏を打倒して降伏に追い込むと、この地で彼らに抵抗する勢力は真田氏を残すのみとなりました。

天正壬午の乱で激しく争奪戦を繰り広げた【沼田エリア】の争奪戦ですね。

さらにこの時期には、反佐竹勢力である奥州の伊達政宗とも軍事的連携を図るなど、外交的にも戦況は以前より優位に運びつつありました。

そして、いよいよ家康から真田氏攻撃の要請が下ると、「待ってました!」と言わんばかりに沼田城へと突撃。
しかし真田昌幸率いる真田家の根強い抵抗によって城を落としきるまでには至りません。

一方、天正15年(1587年)には、下総佐倉の地を支配するなど、北条の関東制圧作戦は順調かに思えました。

関東覇者としての立場を固めていく北条氏直。
北条早雲に始まり、小田原へ進出した北条氏綱、関東の大部分を手中に治めた北条氏康、そのエリアを盤石なものとした北条氏政。

五代にわたる北条の体制は揺るぎなく、それが秀吉という存在を見誤らせてしまったのかもしれません。

このころには秀吉は日本の大部分を制圧しており、ついには関白就任という快挙を成し遂げていたのです。

天下人としてこの上ない地位まで手に入れた秀吉。
いよいよ徳川もその軍門に降ってしまうのです。

これには、あくまで反秀吉勢力として抵抗を続けた北条にとって、あまりに大きな痛手でした。

なぜなら秀吉に従うカタチで家康から【惣無事令】が関東エリアに向けて出され、合戦を停止させられたのです。

「勝手に戦争すんなよ。そんなことしたら攻め滅ぼすからな」

応仁の乱(1467年)から数えて約120年。
関東では享徳の乱(1454年)から約130年。

戦乱の毎日を過ごしてきた関東武士にとっては青天の霹靂というほかありません。

秀吉に従って停戦するか。
あるいは敵対するか。

北条氏直は、究極の選択に迫られていくのです。

 

いったんは服属を表明するも、名胡桃城問題で交渉決裂

秀吉からの停戦令を受け取った氏直は、当初「明確に答えを出さない」というスタンスにしました。

具体的な軍事行動こそ起こさない。
しかし領国での軍備は推し進めていく。

どちらにも転べるような体制を構築していきます。

そのためにも、まず氏直は、小田原城をはじめとする領国内の城に対し、大規模な普請工事を実行しました。

工事を担当する人員が急ピッチかつ大量に動員したことが史料からも確認でき、氏直が慌てていた様子が垣間見えます。
まぁ、当たり前ですね。
お家の存亡がかかった一大事であり、多少強引な手段を用いてでも防御力を増強する必要がありました。

日に日に強まっていく秀吉からの圧力。
氏直は領内に「人改めの令」を発し、普段は兵士として動員されていない商人や職人までを徴兵対象としていたことが確認できます。

こうした数々の臨時措置は、たしかに一時的な防御力の増強にはつながっています。
一方で領民に過剰な負担を強いることにもなってしまいました。

果たして氏直は生き残りを賭けて決戦をしたいのか?

以上の行動をみていくと、まるで北条氏が初めから秀吉と戦う気マンマンであったかのような印象を受けがちですが、実際のところはそうではありません。
天正15年(1587年)ごろには、秀吉による「北条、倒しちゃおっかな~」というような風評が広がりながら、実際は取り止めとなっており、親戚である家康の斡旋で交渉が行われています。

 

突如、名胡桃城を攻撃してしまい……

北条方は、服属の意思を表明。
礼として北条氏規を上洛させました。

秀吉もこの時点では北条氏の意向を受け入れようとしていたようで、北条領域周辺の境界線策定に着手し、領域を確定させようとしておりました。

こうなると北条方としても「いかに良い条件を引き出すか?」という現実路線に重きが置かれ、政治工作に腐心していた様子も確認できます。
が、その一方で内部に大きな問題を抱えておりました。

先代の北条氏政です。

氏直の父であり「御隠居様」として大きな権力を有していた氏政は、秀吉への服従に強く反発しており、北条家中も一枚岩になり切れてはおりませんでした。
それでもかねてより懸念事項であった沼田領を3分の2ほど手に入れるという交渉がまとまり、この難局を乗り切れるかに思えました。

しかし、ここで氏直にとって手痛い事件が発生してしまいます。それは……。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-北条家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.