戦国時代の大寺院

興福寺の僧兵/wikipediaより引用

光る君へ 寺社・一揆

興福寺・延暦寺・本願寺はなぜ武力を有していた? 中世における大寺院の存在感

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
中世の巨大寺院
をクリックお願いします。

 


本願寺

大坂の石山本願寺織田信長との対立で有名ですね。

本願寺の歴史は、親鸞とその子孫の歴史でもあります。仏教としては珍しく、妻帯可な宗派だからです。

それが分裂の元にもなるのですが……。

親鸞/wikipediaより引用

本願寺は、親鸞の遺骨が京都東山の大谷に埋葬された後、末娘・覚信尼(かくしんに)の居住地に改葬されたところから始まります。

浄土真宗の信徒たちは、ここに親鸞の像を安置したお堂「大谷廟堂」を作り、信仰の中心としました。

最初は「土地は覚信尼のもの、廟堂は真宗信徒の共有」とされていたのですが、建治三年(1277年)9月からは「土地も廟堂も信徒の共有だが、覚信尼が廟堂を管理する」形態に変わっています。

この「大谷廟堂の管理役」は留守職と呼ばれ、覚信尼の子孫が世襲することになりました。

「本願寺」という名前が出てくるのは、元亨元年(1321年)2月以降です。

しかし、これをよく思っていなかったのが問題児の延暦寺。

徐々に民衆へ浸透していく浄土真宗を見て、難癖をつけ始めます。

そもそも自分たちも身内争いばかりなのに、何やってんだか……というツッコミを誰か入れなかったんですかね。

 


布教を続けながら流浪の蓮如

この頃の本願寺に延暦寺とガチンコやりあう力はありません。

そこで京都周辺ではなく、主に北陸での布教に注力。

親鸞から数えて八世にあたる蓮如の時代に大きな転機が訪れました。

寛正六年(1465年)1月に延暦寺が大谷を襲い、蓮如らは京都から閉め出されるも同然になってしまったのです。

本願寺蓮如/wikipediaより引用

蓮如は近江などに逃れて布教を続けました。

しかし、門徒が増えすぎてまた延暦寺と衝突してしまいます。

この辺のことは一向一揆の記事でも触れているので、もうちょっと詳しく知りたい方は併せてご覧ください。

一向一揆
戦国大名を苦しめた「一向一揆」10の事例~原因となったのは宗教か権力者か

続きを見る

蓮如は近江を出て、摂津・河内などを渡り歩いた後、山城山科に戻って本願寺を再建。

その後、明応五年(1496年)10月に大坂・石山の地にも拠点を作ります。

この間、北陸では加賀一向一揆が起きて守護を締め出すなど、浄土真宗は大きな勢力になりつつありました。

加賀一向一揆
100年にわたり戦国大名を排除し続けた加賀一向一揆~柴田勝家と対峙した結果は?

続きを見る

 


悪いの全部細川晴元では……?

浄土真宗の拡大に伴い、武家では警戒する動きも出てきています。

例えば、永正元年(1504年)には、北条早雲で知られる後北条氏が、領内の真宗を禁じていました。

50年という期限付きではあったし、後半には形骸化していたようですが、それだけ危険視されていたということがわかりますね。

北条早雲
北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞

続きを見る

また、島津氏は明治時代まで原則として浄土真宗を禁じていました。

この時期に薩摩でどこまで広がっていたかはわかりませんが、未然防止策と考えれば無理というほどでもないですかね。

明治時代まで同じ方針が続いたのは、薩摩の主がずっと島津氏のまま固定されていたからだと思われます。

また、真宗門徒の力を利用しようとした管領・細川晴元が一向一揆を味方につけ、自分の家のお家騒動を収集しようとしたことがありました。

しかし、晴元には彼らを制御しきれず後に対立、一時は淡路に亡命する羽目になりますが、最終的には和睦しております。

細川晴元
信長の前の天下人・細川晴元はなぜ長慶に敗れたか 50年の生涯まとめ

続きを見る

話が少し脇道にそれますが、一向一揆衆との対立過程で、晴元は日蓮宗従の町衆(法華衆)を味方につけて本願寺系の寺院を焼き討ちしております。

山科本願寺もこの時に全焼(法華一揆)……とここまでは晴元の狙い通りだったのですが、今度は力をもった法華衆が増長し、松本問答を契機に延暦寺と対立することになります。

最終的には六角氏と結んだ比叡山側が法華衆の拠点を焼き払い、法華宗従は3000人(1万人とも)が殺される結果に。

このとき延暦寺の勢力が放った火は法華衆の拠点以外にも飛び火いたしまして、

結果、京都が大炎上(物理)。

これが天文法華の乱です。

天文法華の乱
戦国最大クラスの宗教戦争は天文法華の乱だった? 延暦寺vs法華宗で都は大炎上

続きを見る

 

石山本願寺はなぜ信長と全面対立したか

京都での浄土真宗を巡る争いは、こうして加熱。

天文元年(1532年)8月には山科本願寺が焼かれてしまい、その場での再建が難しくなり、本願寺は石山へ移動します。

もしも石山に拠点がなければ、その後の本願寺は歴史に埋もれていたかもしれませんね。

そして、その後は織田信長と対立することに。

本来は武力集団ではない本願寺がそうした理由は、複数考えられます。

①本願寺十一世・顕如の妻・如春尼と、武田信玄の妻・三条夫人が姉妹であったこと

→「味方の敵は自分の敵」理論

武田信玄
武田信玄は本当に戦国最強の大名と言えるのか 戦歴や人物像に迫る53年の生涯

続きを見る

三条夫人
三条夫人(武田信玄の正室)は本当に高慢ちきな公家の姫だったのか?

続きを見る

②顕如自身が「神仏を畏れぬ織田信長は仏敵!」とみなしたこと

→信仰的に許せない

③上洛後、信長と不仲になった十五代将軍・足利義昭が「本願寺を頼りにしてるよ」的な態度を取ったこと

→権威の後押しを得たので強気になれた

足利義昭
なぜ足利義昭は信長と共に上洛しながら一人京を追い出されたのか 流浪の生涯を辿る

続きを見る

その後、秀吉~家康の時代に本願寺は分裂してしまいますが、その辺の経緯は以下の過去記事でご覧ください。

東本願寺と西本願寺
東本願寺と西本願寺が二つに分裂しているのは信長 秀吉 家康のせい?

続きを見る

お次は興福寺です。

現代では阿修羅像でもお馴染みのこの寺もまた古代から非常に有力なお寺でした。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-光る君へ, 寺社・一揆
-,

×