寿桂尼

寿桂尼/wikipediaより引用

今川家

寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった

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寿桂尼が義元の反目に回ったのは親北条氏だったから?

奇妙なことに寿桂尼は、戦い(花倉の乱)が始まるや氏親と側室の子である今川良真を支持した。

武田家の駒井高白斎が、用務日誌を基に著したとされる『甲陽日記(高白斎記)』の中に「花蔵ト同心シテ」という記述がある通り、息子の反目に回ったのだ。

花倉

花倉

花倉案内板

花倉案内板

どうも彼女は、娘の瑞渓院が北条氏康の正室であることからも「親北条」派である一方、武田氏については実子・氏輝&彦五郎を殺したのではないかと疑っていたようで、親武田の義元ではなく、親北条の良真と意見が一致したもよう。

ともすれば骨肉の争いで今川家の弱体化に繋がりかねないこの戦いは、太原雪斎などを従えていた義元の勝利ですぐに解決した。

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長引けば、北条氏や武田氏が大々的に介入してきて、両者に乗っ取られる危険性も高く、実際、義元は武田信虎の支援を得ていたともいう(『甲陽軍鑑』より)。

なお、同時期に武田信玄は将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜って武田晴信となり、更には今川氏の仲介で左大臣・転法輪三条公頼の次女である三条の方(三条夫人)と結婚している。

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戦いに敗れた福島越前守は、武田家家臣・前嶋氏を頼って甲斐に落ち延びるが、武田信虎の命を受けた小山田信有に討ち取られて、反義元の前嶋一門は成敗された。

今川義元と太原雪斎は、抗争を繰り返してきた武田氏との和睦を実現させ、天文6年(「花蔵の乱」の翌1537年)2月には、武田信虎の娘を嫁に迎え入れる。

一方、これまで仲の良かった北条氏は、この結婚を「非」とし、今川氏との同盟を破棄、同年2月26日、河東(富士川以東の地域)に向けて出兵した。

俗に【河東の乱】という。

戦いは長引き、天文14年(1545)にようやく終結した。

以上のことから義元の駿河治世における寿桂尼は、不遇であったと思われるかもしれないが、戦いを終えれば決してそんなことはなかった。

 

今川家で預かる人質女性をおもてなし

海道一の弓取りと称された大名・今川家には、配下の諸家から多くの人質女性が駿府今川館に送り込まれていた。

肩身の狭い上級権力者の家で、彼女らを歓待したのが寿桂尼である。

彼女は自身の屋敷に人質女性らを呼び寄せ、香炉で香木を焚き、「十炷香」などのゲームを行いながらリラックスさせたとおいう。

同時に諸家の情報を聞き出す政治活動(諜報活動)をしていたというからぬかりない。

また、今川氏真などの孫達を連れて、よく油山温泉(安倍川の支流である油山川上流)へ湯治に行っていたとも伝わる。

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一方の義元は、花蔵の乱を制した後の宗主就任後は戦いの日々であった。

親武田の外交政策によって北条との争乱に突入し、その後、甲相駿三国同盟を結び、西へ勢力範囲を伸ばしていく。

義元の人生前期(僧・栴岳承芳の時代)を「静」とすれば、人生後期はまさに「動」であろう。

そして、太原雪斎が遷化(僧侶が亡くなること)し、永禄3年(1560)の【桶狭間の戦い】で義元は討死。

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寿桂尼の真骨頂が発揮されるのは、この頃からだ。

宗主・氏真が、奸臣・三浦右衛門佐真明(三浦義鎮)の言いなりで「このままでは今川氏の先行きが不安だ」として、再び政治に関与し始めたのだ。

義元というカリスマを失って混乱していた家臣団をまとめたのも全て彼女の手腕によるものだった。

すると……。

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