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【蒲生氏郷】
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鉄砲は「当たらないから大丈夫」
氏郷のトレードマークだった鯰尾兜に、弾が3つも当たったとか。
まぁ、狙われるのも仕方ないんですけどね。なんせ、ド派手な兜ですので、遠くからでもとにかく目立つ。
鯰尾兜の展示について
鯰尾兜は、9月20日(金)まで企画展準備のため展示をしておりません。次回企画展「よろい・かぶと・かたなの世界」(9月21日(土)~11月24日(日))では、鯰尾兜の比較の展示もありますので、お楽しみに! pic.twitter.com/AyRzxBwBqY— 岩手県立博物館 (@Iwahaku) September 16, 2019
しかも氏郷は、信長と同様、戦場で自ら陣頭に立つことを好んでいたので、余計にターゲットにされやすかった。
部下には「戦になったら、鯰尾の兜の武士を手本として働くように」と言っていたことすらあるほどです。
イケイケ過ぎ……といっても、それは氏郷だけではありませんね。
古今東西、力に自信のある武将ほど、何かしらトレードマークとなる武具を身に着けていました。
ただでさえ高身長なのに、さらに目立つ兜を被っていた前田利家。
少し話は違いますが、柴田勝家はとある戦の最中、
「鉄砲に当たるかもしれません!」
と注意されると
「当たらないから平気」
と豪語したというエピソードも。謎の自信ですね。
大谷吉継は朝鮮の役の際、同じく矢弾の飛び交う戦場で
「運命の矢は一本よ」
と言い、涼しい顔をしていた……という逸話があります。
戦場での度胸や運も、武将の実力のうちだ、と心の底から達観していたのかもしれません。
妻の影響力も懸念して飛ばされた?
信長時代と同じように、秀吉時代にも変わらぬ活躍をしていた蒲生氏郷。
九州征伐の後に三重へ封じられて松坂城を築きました。
読み方は「まつさか」で濁らないそうです。
石垣に、古墳の石棺のフタ(!)を使ったり、住民を強制的に移動させたり、前の領地の商人を連れてきたり。
なかなか強引なところもあったようですが、立派な城下町を造り、商都としても栄えさせます。
おそらく、この時期が彼の最盛期だったでしょう。
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それ以前からの功績と合わせ、奥州仕置の後に会津転封を命じられるのです。
当初は42万石。
加増を経た最終的な石高はなんと91万石で、数字だけ見れば凄まじい大出世です。
しかし……氏郷本人は男泣きに泣いたといいます。
「こんな遠いところに封じられては、上方で何か起きたときすぐに働けない」
近江で生まれ育った氏郷にとって、東北は気候も文化も馴染みのない、異世界も同然の場所です。
たとえ石高が大幅に増えようとも、上方との繋がりが絶たれてしまいかねない場所は、素直に喜べなかったのでしょう。
秀吉は表向き「関東(家康)と東北(政宗など)の押さえに」と言っていながら、氏郷の人望や野心を警戒していた……なんて説もありますね。
もしくは、氏郷の正室の影響を恐れたのかもしれません。
後に蒲生家は、彼女(冬姫)が信長の娘であるというおかげで改易を免れていますから、信長の記憶が色濃い当時、もっと影響力が強かったでしょう。
それが会津ではあまりに遠く、しかし氏郷もゴネ続けることのできない律儀な人。
素直に東北の玄関口へ渡るしかありませんでした。
現代人にはピンと来ないかもしれませんが、会津エリアは、地元の伊達政宗が異常に執着するほど、東北で存在感の大きい場所でした。
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会津に渡って胃痛の連続だったのでは……
覚悟を決めて会津・黒川の地に移った蒲生氏郷。
城の名を蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と改め、七層もの天守を持つ大きな城に改築しました。
現在の会津若松城は五層ですが、あれは江戸時代に改築された姿が元になっているそうで。
この地にいた頃には、茶の湯の師匠である千利休との悲しい別れもありました。
氏郷は後々”利休七哲”に数えられたほどの高弟ですが、師の助命に動くことができず、それを深く後悔していたようです。
その現れでしょうか。利休が切腹した後、氏郷はその義理の息子(後妻の連れ子)である千少庵を引き取ります。
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その時点では”罪人の息子”だった少庵が、会津でどのように暮らしていたのか、細かいことはわかりません。
しかし、彼は若松城の本丸に「麟閣」という名の茶室を作ることを許されていますので、ある程度の自由は与えられていたようですね。
その後、氏郷や家康の取りなしで少庵は罪を許され、京で茶道の表舞台に戻ると、孫の代で「三千家」が創始されていますので、日本文化に与えた影響は計り知れませんね。
氏郷は城以外でも、自領の発展に力を注いでいます。
町の名を黒川から「若松」に改め、自らも信ずるキリスト教への改宗や商業政策を重視し、町を大きくしていきました。
会津若松城だけでなく、会津というと「幕末」のイメージが強いかもしれませんが、地盤を作ったのは蒲生氏郷だといえそうです。
伊達政宗とは、史実においても対立していました。
対立というよりは小学生のケンカみたいなもんですかね。
「政宗の陰謀が氏郷にバレて秀吉に報告される」というパターンが複数回。
そのたびに政宗が、しょーもない言い逃れをするので、氏郷としては相当ストレスが溜まったでしょう。
しかも、結局は秀吉に許されてしまうという……。
とりわけ注目すべき事例が天正十八年(1591年)の葛西・大崎一揆ですね。
その遠因は、秀吉の行った奥州仕置でした。
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