蒲生氏郷

蒲生氏郷/wikipediaより引用

織田家

信長の娘を正室に迎えた蒲生氏郷~織田家の若手エリートはどんな武将?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
蒲生氏郷
をクリックお願いします。

 

鉄砲は「当たらないから大丈夫」

蒲生氏郷は【小牧・長久手の戦い】で狙撃されてしまいました。

氏郷のトレードマークだった鯰尾兜に、弾が3つも当たったとか。

まぁ、狙われるのも仕方ないんですけどね。なんせ、ド派手な兜ですので、遠くからでもとにかく目立つ。

しかも氏郷は、信長と同様、戦場で自ら陣頭に立つことを好んでいたので、余計にターゲットにされやすかった。

部下には「戦になったら、鯰尾の兜の武士を手本として働くように」と言っていたことすらあるほどです。

イケイケ過ぎ……といっても、それは氏郷だけではありませんね。

古今東西、力に自信のある武将ほど、何かしらトレードマークとなる武具を身に着けていました。

ただでさえ高身長なのに、さらに目立つ兜を被っていた前田利家

本多忠勝の“鹿の角”や、伊達成実の“毛虫”もそうですよね。

少し話は違いますが、柴田勝家はとある戦の最中、

「鉄砲に当たるかもしれません!」

と注意されると

「当たらないから平気」

と豪語したというエピソードも。謎の自信ですね。

大谷吉継は朝鮮の役の際、同じく矢弾の飛び交う戦場で

「運命の矢は一本よ」

と言い、涼しい顔をしていた……という逸話があります。

戦場での度胸や運も、武将の実力のうちだ、と心の底から達観していたのかもしれません。

 

妻の影響力も懸念して飛ばされた?

信長時代と同じように、秀吉時代にも変わらぬ活躍をしていた蒲生氏郷。

九州征伐の後に三重へ封じられて松坂城を築きました。

読み方は「まつさか」で濁らないそうです。

石垣に、古墳の石棺のフタ(!)を使ったり、住民を強制的に移動させたり、前の領地の商人を連れてきたり。

なかなか強引なところもあったようですが、立派な城下町を造り、商都としても栄えさせます。

松坂城の月見櫓石垣

おそらく、この時期が彼の最盛期だったでしょう。

小田原征伐】でも自ら武働きをし、

小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか

続きを見る

それ以前からの功績と合わせ、奥州仕置の後に会津転封を命じられるのです。

当初は42万石。

加増を経た最終的な石高はなんと91万石で、数字だけ見れば凄まじい大出世です。

しかし……氏郷本人は男泣きに泣いたといいます。

「こんな遠いところに封じられては、上方で何か起きたときすぐに働けない」

近江で生まれ育った氏郷にとって、東北は気候も文化も馴染みのない、異世界も同然の場所です。

たとえ石高が大幅に増えようとも、上方との繋がりが絶たれてしまいかねない場所は、素直に喜べなかったのでしょう。

秀吉は表向き「関東(家康)と東北(政宗など)の押さえに」と言っていながら、氏郷の人望や野心を警戒していた……なんて説もありますね。

もしくは、氏郷の正室の影響を恐れたのかもしれません。

後に蒲生家は、彼女(冬姫)が信長の娘であるというおかげで改易を免れていますから、信長の記憶が色濃い当時、もっと影響力が強かったでしょう。

それが会津ではあまりに遠く、しかし氏郷もゴネ続けることのできない律儀な人。

素直に東北の玄関口へ渡るしかありませんでした。

現代人にはピンと来ないかもしれませんが、会津エリアは、地元の伊達政宗が異常に執着するほど、東北で存在感の大きい場所でした。

秀吉に逆らってでも領土にしたい! なぜ政宗は会津に執着したのか?

続きを見る

 

会津に渡って胃痛の連続だったのでは……

覚悟を決めて会津・黒川の地に移った蒲生氏郷。

城の名を蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と改め、七層もの天守を持つ大きな城に改築しました。

現在の会津若松城は五層ですが、あれは江戸時代に改築された姿が元になっているそうで。

冬の会津若松城(鶴ヶ城)

この地にいた頃には、茶の湯の師匠である千利休との悲しい別れもありました。

氏郷は後々”利休七哲”に数えられたほどの高弟ですが、師の助命に動くことができず、それを深く後悔していたようです。

その現れでしょうか。利休が切腹した後、氏郷はその義理の息子(後妻の連れ子)である千少庵を引き取ります。

※秀吉が氏郷に預けたとする史料もあります

千利休
千利休はなぜ理不尽な切腹を命じられたのか茶聖と呼ばれた秀吉の懐刀

続きを見る

その時点では”罪人の息子”だった少庵が、会津でどのように暮らしていたのか、細かいことはわかりません。

しかし、彼は若松城の本丸に「麟閣」という名の茶室を作ることを許されていますので、ある程度の自由は与えられていたようですね。

その後、氏郷や家康の取りなしで少庵は罪を許され、京で茶道の表舞台に戻ると、孫の代で「三千家」が創始されていますので、日本文化に与えた影響は計り知れませんね。

氏郷は城以外でも、自領の発展に力を注いでいます。

町の名を黒川から「若松」に改め、自らも信ずるキリスト教への改宗や商業政策を重視し、町を大きくしていきました。

会津若松城だけでなく、会津というと「幕末」のイメージが強いかもしれませんが、地盤を作ったのは蒲生氏郷だといえそうです。

伊達政宗とは、史実においても対立していました。

対立というよりは小学生のケンカみたいなもんですかね。

「政宗の陰謀が氏郷にバレて秀吉に報告される」というパターンが複数回。

そのたびに政宗が、しょーもない言い逃れをするので、氏郷としては相当ストレスが溜まったでしょう。

しかも、結局は秀吉に許されてしまうという……。

とりわけ注目すべき事例が天正十八年(1591年)の葛西・大崎一揆ですね。

その遠因は、秀吉の行った奥州仕置でした。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-織田家

×