大島雲八

大島雲八の兜

織田家

93才まで最前線にいた戦国武将・大島雲八(光義)は弓名人~三英傑にも愛され

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大島雲八(大島光義)
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転職先の主君が、長井(隼人佐はやとのすけ道利みちとしでした。

長井道利は、アノ斎藤道三の弟(子ども説も)と言われていて、烏峰うほう城(後の金山かねやま城・岐阜県可児かに市)や大島雲八さんの故郷である関城の城主を務めたお方です。

金山城(兼山城)

父の討ち死にから孤児へ、親戚の国衆に育てられ、コツコツと弓の腕を磨き、実力を認められ、ついに美濃を治める斎藤道三の一族の家臣となったわけです。

“芸は身を助ける”とは、まさにこのこと!

しかし……。

 

信長の脅威が迫ってきた!

大島雲八さんの人生はこのまま順風満帆とはいきません。

永禄8年(1565年)、美濃制圧を狙っていた織田信長が、関城や近くの堂洞どうほら城や加治田かじた城(どちらも岐阜県富加町とみかちょう)などの攻略に乗り出したのです。

夏頃には、織田軍の木下秀吉(後の豊臣秀吉)に鵜沼うぬま城(岐阜県各務原かかみがはら市)へ攻め寄せられ、これは長井道利が迎撃、見事に退けています。

木下秀吉は大ピンチに陥ったようで、弟の木下秀長(後の豊臣秀長)に敵の側面を突いて救わなければ、討ち死にしていた可能性もあったといいます。

鵜沼城

ところが、です。

加治田城の佐藤忠能ただよしが織田信長に内応。鵜沼城も木下秀吉の調略によって織田軍に降ってしまいます。

このあたりの出来事を『信長公記』では1564年と記載しております。そうすると長井道利の秀吉軍撃退と前後してしまうのですが、1566年説もあったり、まぁ歴史のご愛嬌ということで……。

ともかく織田信長の脅威が迫ってきます。

すると堂洞城の岸信周きしのぶちかと関城の長井道利は徹底抗戦! 8月28日には【堂洞合戦】が起きて堂洞城は落城し、岸信周は自害となりました。

大島雲八さんの主君・長井道利は、戦況打開のため稲葉山城(後の岐阜城)の斎藤龍興(たつおき/道三の孫で義龍の子)の援軍を受け、織田軍に反撃を仕掛けます。

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まず、裏切り者である佐藤忠能の加治田城を攻撃しました。信長の侵攻に対して加治田城と関城と堂洞城は同盟を結んでいたのですが、佐藤忠能だけ信長方に降っていたのは前述の通り。

しかし、織田軍の援助もあって撃退されてしまい、逆に9月1日には長井道利の関城が包囲され、結局、開城へと追い込まれます。

加治田城と関城を巡って起きたこの戦いを【関・加治田合戦】と呼びます。

ちなみに、関城を包囲したの斎藤利治(としはる)でした。斎藤道三の子どもの1人です。

長井道利も道三の息子だとすると、兄弟による攻城戦だったということになりますね。

なお、斎藤利治は早くから織田信長の近習となり、美濃攻めに大いに貢献した人物で、その後も織田家に仕え、【本能寺の変】では織田信忠(信長の長男)と共に二条御所で討ち死にしています。

斎藤利治
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敵だった織田家の弓大将(弓足軽頭)に抜擢され

さて、今回の主人公の大島雲八さんは、織田信長による一連の「中濃攻略戦」において、【鵜沼城の攻防戦(vs秀吉)】や【関・加治田合戦】で主君の長井道利に従って織田軍と戦ったとされます。

しかし、自慢の弓で勝利に導くことは叶いません。

主君の長井道利は永禄10年(1567年)、稲葉山城を織田信長に落とされると、斎藤龍興と共に長良川をくだって伊勢国(三重県)へ敗走。大島雲八さんも再び没落してしまうことに……はならなかったのです!

これまた“芸は身を助ける”!

弓のプロとして有名だった大島雲八さんに、再びオファーがきます。

その相手というのが、そう!

織田信長です!

織田家臣となった大島雲八さんは、織田家の弓大将(弓足軽頭)に抜擢されることになりました。

織田信長
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そしてこれから歴史の表舞台へ登場していくわけですが、この時すでに御年60だったんですよ。まさに大器晩成の“遅れてきたルーキー”なわけです。

しかも、当人はめちゃくちゃ負けず嫌い!

あるとき斎藤道三の元家臣で槍が得意だった同僚・武藤彌平兵衛が、大島雲八さんを次のように煽ってきました。

「あなたは弓で有名になり、私は槍で有名になりました。でも、弓は遠距離で戦ってるからズルいですよね。全然違うので、一緒にしないでいただきたい」

この煽りに対して、大島雲八さんは大乗っかり!

弓の名人であるにも関わらず槍の稽古を始め、それから3年間はなんと槍で戦ったそうです。

その間、槍働でもらった感状(合戦で大活躍した時にもらえる主君からの感謝状)の数は4通。武藤彌平兵衛は2通でした。

見事、意地っ張り合戦に勝利した大島雲八さんは武藤にこう告げます。

「弓と槍はどちらも選びがたいけども、弓は大勢の敵兵と戦う時に有利だからやっぱり弓にします」

なんというスカッとするお話なんでしょう。もう、フジテレビの『痛快TV スカッとジャパン』に応募したい!(笑)

 

姉川の合戦でも先駆け(このとき53歳)

さてさて、槍から弓に戻した大島雲八さんはその後も大活躍しました。

織田信長から新たに領地を与えられ、石高は100貫文。1貫が現在の10万円とも言われていますので、現在の価値に直すと年商は約1,000万円になりますね。

それ以前の石高は不明ですが、おそらくやグーンと給料が跳ね上がったことでしょう。

永禄2年(1559年)52歳の時にようやく誕生した長男(大島光成)も、その後スクスクと成長しており、家督を譲って老後も安心!

それで良かったはずなのですが、大島雲八さんは隠居するどころか「生涯現役」とばかりに、最前線で戦い続けます。

元亀元年(1570年)6月に起きた

という【姉川の戦い】でも、大島雲八さんは先駆けをして、敵兵を数人射抜いたそうです。

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さらに同年9月、「坂本の戦い」でも活躍を見せます。

この月、大島雲八さんの主君・織田信長は、石山本願寺との10年戦争に突入しました。

その始まりは「野田城・福島城の戦い」と呼ばれる合戦。苦戦する織田信長に対して、その背後を突く形で浅井長政と朝倉義景が京都への進出を目論みます。

迎え撃つのは、織田家の宇佐山城(滋賀県大津市)の城兵たち。

両軍は坂本(滋賀県大津市/この翌年に明智光秀の「坂本城」がこの地に築かれる)で激突したのです!

この戦いは、宇佐山城を預かっていた森可成もりよしなり森長可や森蘭丸の父)や織田信治(信長の弟)が討ち死にするなど、壮絶なものとなりました。

大活躍した大島雲八さんは、織田信長から次のように称え命じられたと言います。

「雲を穿うがつような働きだ。名を“雲八”と改めるように」

以降、大島雲八さんは通称を「雲八」と改名したそうで、御年62歳にして「大島雲八」の完成です!

ちなみに、小説『93歳の関ヶ原』では「うんや」とルビが振ってありましたが、史料や関市の公式サイトなどでは「うんぱち」と登場します。今回はコチラで統一させていただきました。

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