柴田勝家

柴田勝家/wikipediaより引用

織田家

織田家を支えた猛将・柴田勝家の生涯~なぜ「鬼柴田」は秀吉に敗れたのか

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信長上洛後の戦にほぼほぼ参加

その後も柴田勝家は、織田家の動向に伴い、合戦の日々が続きます。

織田家と共に歩んだ、その戦歴を整理してみましょう。

絵・富永商太

◆上方での勢力を取り戻そうとする三好三人衆との戦

三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3武将が畿内で暗躍、永禄の変では足利義輝が討たれる(結果、義昭が擁立される)

◆石山本願寺攻め

→本願寺の顕如上人や下間、雑賀衆などが立ちはだかり10年以上の対立

◆長島一向一揆

→伊勢長島の一向宗を大量虐殺

→延暦寺の僧侶らを数千人焼き討ち(大量の遺体や焼失跡が発掘されず、殺害の実数は疑問視されている)

◆槙島城の戦い

足利義昭を京都から追い出す

◆一乗谷城・小谷城攻略

→越前の朝倉義景・近江の浅井長政を滅ぼす

武田勝頼率いる武田軍相手に完勝

 

信長に関わる合戦のほとんどですね。

大まかにまとめると「勝家は信長が上洛して以降の戦には、ほとんど参加していた」といえるでしょう。

 


刀狩りや道路整備 時代は大きく変わりスポーツも!

柴田勝家の後半生に大きく関わる越前との縁は、天正三年(1575年)8月、越前一向一揆から始まりました。

ここでの功績で、勝家は越前に49万石と北ノ庄城(福井市)を与えられます。

北ノ庄城に着任した後は、両国経営にも力を入れ、領民からも比較的良い領主と思われました。

刀狩りで集めた武器を農具などに鋳直したり。

道路や橋の整備をして領内の行き来を便利にしたり。

一般的に勇猛な武将というイメージの強い柴田勝家ですが、同時に政治的能力も有していたことがわかります。

天正四年(1576年)には北陸方面の総責任者に任じられ、前田利家佐々成政・不破光治・佐久間盛政などをつけられました。

前田利家/wikipediaより引用

かなり有力なメンツが揃っておりますね。

隣国の加賀は90年も一向一揆が勢力を保っていた地域なので、そのくらいの緊張感が必要だったでしょう。

その先には、別の強敵もおりました。

上杉謙信です。

強敵・武田信玄は既に没しておりましたが、越後の龍はまだ健在。

織田家にとってこの軍神は、強大な敵でした。

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