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【小早川隆景】
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その後、甥で当主の毛利輝元から伊予を受け取りました。
結果的には同じことですが、彼が家中の混乱を防ぐことを重要視していたことがわかる一件。
統治のほうもうまくやってのけ、ルイス・フロイスには「隆景サンスゴイネー! 日本中で伊予ガ一番平和ダヨー!!」(超訳)と絶賛されています。
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当然、秀吉からの覚えもめでたく、羽柴・豊臣の名乗りを許されるほどでした。
北条氏政・北条氏直親子を攻めた小田原征伐では、徳川家康がかつて本拠としていた岡崎城(現・愛知県岡崎市)をあずかっております。
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朝鮮の役では、前半戦にあたる文禄の役で渡海し、碧蹄館の戦いで立花宗茂とともに勝利を収めました。
このとき既に還暦でしたので、当時の感覚でいえば立派な老将です。
凄まじい体力&精神力ですよね。
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毛利家を守るため、小早川家を差し出した!?
帰国後も秀吉の強権は続きます。
このころ隆景の甥っ子・輝元は40歳になっていましたが、実子がなく跡継ぎが決まっていませんでした。
それに目をつけた秀吉が「ならワシの甥を輝元の養子にくれてやろう。これで安泰じゃ!」と言ってきたのです。
どう見ても乗っ取る気満々ですね。
これを見抜いた隆景、まさに捨て身の策に出ます。
「申し訳ございません太閤様、ついこの前”輝元の跡は従弟の秀元が継ぐ”ことに決まりまして。代わりといっては何ですが、私も跡継ぎに困っていたところですので、小早川に甥御様をいただきたく」(※イメージです)と名乗り出たのです。
確かに隆景にも実子はおらず、道理としては通っています。
また、毛利秀元はその名が示す通り、秀吉のお気に入りだったので、彼が本家を継ぐことに対してケチをつけるのはさすがに無理でした。
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このとき隆景の養子になったのが、あの小早川秀秋です。
関ヶ原の戦いで裏切り者と呼ばれる武将ですね(実際は最初から東軍説が有力)。
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残念なことに、小早川隆景が自分の家を犠牲にしてでも守りたかった毛利本家の所領は、関ヶ原後に約1/4になってしまいます。
隆景はそれを知らずに世を去っていますので、不幸中の幸いですかね……。
働き過ぎて過労死だったのでは?
彼の頭のキレっぷりは終生衰えませんでした。
五大老に任じられた後に隠居しても、あまりゆったりしている暇はなかったのではないでしょうか。
生まれた順番通りに亡くなるのが道理とはいえ、この感じだと「もしかして秀吉が隆景を過労死させるつもりだったんじゃ……?」とすら思ってしまいます。
もちろん、当時そんな概念はないのですけども、隆景の死については「急死」や「卒中」という単語が出てきます。
だんだん具合が悪くなったのではなく、いきなりポックリという感じだったら……。
飢餓や寒さでバタバタ将兵が亡くなっていた朝鮮の役から生きて帰ってきて、しかも数年間は元気だったことを考えれば、過労死に近いような気がしません?
考えすぎですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
堀新/井上泰至『秀吉の虚像と実像』(→amazon)
小早川隆景/Wikipedia