絵・小久ヒロ

織田家

荒木村重~信長に敵対し自分だけ逃亡した道糞な生き方【戦国逃亡武将譚】

織田信長の家臣の中で、あまり気持ちの良くない話題で語られることが多い人物がいます。

その名も荒木村重

出家後の「道薫どうくん」あるいは字面が強烈な「道糞どうふん」で覚えている方もおられるでしょうか。

この村重、信長を裏切ったことで知られますが、それだけなら他にも何人かおり時代が時代ですからどーってことはない。村重のケースが特殊なのは、自ら織田家に反旗を翻しておきながら一人だけさっさと逃亡した上に、その後も生き永らえたこと。

親類縁者がムゴい殺され方をされる――その可能性がわかっていたはずなのに、とにかくもう一人だけ逃げ続けます。

いったいなぜそんな所業に及んだのか? 村重の生涯を振り返ってみましょう。

 

荒木村重 池田氏の家臣に生まれる

荒木村重は天文4年(1535年)、摂津の戦国大名・池田氏の家臣の一人として生まれました。

荒木氏は丹波国・波多野氏の一族ともいわれていますが、定かではありません。
もし事実だった場合は、藤原秀郷(※)の子孫ということになりますね。

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若い頃に池田長正の娘と結婚。一族に名を連ねたようですので、それなりの信頼を得ていたものと思われます。
その逆もありうるのが戦国時代ですが。

永禄十一年(1568年)に信長が義昭を奉じて上洛した際、村重の主・池田勝正は三好三人衆と近かったため、将軍方と敵対していました。

しかし、程なく降参したため罰されずに済み、勝正は将軍位を継いだ義昭から、和田惟政や伊丹忠親とともに摂津の守護を命じられます。

その後は主の勝正が将軍と信長に従ったため、村重もその一員として働きました。
具体的な例としては、永禄十二年(1569年)に本圀寺の変が起きた際、義昭救援に動いた大名の中に池田氏がおり、村重も戦闘に参加していたようです。

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幕府サイドの和田氏と合戦

少し間が空いて、元亀元年(1570年)6月。村重と池田氏の一員・知正が、勝正に対してクーデターを仕掛けました。

三好三人衆の調略を受けてのことだったようで、勝正を追放、池田氏の当主は知正となります。

ただし、実権は村重が握っていたため、このクーデターは村重の一人勝ちともいえます。

こうなると、同じ摂津守護の二人(和田惟政と伊丹忠親)は当然警戒します。
特に和田惟政は【永禄の変】と一連のドタバタから足利義昭を救出した幕臣の一人であり、室町幕府への忠誠心が高い人でした。

つまり永禄の変を起こした三好三人衆とは敵対関係。となると、彼らに近づいていく村重と池田氏に対しても警戒を強めます。

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そして元亀2年(1571年)8月28日、池田氏と和田氏は摂津の白井河原で戦となり、惟政が討死して池田氏が勝利を収めました。

それから2年近くの月日が流れた天正元年(1573年)、義昭と信長の対立が深刻化すると、村重は信長につきました。

間もなくして、惟政の跡を継いでいた和田惟長が、高山右近らに追放されます。
村重と右近は懇意だったと言われており、この騒動にも村重が関与していたと考えられています。

 

信長に従い義昭攻めに参戦す

天正元年(1573年)3月29日。
村重は逢坂で、岐阜から京都へ向かう途中の信長を出迎えました。

このときの上洛は、将軍・義昭を攻めるためのもの。村重には細川藤孝細川幽斎)も同行しており、

「もう将軍様を見限り、信長様に仕えます」

と宣言したようなものです。
信長は殊勝に思い、二人に褒美を与えました。村重には、名工・郷義弘の刀が下賜されています。

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実際のところ、この上洛で信長と義昭は一旦和議を結ぶに終わり、同年7月に再び対立。
槙島城へ逃げた義昭を信長が攻め、村重は信長軍の一員として戦いました。

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一方、形式上は村重の主だった池田知正は義昭方。

義昭が槇島城の戦いに敗れて追放され、知正も没落します。
これにより、池田氏は摂津での権力を完全に失い、三人いた守護のうち伊丹忠親だけが残りました。

信長はこの構図を利用し、村重に忠親を攻めさせて、摂津を一元支配しようと考えたようです。

村重に摂津の大部分における支配権を与えると、当人もよく働き、天正二年(1574年)11月には伊丹城を攻略。有岡城と改めて居城とします。

さらには天正三年(1575年)、有馬の有馬氏を滅ぼして、摂津の一元支配を確立しました。

それだけではありません。
他地域の戦である【越前一向一揆】の攻略や【石山本願寺攻め】、【紀州征伐】にも参加して武功を挙げ、信長からの覚えも上々といったところ。さらには播磨の国人たちとの仲介も務めていたようです。

こうした八面六臂の活躍で、やっかみを買ったのでしょうか。
いつしか良からぬ噂が立ち始めました。

 

謀反の噂が流れ、そして謀反を起こす

噂とは主に次の通り。

「村重は信長に逆らおうとしている」

「村重のいとこ・中川清秀の家臣が、石山本願寺にこっそり米を売っている」

信長の耳にも届いていたらしく、明智光秀・松井友閑・万見重元らが糾問の使者として、村重の元を訪れます。

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彼らは

「安土城へ出向き、あなたが直接信長様に弁明したほうがいいでしょう」

と告げ、村重もそうしようとしました。

しかし、清秀が反対します。

「そんなことをすれば、そのまま処刑されるに決まっている。行かないほうがいい」

運命の分かれ道――村重は清秀の話を信じてしまったのか。おそらく処刑よりはマシだと考えたのでしょう。
あろうことか、そのまま反逆を実行します。

おそらくや信長も「ただの噂だろうし、潔白ならば出向いてくる」と考えており、この急展開には驚いたことでしょう。

旧知の仲である小寺孝高(黒田孝高黒田官兵衛)も村重説得に向かいましたが、すっかり覚悟を決めてしまっていたようで聞く耳を持ちません。どころか官兵衛をそのまま伊丹城内に監禁してしまいました。

この一件で、信長はさらにブチギレ!

官兵衛が監禁されていることなど知りませんので「ヤツも裏切ったか! ならば人質を殺すまでよ!」と、嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を秀吉に命じます。

しかし、この件に関しては竹中重治(竹中半兵衛)の機転で松寿丸は匿われ、事なきを得ています。

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それよりも問題は、残された村重の親類縁者たちでしょう。大勢の者たちがムゴい殺され方をします。

 

清秀と右近は当初村重に味方をしたが……

村重がクーデターを起こしたとき。
近隣の中川清秀は自らが、高山右近は村重に人質を出していたため、当初2名は村重方につきました。

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しかし織田軍が攻め寄せてくると、二人ともあえなく降参。
厳密に言えば、右近は「信長に領地を返上する」という形で屈しています。

領地がなくては兵も兵糧も用意できません。ゆえに村重への攻め手に加わらずに済む。となると、村重を裏切ったわけではなくなるので、人質を処刑されるおそれもない……というわけです。

人質は、大義名分があってこそ意味があります。

裏切り者ではない武将からの人質を殺せば、他の大名や世間からの評判がダダ下がり。

いかに倫理観の緩い戦国時代でも、世間からの信用を蔑ろにすれば国力も支配力も弱まります。武器を買うにも戦のために他国を行き来するにも、血縁以外の者の協力が不可欠であり、この後の村重は、信長の敵対勢力と結びついて、生き残る道を模索しようとしました。

例えば以下のような勢力がおりました。

・京を追放されながらも、正式には将軍の座を手放していない足利義昭

・信長最大の敵ともいえる、石山本願寺

・当時、織田家とぶつかり合い始めた毛利氏

そもそも村重の謀反自体が、上記いずれかの勢力による調略だったという説もあります。

2019年現在でも村重が謀反した正確な理由はわかっていませんが、全くの無関係というわけではないのでしょう。

 

一人で有岡城を抜け出した!

こうして村重は、孤立しつつも有岡城に籠もりました。

織田家・万見重元まんみしげもとらの軍を破るなど奮闘もあり、抵抗を続けますが、さすがに数の差はいかんともしがたいもの。
兵糧も不足しているのに、期待していた毛利の援軍も現れず、いよいよ追い詰められていきます。

村重は表向き、自軍の将兵に対し
「決戦を挑むか、尼崎城と花隈城を明け渡して助命を願おう」
と説明していたようです。

しかし、実際の行動はそれを大幅に裏切るものでした。

天正七年(1579年)9月2日、彼はなんと、一人で有岡城を抜け出してしまうのです。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)

向かった先は嫡男・荒木村次の居城である尼崎城(大物城)でした。
有岡城の将兵からすれば、命がけで仕えてきた主に見捨てられ穏やかならぬ……どころの話ではありません。

後に残された者のうち、有岡城の代表になったのは荒木久左衛門(池田知正)です。

信長は彼らに対し、
「尼崎城と花隈城を明け渡せば、お前たちの妻子を助けよう」
と約定を取り付けます。

久左衛門たちはこのことを村重に伝えて判断を促そうとしますが、村重はあくまで抗戦を主張。困り果てた久左衛門らもまた、妻子を見捨ててどこぞへ逃げてしまいました。

村重にも直接説得を試みて失敗しています。久左衛門らを通してもダメ。
もはや「仏の顔も三度まで」というくらいですから、信長が二度の失敗をしてもなお、交渉を続ける理由も感情もなかったでしょう。そして……。
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