柴田勝家/wikipediaより引用

織田家

柴田勝家62年の生涯をスッキリ解説!当初は信長の敵だった鬼柴田

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戦功を背景に河内・丹波・山城などを得た秀吉に対し、勝家は北近江と長浜城(長浜市)を得ただけでした。
信長リベンジの経過からすれば致し方ない面もありますが、織田家筆頭家老という立場から考えると少ないですよね。

ちなみに信長次男・信雄は尾張・伊賀・南伊勢、信孝は美濃を得ていました。
こちらは概ね妥当でしょうか。

 

光秀を討ってなかったらココにはいない?

清洲会議後の織田家は、どうなったのか?

三法師の後見として織田信雄織田信孝がつき、その下に勝家と秀吉が並びます。

丹羽長秀と池田恒興はついて補佐というカタチでした。
丹羽長秀は信長に「友」と呼ばれた信頼厚い人で、池田恒興は信長の乳兄弟です。

丹羽長秀/wikipediaより引用

こうしてみると、
【光秀を討ってなかったら、秀吉はココにいなかったのでは?】
と思わせる面々ですね。

また、同時に勝家は信長の妹・お市の方と結婚しており、かの浅井三姉妹(茶々・初・江)も勝家のもとに身を寄せました。

これはある意味で、勝家を油断させる秀吉の策だったかもしれません。

というのも秀吉は10月15日、単独で信長の葬儀を執り行っているのです。
場所は、京都の大徳寺。
このとき、勝家は京都にはいませんでした。

同時期に勝家は秀吉に対抗するべく、諸大名に接触しているのですが……葬儀の喪主が信長の四男であり、秀吉の養子でもある羽柴秀勝だったため、世間的にこんな印象を与えました。

「これからは秀勝と秀吉が織田家を背負って立つ」

勝家は、滝川一益、織田信孝と手を結み、秀吉と対抗しようとしましたが、常に相手の方が一枚上手という状況が続きます。
秀吉は勝家の養子・勝豊を懐柔したり、信孝を降伏させたりして、味方を徐々に奪っていきました。

 

ポイントは賤ヶ岳と大垣城

勝家は何とか状況を打開すべく、毛利家や高野山などに連絡を取りました。

秀吉の背後をつこうとしたのですが、信長存命中にはどちらとも敵対していたわけですから、いずれもうまくいきません。

上杉景勝にも何らかの協力を取り付けようとしていた形跡があります。
しかし、こちらにも秀吉が既に手を回していました。

もう、こうなると相手が悪いとしか言いようがなく……こうした流れで天正十一年(1583年)、秀吉と最後の戦いをすることになります。

いざ戦となれば、柴田勝家にも自信はあったでしょう。
いわゆる【賤ヶ岳の戦い】です。

この戦いのポイントは、何と言っても
・主戦場の賤ヶ岳
・大垣城
でありましょう。

当初、賤ヶ岳に布陣した両軍は、互いに築いた砦が強力だったため、動けずにおりました。
先に動いたら負け。
土木の得意な織田軍らしい展開です。

すると、前年12月に降伏していた織田信孝が滝川一益と手を結み、岐阜方面から秀吉の背後を突こうとします。
勝家と連携して賎ヶ岳の秀吉を攻め滅ぼそう――というものでした。

北は勝家、南は信孝&一益。

挟撃される恐れが出てきた秀吉は、一部の兵を賎ヶ岳に残し、岐阜城(途中から大垣城)へ向かい、戦況を見守っていたところ、ついに敵が動きます。

猛将として名高い佐久間盛政が、中川清秀(討ち死)や高山右近(退却)を蹴散らし、秀吉軍の中に楔を打ち込むようなカタチになったのです。

しかし、それこそまるで罠だったかのように、秀吉が神速の行軍で賎ヶ岳に戻り(美濃大返し)、形勢は逆転。
勝家方だった前田利家が突如戦線を離れると、金森長近などの軍も退却し、勝家本隊に秀吉軍が襲いかかる展開となりました。

勝負あり――。

覚悟を決めた勝家は、北ノ庄城まで撤退します。

むろん秀吉方も追撃して、同城を包囲。
覚悟を決めた勝家は、妻・お市の方と共に自害しました。

享年62(1522年生まれ換算)。

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「信長の時代で、最も勇猛な武将」

あまりにも潔い。
柴田勝家の最期を見ると、そんな印象を受けます。

が、もともとがそういうタイプの人物だったようです。

柴田勝家の人物評は全般的に
「潔く、温情ある人柄」
という印象の逸話が多く残されています。

例えば『日本史』の著者であるルイス・フロイスによると

「信長の時代で、最も勇猛な武将」

だとか。

フロイスを始め、キリスト教の宣教師はキリスト教を理解している人にかなり高い評価をし、敬虔な仏教徒については酷評する傾向があります。
しかし、禅宗を信仰していた勝家については、これが当てはまりません。

もともと勝家が、宗教に対して比較的寛容なタイプだったことや、越前での布教についても事実上許したことが理由だと思われます。
正確には、
「越前での布教は手柄次第」
と言っていたそうです。
つまり、勝家側が妨害することはないが、推奨もしないということ。
宣教師たちからすれば、ありがたいことだったかもしれませんね。

また、自害直前についての様子も、好意的に表現されています。

「勝家は離反した家臣を責めず、最期まで付き従った家臣たちについても逃げることを許した。しかし、その忠誠に今生で報いる術がないことを嘆いていた」

似たような話が前田家の家臣・村井重頼の覚書にもあるそうで。

他にも勝家に関する逸話は多々あります。
が、『常山紀談』や『翁草』など、江戸時代に成立した書物も多く、史実的には怪しくなってしまいます。

が、当人に温情や清廉さがなかったら、こうした逸話が伝わったり作られたりはしないでしょう。

そう考えると、やはり柴田勝家という人は、愚直で誠実な好人物だったと思えます。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『柴田勝家と支えた武将たち』(→amazon link
柴田勝家/wikipedia

 



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