栗山善助/wikipediaより引用

黒田家

官兵衛の右腕だった栗山善助(栗山利安)忠臣81年の生涯~息子の大膳も

大河ドラマ『軍師官兵衛』で印象的な三人の家臣がおりました。

彼ら三人は共に行動し、常に官兵衛から離れない大切な存在。

もっとも、知名度という点では母里太兵衛が抜きん出ているかもしれません。

豊臣恩顧の豪傑・福島正則と酒の飲み比べ勝負に勝ち、天下三名槍のひとつ・日本号を手にした――そんなド派手エピソードをお持ちだからです。

福島正則すったもんだの転封&改易劇〜終焉の地は意外や信州!

続きを見る

しかし、です。

地元福岡では栗山の名が一つ抜きん出ておりまして。

善助が官兵衛を救っただけでなく、息子の栗山大膳は「黒田52万石を救った」として今なお尊敬されているのです。

本日は栗山善助(栗山利安)を中心に父子の活躍を見てみましょう。

 

栗山善助(栗山利安)16歳で仕官し17歳で初陣

栗山善助は、天文19年(1550年)生まれとされております。

天文20年説もありますが、いずれにせよ1546年生まれの官兵衛の4~5才歳下となり、相談しやすい側近といったところでしょうか。

呼び名は四郎右衛門、あるいは備後守とも。

播磨国生まれで、栗山氏は代々赤松氏の家臣でした。ドラマ『軍師官兵衛』では、栗山村出身の農民出身とされています。

黒田官兵衛は本当に秀吉の軍師と呼べるのか?59年の生涯まとめ【年表付き】

続きを見る

官兵衛に士官したのは永禄8年(1565年)のこと。

翌年には17才で初陣を飾っており、さらに永禄12年(1569年)、83石を拝領して馬物具を与えられています。

このころ主君の官兵衛は櫛橋光(くしはしてる)を妻に迎えており、1568年に長男・黒田長政が誕生しておりますので、善助も共に喜んだことでしょう。

黒田長政(官兵衛の嫡男)偉大な父を持つ二世の苦悩~56年の生涯

続きを見る

1577年に羽柴秀吉豊臣秀吉)の中国攻めが始まり、官兵衛は姫路城の本丸を提供。

上月城攻めや佐用城攻めを行っておりますが、善助も官兵衛について播磨各地を転戦しておりました。

そのまま秀吉の中国攻めが順調に進めば、もしかしたら善助の名前も大きく注目されることはなかったかもしれません。

というのも天正6年1578年、別所長治が織田信長に反旗を翻し、続けて荒木村重が裏切ったのです。

 

織田信長は意外と優しい!? 生誕から本能寺まで49年の史実解説【年表付】

続きを見る

荒木村重~信長に敵対し自分だけ逃亡した道糞な生き方【戦国逃亡武将譚】

続きを見る

 

有岡城に幽閉された官兵衛を救い出す

村重の謀反は黒田家にとっても善助にとっても、命運を左右する一大事となりました。

というのも、村重の説得に向かった官兵衛が監禁され、そんなことは露とも知らぬ信長から、黒田家の人質・長寿丸(長政)に対して殺害命令が下されたのです。

黒田家臣団の将来をも左右する大ピンチ。

留守を守る官兵衛の家族や家臣たちは、一致団結して家を守ることを決意しました。

善助も留守職中連署起請文に名を連ねております。

これは言うほど簡単ではありません。

なんせ、ほかならぬ黒田家の主君・小寺政職が織田を裏切って毛利家に従うことを決め、あろうことか官兵衛の殺害依頼を村重に送っていたのでした。

最初から、説得など通じるハズもなかったのです。

結果的に長寿丸(長政)は竹中半兵衛の機転で命を救われ、そして1579年、ついに善助らは有岡城の戦いで勝利。

善助は、官兵衛救出で重要な役割を果たし、天正8年(1580年)には、2百石に加増されました。

松寿丸(官兵衛の子)に殺害命令!半兵衛が匿うことを秀吉は知っていた?

続きを見る

竹中半兵衛36年の生涯まとめ~官兵衛と並び称される天才軍師の実像とは?

続きを見る

その後の善助の活躍は、官兵衛や秀吉と共にあり、

と戦い進み、迎えた1582年、本能寺の変が起きました。

大きなイベント続きで善助のエピソードを目にする機会はありませんが、本能寺の変後の【中国大返し】で官兵衛は、毛利家を警戒するための殿(しんがり)を務め、明智光秀との直接対決となった山崎の戦いでも戦功を挙げております。

官兵衛の補佐である善助も同様に活躍したことでしょう。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-黒田家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.