大河ドラマ『光る君へ』の第33回放送に興福寺別当・定澄(じょうちょう)が登場しました。
屈強そうな僧たちを引き連れ、「道長の屋敷を囲み焼き払う」と脅す姿は、とても仏に身を捧げる者の台詞とは思えない。
一体あれは何なのか?
と疑問に思われた方も少なくないでしょう。
あるいは白河法皇の「天下三不如意」を思い出された方もいらっしゃるかもしれません。
院政期に絶大な権力を有した白河法皇が、自分の意にならない存在として掲げた一つに「山法師=比叡山延暦寺」が入っていたのです。
延暦寺といえば、興福寺と並んで平安時代から権力・武力を有していた大寺院であり、朝廷相手に一歩も引かず、おおよそ戦国時代までその動きは続き、戦国大名とも火花を散らしました。
いったいなぜ、衆生を救うための宗教が、さほど武力を持つに至ったのか。
常識的に考えればおかしな話ですが、実際、ヘタな大名以上に強かったんですから、もうどうにもならない。
そこで今回は、
・延暦寺
・本願寺
・興福寺
の三寺院について、沿革と動きをまとめました。
まずは織田信長との対立で有名な延暦寺から見てまいりましょう。
※興福寺だけを読みたい!という方は見出しをクリックして該当ページへ飛んでください
延暦寺
皆ご存じ、織田信長の焼き討ちを食らった被害者・比叡山延暦寺。
そもそも延暦寺は天台宗の総本山であり、その起源は延暦七年(788年)でした。
開祖は天台宗の祖・最澄であり、それからしばらくの間、僧侶たちはマジメに修行をしておりました。
都の北東=鬼門に当たるという立地から、「平安京の守護者」を自他ともに認めていた存在でもあります。
皇族や公家からも尊崇され、延喜五年(905)4月には、宇多法皇が比叡山で受戒していますから、皇室から公認されたも同然でした。
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ちなみに、平安時代の大火事で、延暦寺の建物はほとんど焼けてしまったことがあります。
自ら炎上していくスタイル……(ボソッ)そのときは10年ほどかけて再建しました。
こうした物理的な危機は脱しながら、その後、延暦寺の僧侶たちは真っ二つに分かれてしまいます。
三代目の天台座主(てんだいざす・天台宗トップのこと)である慈覚大師こと「円仁」と、同じく五代目の天台座主である智証大師「円珍」、それぞれの教えを信じる人々が対立したのです。
二人とも唐へ渡った経験があり、多くの経典を持ち帰っていたため、優劣の差がハッキリしにくかったのが原因かもしれません。
これと同時に、延暦寺の僧侶たちは武器を手に取り、僧兵と化していきました。
僧侶なら口で言い負かさないとダメな気がしますが、この時代の日本人は身分が高かろうと低かろうと、現代と比べてかなり荒っぽいですからね。
貴族同士の暴力沙汰も珍しくありませんでしたし。
お寺なのに土地も金も武力も武器も揃ってる
以来、鎌倉時代末期に至るまで、この対立を中心としたギスギスっぷりが続きます。
しかも複数回の火災も起こしており、
「他の武士に焼かれるより自分たちで焼いてるほうが多くないか?」
という自爆状態。まぁ、対立とは関係ない失火の可能性もなくはないですしね……たぶん……。
延暦寺は荘園も広げており、土地の防備のため武力を常備しておくようになります。
寺院なのに「土地と兵糧と兵力が揃ってしまった」んですね。
詳しくは後述しますが、似たような状況だった奈良の興福寺ともぶつかり合うようになっていきました。
「僧侶とは一体?」とググりたくなるような有様で、このあたりから貴族や皇族が入門することも増えていきます。
数多の門跡寺院(皇族が代々住職を務める寺院)も開山。
物騒なところに名門の子弟を入れていいんか?
と、そんな気もしますけれども……まぁ、それでなくても死亡率が高い上、平均寿命も短い時代のことですしね。
そんなわけで、延暦寺には土地・財力・権威・兵糧・兵力全てが揃いました(ノ∀`)アチャー
賀茂川の水、双六の賽、山法師
権力と財力に余裕があり、武力まであるので最強です。
しかも武士の時代前に定着してしますから、朝廷に対しても強気。
「この神輿が目に入らぬか!」と何かにつけて強訴してくる状況は、院政が始まった頃には定着していました。
院政で絶対的な権力を持った白河法皇でさえ、自分の意のままに操れないものとして
「賀茂川の水、双六の賽、山法師(=比叡山の僧侶)」
と称するほどです。

白河天皇/wikipediaより引用
まぁ、朝廷と延暦寺が血みどろの戦いを繰り広げるよりはマシですけどね。
そんな感じで延暦寺は、保元の乱・平治の乱を経て権力を急上昇させた平家が相手でも怯むことはありません。
当時の平家は公家たちからすれば「ポッと出」です。
延暦寺を敵に回してしまっては、自分たちが劣勢になってしまう危険性もあったでしょう。
いわば本来とは別の意味で「聖域」になっていたのが延暦寺。
鎌倉幕府打倒の前に、後醍醐天皇が二回も逃げ込んでいるのは、こういった理由からでした。
義教→政元→信長と続く武家の延暦寺潰し
一方、武士のほうでは、時代が下るにつれ、
「本来の僧侶としての役割を忘れつつある延暦寺を何とかしたる!」
という考えも出てきます。
特に室町幕府六代将軍・足利義教は、積極的に問題解決を図りました。

足利義教/wikimedia commons
なんせこの御方は、自身が将軍就任前に延暦寺で天台座主(天台宗のトップ)を務めていたこともありますので、恐怖心は少なく、内部事情もよぉ~く把握していたことでしょう。
ただそのために延暦寺の使者をブッコロしたり、寺を焼いたりしたのはやりすぎ。
室町幕府も、嘉吉の乱で足利義教が急死すると延暦寺対策もそこで止まってしまいます。
応仁の乱の間に、細川政元が延暦寺を焼いたことがありますが、それも決定打にはなりません。
そして元亀二年(1571年)、織田信長に火をかけられることになったわけです。
信長の魔王っぷりを示す具体例として認識されていたこの暴挙。
最近の発掘調査では、燃えた遺物がほとんど見つからず、「全山焼き討ちというほどではなかったのでは?」という見方が出てきています。
まぁ、信長は何度も降伏勧告をしていますし、「逃げたい奴は追手をかけない」という話もしていたようなので、それでも徹底抗戦で死んだ者は、ごく一般的な戦でもあることと言えますね。
ただでさえこの頃の比叡山は、不可侵状態なのをいいことに女性を連れ込むわ商売に励むわで、腐敗しきっていました。
さすがにこれでこりたらしく、豊臣秀吉時代以降の比叡山は、建物と信仰の復興に立ち返りました。
また、江戸時代には表舞台にも出てこれません。
将軍の菩提寺である増上寺と寛永寺が力を持ち、世間的にも重視されたからです。
それでも、増上寺の山号が「東叡山」=「東の延暦寺」なので、イメージ的に「延暦寺は由緒正しいお寺」と認識されていたことは間違いなさそうです。
お次は本願寺を見てみましょう!
本願寺
大坂の石山本願寺が織田信長との対立で有名ですね。
本願寺の歴史は、親鸞とその子孫の歴史でもあります。仏教としては珍しく、妻帯可な宗派だからです。
それが分裂の元にもなるのですが……。
本願寺は、親鸞の遺骨が京都東山の大谷に埋葬された後、末娘・覚信尼(かくしんに)の居住地に改葬されたところから始まります。
浄土真宗の信徒たちは、ここに親鸞の像を安置したお堂「大谷廟堂」を作り、信仰の中心としました。
最初は「土地は覚信尼のもの、廟堂は真宗信徒の共有」とされていたのですが、建治三年(1277年)9月からは「土地も廟堂も信徒の共有だが、覚信尼が廟堂を管理する」形態に変わっています。
この「大谷廟堂の管理役」は留守職と呼ばれ、覚信尼の子孫が世襲することになりました。
「本願寺」という名前が出てくるのは、元亨元年(1321年)2月以降です。
しかし、これをよく思っていなかったのが問題児の延暦寺。
徐々に民衆へ浸透していく浄土真宗を見て、難癖をつけ始めます。
そもそも自分たちも身内争いばかりなのに、何やってんだか……というツッコミを誰か入れなかったんですかね。
布教を続けながら流浪の蓮如
この頃の本願寺に延暦寺とガチンコやりあう力はありません。
そこで京都周辺ではなく、主に北陸での布教に注力。
親鸞から数えて八世にあたる蓮如の時代に大きな転機が訪れました。
寛正六年(1465年)1月に延暦寺が大谷を襲い、蓮如らは京都から閉め出されるも同然になってしまったのです。
蓮如は近江などに逃れて布教を続けました。
しかし、門徒が増えすぎてまた延暦寺と衝突してしまいます。
この辺のことは一向一揆の記事でも触れているので、もうちょっと詳しく知りたい方は併せてご覧ください。
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一向一揆|戦国大名を苦しめた10の事例 ワルいのは宗教か権力者か
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蓮如は近江を出て、摂津・河内などを渡り歩いた後、山城山科に戻って本願寺を再建。
その後、明応五年(1496年)10月に大坂・石山の地にも拠点を作ります。
この間、北陸では加賀一向一揆が起きて守護を締め出すなど、浄土真宗は大きな勢力になりつつありました。
悪いの全部細川晴元では……?
浄土真宗の拡大に伴い、武家では警戒する動きも出てきています。
例えば、永正元年(1504年)には、北条早雲で知られる後北条氏が、領内の真宗を禁じていました。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用
50年という期限付きではあったし、後半には形骸化していたようですが、それだけ危険視されていたということがわかりますね。
また、島津氏は明治時代まで原則として浄土真宗を禁じていました。
この時期に薩摩でどこまで広がっていたかはわかりませんが、未然防止策と考えれば無理というほどでもないですかね。
明治時代まで同じ方針が続いたのは、薩摩の主がずっと島津氏のまま固定されていたからだと思われます。
また、真宗門徒の力を利用しようとした管領・細川晴元が一向一揆を味方につけ、自分の家のお家騒動を収集しようとしたことがありました。
しかし、晴元には彼らを制御しきれず後に対立、一時は淡路に亡命する羽目になりますが、最終的には和睦しております。
話が少し脇道にそれますが、一向一揆衆との対立過程で、晴元は日蓮宗従の町衆(法華衆)を味方につけて本願寺系の寺院を焼き討ちしております。
山科本願寺もこの時に全焼(法華一揆)……とここまでは晴元の狙い通りだったのですが、今度は力をもった法華衆が増長し、松本問答を契機に延暦寺と対立することになります。
最終的には六角氏と結んだ比叡山側が法華衆の拠点を焼き払い、法華宗従は3000人(1万人とも)が殺される結果に。
このとき延暦寺の勢力が放った火は法華衆の拠点以外にも飛び火いたしまして、
結果、京都が大炎上(物理)。
これが天文法華の乱です。
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天文法華の乱1536年|戦国最大の宗教戦争「延暦寺vs法華宗」で京の都は大炎上
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石山本願寺はなぜ信長と全面対立したか
京都での浄土真宗を巡る争いは、こうして加熱。
天文元年(1532年)8月には山科本願寺が焼かれてしまい、その場での再建が難しくなり、本願寺は石山へ移動します。
もしも石山に拠点がなければ、その後の本願寺は歴史に埋もれていたかもしれませんね。
そして、その後は織田信長と対立することに。

織田信長/wikimedia commons
本来は武力集団ではない本願寺がそうした理由は、複数考えられます。
①本願寺十一世・顕如の妻・如春尼と、武田信玄の妻・三条夫人が姉妹であったこと
→「味方の敵は自分の敵」理論
②顕如自身が「神仏を畏れぬ織田信長は仏敵!」とみなしたこと
→信仰的に許せない
③上洛後、信長と不仲になった十五代将軍・足利義昭が「本願寺を頼りにしてるよ」的な態度を取ったこと
→権威の後押しを得たので強気になれた
その後、秀吉~家康の時代に本願寺は分裂してしまいますが、その辺の経緯は以下の過去記事でご覧ください。
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東本願寺と西本願寺の二つに分裂しているのは信長・秀吉・家康のせいだった?
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お次は興福寺です。
現代では阿修羅像でもお馴染みのこの寺もまた古代から非常に有力なお寺でした。
興福寺
この中では最も歴史が古く、天智天皇八年(669年)の発祥。
藤原鎌足が亡くなった時、その妻・鏡女王(かがみのおおきみ)が鎌足の念持仏などを祀るお堂を建てたのが始まりでした。
当初は鎌足邸にありました。
それが和銅三年(710年)の平城京遷都によって、鎌足の息子・藤原不比等らが春日野にお堂を移します。
こういった経緯からもご想像できます通り、興福寺は藤原氏の氏寺(うじでら・一族が代々帰依)であります。
それだけではありません。
藤原氏の姫が数多く皇室に嫁ぎ、次代の天皇となる皇子を産んできたという関係から、皇室にも特別視されるのです。
そのため、平城遷都後も荒廃するということはなく、長く力を保ち続けることができました。
彼らの力を顕す一例が【春日大明神と興福寺の神仏習合】でしょう。
貞観年間(859~877年)、摂関家が春日社の祭祀を振興したり、大和国の領国化を進めた折、摂関家と関係の深い興福寺は
「春日大明神は法相擁護の神(だからウチが支配しても問題ないよね)」
という屁理屈をこねて、見事に吸収してしまいます。
政治的な動きバリバリですが、このときは荒事(武力行使)を用いてないので、まぁ、政治力に長けていたんですね。
【大和の支配権】を主張する
皇室・摂関家・春日大明神という心強すぎる味方を得た興福寺。
彼らは次に【大和の支配権】を主張しました。現代の奈良県ですね。
理由が、これまたかなりの屁理屈。
「摂関家と縁のあるウチが、摂関家の代官の代わりに大和を支配するのは当たり前ですよね^^」という主張です。
しかしこれにより、大和の土豪たちも興福寺に従わざるを得なくなるんですからスゴい。
延暦寺と似たような立ち位置になり、この二つのお寺は
【南都北嶺】
とも呼ばれます。
南都=興福寺
北嶺=延暦寺
ただ、彼らは僧侶としての説法や学問もちゃんとやっており、本来の役目も忘れていません。
というか、延暦寺が荒っぽすぎて興福寺が穏やかに見えるんですよね。強訴はどっちもやっているんですけれども。
南都焼討からの復興後もグイ伸び
平安末期になり、院政の台頭で摂関家の勢力が衰えても、興福寺が没落することはありませんでした。
ほどなくして全盛期を迎えた平清盛も、彼らに対してはパワーバランスに心を砕いています。
しかし平家と言えば、治承四年(1180年)の南都焼討を思い浮かべるかもしれません。
平重衡(清盛の息子)が、東大寺や興福寺など奈良(南都)の寺院を焼討にした事件です。

平重衡/wikimedia commons
実は平家はこれ以前から、奈良の他のお寺を攻めるなどの圧迫を行っていましたが、興福寺に対してはもう少し穏便に行こうとしていました。
そのため使者とその警備として軽装の兵500を送ったのです。
が、興福寺側が数十名をブッコロしてしまった上、その首を池の周りに並べるという凄まじいことをやってしまったので、一気に関係が悪化します。無茶しすぎですわな。
ちなみに、南都焼討の首謀者だった平重衡は、平家が壇ノ浦で敗れた後、興福寺を含む奈良の寺院の要求によって源氏から引き渡され、斬首刑となっています。
寺院なのに御首取り過ぎ……。
大きな被害を受けた興福寺でしたが、再興は比較的早いものでした。
このころ新しく広まった鎌倉仏教の影響で日陰の存在になるかと思いきや、奈良の町そのものが鎌倉時代に大きく発展。
興福寺としても、摂関家の子弟が門跡を務める一乗院・大乗院が起こり、さらに学問も興隆していきます。
これを見た鎌倉幕府も、
「今度からは興福寺に大和の守護を任せるよ」
と認め、名実ともに大和の主となりました。
ただ、これと同時に大和の宗徒や住民をどんどん僧兵化していったので、キナ臭くなってもいます。
戦国期を経て江戸時代に徳川の庇護
鎌倉時代末期には、門跡寺院同士が対立して僧兵・住民もまっぷたつに割れ、さらに南北朝問題もここに絡んで、興福寺は一時衰退してしまいます。
室町幕府が成立すると一旦落ち着いたが、もはや一枚岩にはなれず、大和も戦国時代へ突入していきました。
その一勢力で最も有名なのが筒井家の筒井順慶でしょう。

筒井順慶/wikimedia commons
筒井家はもともと興福寺一乗院に属していた武家集団で、他国で言えば国衆のような立ち位置です。
そこへ三好政権の後押しを受けた松永久秀が大和にやってきたため、かなり激しい勢力争いを繰り返し、最終的には戦国大名としての地位を確立しています。
同時に信長や秀吉の介入を許し、興福寺としては俗世への影響力をかなり失いました。
まぁ、寺院として本来の役割に戻るきっかけにもなっていますね。
江戸時代に入った後は、徳川将軍家の保護を受け、建物も以前の通りに戻っています。
自衛のための手段がいつの間にか制御しきれなくなる――というのは戦国時代の寺院に限らない話です。
同じ轍を踏まないようにしたいものですね。
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【参考】
国史大辞典「延暦寺」「本願寺」「興福寺」














