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【毛利秀包】
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秀吉子飼いの将として各地を転戦
天正12年(1584年)秀包は、秀吉の配下として小牧・長久手の戦いに参加しました。
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四国征伐にも加わり、戦功を認められて河内1万石、伊予3万5千石の領地を与えられる大名になります。
その後、九州征伐に際しては隆景とともに各地の攻略にあたり、秀吉の九州平定に貢献。
戦功によって筑後に7万5千石を獲得し、久留米城主になりました。
また、この時期に「西国無双(西の最強武将)」と称された武将・立花宗茂と意気投合したといわれ、二人は義兄弟の契りを交わしたとも。
宗茂と秀包は【肥後国人一揆】の平定や【小田原征伐】にも従軍し、秀吉の天下統一事業を支えました。
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この時期、秀包は大友宗麟の娘である桂姫と結婚しています。
宗麟といえば、なんといっても「キリシタン大名」として有名であり、秀包もその影響から洗礼を受けました。城下に天主堂を建築するなど、それらしい活動もみられます。
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一方、秀吉が大陸進出への野望を隠さなくなると、明・朝鮮との間に勃発した【文禄の役】に出陣。
文禄2年(1593年)に勃発した碧蹄館の戦いでは、実に15万ともいわれる大軍を4万程度の軍勢で迎え撃ち、隆景や宗茂と協力して戦勝を収める大戦果を挙げました(軍勢についてはもっと少数だったという意見も見られます)。
彼自身はこの活躍もあって5万5千石の加増を受け、文禄の役においては義兄弟の宗茂に勝るとも劣らない実力を見せています。
ただ、戦全体としては両軍ともに戦争の継続が難しくなり、停戦の交渉が始まったため秀包も戦を中断しました。
異例ずくめの秀包廃嫡
戦場でも無類の実力を発揮し、小早川家の後継者でもあり、秀吉のオキニでもある秀包。
天正17年(1589年)に侍従という立場につき「公家成大名」ともなっていた彼は、もちろん秀吉からも後継者の地位を保証されていました。
もはや彼に足らないモノはないかと思えるくらいです。
しかし、その地位は予想だにしない方向から崩れ去っていくことになります。
文禄3年(1594年)7月の時点で、秀吉の養子として彼の後継ぎ候補になっていたはずの青年「羽柴秀俊(はしばひでとし)」が、小早川隆景の後継者になることが決まったのです。
「イヤイヤ、隆景の後継者は秀包でしょ!」
現代の我々も、おそらく当時の周囲もそうつっこまれたでしょう。秀包はこの件で小早川家を継ぐ資格を失い、やむを得ず別の家を立てて姓を毛利に戻しました。
しかしなぜこのような事態に発展してしまったのか。
結論から言えば、秀包の行動や資質が原因ではなく、豊臣家と毛利家、小早川家をめぐる政情のあおりを受けたことが原因のようです。
後世に伝わる史料から見ていくと、ことの始まりは小早川家の後継ぎ問題ではなく、実子が生まれていなかった毛利輝元の後継ぎ問題がありました。
慶長14年(1609年)に書かれた覚書によると
「実子の後継者がいない毛利家の行く末を心配した安国寺恵瓊が、輝元の養子として秀俊を迎え入れようとした。
しかし、隆景はこれをたしなめ、輝元の叔父・穂田元清の息子である毛利秀元を養子にすることを提案した」
と書かれています。
一方、承応2年(1653年)に書かれた覚書によると、基本的なストーリーは似通っているものの、秀俊の養子入りを提案したのが安国寺ではなく黒田官兵衛に代わっています。
二つを比較すると、最初のほうは事件当時に書かれたもので信頼性も高そうに見えますが、覚書の書き手は政治的に失脚しており、その不満が込められている可能性があるとも指摘されます。
残念ながら現時点での正解は不明。
ただ、二つの史料に似たようなストーリーが書かれていることから、両者に共通する部分である
「輝元の養子に秀俊を推薦した人物がいる」
というのは、ある程度信頼していいような気もします。
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