井伊直虎

絵・富永商太

井伊家

井伊直虎が強国に翻弄され“おんな城主”として生きた46年の生涯

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宗主候補の井伊直政は幼少である上に、その脇を固めるのが直虎をはじめ、彼女の母・祐椿尼と、直政の実母・ひよしかいなかったのである。

3名だけの女所帯をよいことに政次はやりたい放題振る舞うようになり、井伊領を奪おうと企んでいたという。

当時、井伊家の家臣団は、

井伊直虎・直政――井伊谷七人衆――親戚衆・被官衆』

という構成であった。

豊臣家で言えば、

【直虎が淀君】
【直政が秀頼】
【井伊谷七人衆が五大老】

に相当すると考えてよいだろう。

たしかに女性だけで配下の男武将たちを束ねるのは簡単なコトではなかったのである。

 

交渉力と内政手腕を発揮するも井伊家滅亡

では、女城主となった直虎は、何をしたのだろうか。

地元浜松で彼女は「女地頭 次郎法師」として知られている。その手腕が発揮されたのは合戦ではない。

たとえば「今川氏が出した井伊谷徳政令の施行を、巧みな交渉力と内政手腕を発揮して2年間引き伸ばすなど、有能な政治家(地頭=領主)」としての評価である。

ここでいう徳政令とは、どういうことか?

今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻を食い止めるため、堀川城や刑部城を築かせた。

と、これが地元住民への負担が大きかったため、彼らの要望に応えて徳政令を出し、不満を和らげることを画策したのだが、地元の小領主=直虎にとっては必ずしもありがたいことばかりではない。

徳政令とは、借金をチャラにすることである。

金を借りていた庶民も武将も一時的には助かるが、地元の商人(ドラマではムロツヨシさんが演じる瀬戸方久など)には大打撃を与え、これをたやすく承認すれば、井伊領の経済が混乱すること必至。

また、今川による内政干渉を許すことになり、国衆から家臣への格下げにも繋がりかねない。

そこで直虎は、被害が最小限に収まるよう黒印状(直虎の数少ない文書)を発行するなどの手を打った上で、永禄11年(1568年)になって徳政令を施行する。

方広寺の三重塔(瀬戸方休と堀尾室の建てた三重塔は焼失し、現在の三重塔は山口玄洞が再建したものである)

方広寺の三重塔(瀬戸方久と堀尾室の建てた三重塔は焼失し、現在の三重塔は山口玄洞が再建)

結果、直虎は地頭職を罷免され、井伊領は計画通り小野氏のものになる。

あらためて直虎と直政は殺されかけるが、ここでも「出家」を条件に許され、直虎は龍潭寺で「祐圓尼(ゆうえんに)」と名乗り、実母「祐椿尼(ゆうちんに)」と暮らすことになった。

井伊家・宗主候補の直政は、新野親矩の叔父が住職である浄土寺(浜松市中区広沢)で出家。

しばらくしてから僧・守源(珠源とも)の付添で遠江から山を越え、三河の山中にある鳳来寺に移った。

むろん、話はここで終わらない。

小野政次や今川氏真のやり方が気に入らなかった井伊谷七人衆のうちの3人(後に「井伊谷三人衆」と呼ばれる宇利城の近藤康用・柿本城の鈴木重時・都田城の菅沼忠久)は、密かに徳川方に寝返り、年末の家康の遠江侵攻時には、道案内を買って出ている。

そして、いざ井伊谷城攻略が始まると、小野政次はスグに城から逃亡。

戦わずして陥落し、翌永禄12年(1569)4月には徳川方に捕えられて処刑された。

自業自得としか思えないものの、その後、怨霊になったとの噂が広まり、鎮魂のため但馬社が建てられたことはあまり知られてない。

ほぼ戦わずして小野氏が陥落したため、徳川は、井伊谷を簡単に通り過ぎた。

が、気賀では強い反発があり、永禄12年(1569年)に行われた「堀川城の戦い」では多くの戦死者が出た。

気賀の寺の僧も死んだので葬儀の手が足りず、南渓和尚と直虎(祐圓尼)が井伊谷から来て死者たちを弔ったという話もある。

 

武田の赤備え 山県昌景相手に直談判!

さて、徳川領となった遠江国に元亀3年(1572年)、武田信玄が侵攻してきた。

大軍を引き連れての進軍に対し、織田・徳川方が狼狽したのは既に知るところであろう。

一方、細かな合戦はあまり報じられていないが、このとき井平城主と武田の赤備え(山県昌景隊)が仏坂で戦った記録があり、その直前、井伊直虎が山県昌景に直談判して、仏坂観音堂のご本尊(行基作の十一面観音像)の焼失を防いだというエピソードがあるという。

井平では寺も城も焼かれて多くの人々が命を落とし、観音様だけが無事という有様であった。

そして「仏坂の戦い」に次ぐ「三方ヶ原の戦い」で、武田信玄は、徳川・織田連合軍を破ると、旧井伊領刑部で越年、井伊谷を焼き払い、野田城攻めに向かった。

この争乱がキッカケで龍潭寺は全焼し、現在の建物は江戸時代に再建されたものである。

大河ドラマ『おんな城主 直虎』の撮影は、都内スタジオに再現した戦国バージョンの龍潭寺で行われるので少々楽しみだが、それはともかく、このときの信玄に興味深いエピソードが伝わっている。

野田城攻めの時に体調が急変した信玄は、長篠を経て、鳳来寺(峯之薬師)に逗留。秘仏の薬師観音像を出させ、「助けて下さい」と泣きながら抱きついたというのだ。

「なんと罰当たりな事ことを。これでもう長生きできなくなった」

信玄の罰当たりな行いに対し、僧侶たちは口々に言い合ったというが、この時、鳳来寺にいた直政の目に、自分の故郷を焼き払った大大名の惨めな姿は、どう映ったであろうか?

ドラマでどう扱われるか楽しみなエピソードの1つである。

 

「井伊直親の実子、取立不叶」

天正2年(1573)12月14日、井伊直親の13回忌に際して、虎松(井伊直政)が井伊谷へ帰って来た。

そこで直虎(祐圓尼)は南渓和尚と相談し、そのまま虎松を母親の再婚相手・松下氏の養子に出す。

ここにおいて約600年間続いていた名門・井伊家は絶え、「松下虎松」が誕生したのだが、もちろんこれには狙いがあった。

松下氏は徳川家の家臣だったので、家康に仕官させようと考えたのだ。

そして天正3年(1574)2月15日、初鷹野(その年の最初の鷹狩)に出た家康を狙い、直虎はある仕掛けを施す。

直虎と実母の2人があつらえた着物を着させ、遠くからでも目立つように直虎の自画・自筆による『四神旗』をもたせたのである。

首尾よく家康の目に触れた虎松が浜松城へ連れて行かれると、そこで今川の人質時代に桶狭間で共に先鋒を務めた井伊直盛の親類かつ養子であり、自分に内通したために誅殺された井伊直親の実子と知って驚き、

井伊直親の実子、取立不叶(取り立てずんば叶わじ)

【意訳】家臣として召し抱えないわけにはいかない

と言って300石を与えたという。

更には井伊家の再興を許して「井伊万千代」と名乗らせた。

その後の井伊万千代が、戦場では武田の赤備えを率いて「井伊の赤鬼」と恐れられ、徳川四天王と称されるまでに出世し、彦根藩の藩祖となったのはまた別の記事へ譲りたい。

ラストに、桶狭間の戦いに続く、戦国時代の大事変について触れておこう。

天正10年(1582)6月2日、京都で明智光秀による「本能寺の変」が起きた。

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この直後、家康に付き従っていた直政は「神君伊賀越え」での働きにより、孔雀の羽根でできた陣羽織(与板歴史民俗資料館蔵)を賜わっているのだが、こうした直政の活躍に安心したのであろうか、同年8月26日、直虎は死去。

墓と位牌は、自耕庵(現在の妙雲寺)にある。

妙雲寺

妙雲寺

同年冬、直政は元服し、

「この姿をおば上(直虎)に見せたかった」

と涙したと伝わる。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/

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