蒲生氏郷

蒲生氏郷/wikipediaより引用

織田家

信長の娘を正室に迎えた蒲生氏郷~織田家の若手エリートはどんな武将?

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九戸政実の乱

天正十九年(1591年)のことです。

陸奥の大名・南部氏の内紛によって【九戸政実の乱】が勃発しました。

「くのへまさざねのらん」と読むこの合戦、中心人物の政実は、南部氏の親族かつ家臣でした。

奥州仕置より少し前に、南部氏内では後継者争いが起きており、政実を含む【九戸派】と、南部氏の血を引く者が多数の【南部派】が対立。

【九戸派】
vs
【南部派】

最終的には後者の田子(石川)信直が南部信直として当主の座についたものの、九戸派の不満は収まりませんでした。

そんな中、秀吉から小田原征伐への参戦命令が来ます。

信直は従ったほうが得策と考え、兵を連れて小田原へ向かい、そしてそのまま奥州仕置の諸々にも付き従います。

その留守の間、九戸派は南部派の南盛義を討ち取ってしまいました。信直は直接動くことができず、南部領内では険悪な空気が強まっていきます。

ついに九戸派は正月のあいさつまでも拒否するようになり、自分たちに協力しない他の南部家臣を攻撃し始めました。

九戸派は南部家の中でも手練が揃っており、信直は「自分たちだけで対処し切るのは不可能」と諦めます。

そして秀吉に使者を立て、

「これこれの経緯でどうにもならないので、どうか援軍をお願いします」

と陳情しました。

この時点でも、東北では各所で一揆が起きており、秀吉は大軍を派遣することにより、まとめて解決を図ります。

甥・豊臣秀次を総大将とし、徳川家康前田利家などの大大名、伊達政宗最上義光などの地元大名も動員。

氏郷もこの中に組み込まれました。

総勢10万にもなる大軍だったといいます。

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こういった数字には誇張がつきものですが、参加した大名らの顔ぶれからすると、この場合は事実でもおかしくありません。

九戸政実らは上方軍に夜襲を仕掛けるなどして奮戦しましたが、やがて押されて九戸城(二戸市)にこもります。

そして四方向から攻め立てられ、ついに降参。

当初は「開城すれば助命する」ということになっていたものの、後にその点は反故にされ、九戸派はほぼ処刑されてしまいました。

そこまで苛烈な処置をしたため、後々のことを考え、秀吉から氏郷へ

「九戸の城と町を修理し、南部信直に引き渡すまでお前が現地で指揮をせよ」

という命令が下っています。

氏郷はこの命令にも忠実に従い、無事引き渡しを済ませました。

幸い、九戸派残党もその後大きな動きを見せることはなく、この件は無事に終わりました。

ちなみに、氏郷の娘・武姫が信直の息子・利直に嫁いでいます。

この夫婦や氏郷・信直に関する逸話は特にないようですが、今後見つかれば面白いかもしれませんね。

 

死の間近に残した歌とは?

文禄の役では名護屋城へ参陣。

ここで体調を崩してしまい、文禄二年(1593年)11月に会津へ帰国しています。

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この往路にあたる会津→名護屋の間で、氏郷は歌を二首詠みました。

一つは、那須(那須塩原町)を通ったときのものです。

現在は温泉地として知られる場所ですが、当時は閑散としていたようで、こう詠んでます。

世の中に われは何をか 那須の原 なすわざもなく 年やへぬべき

【意訳】私は世の中に何を成したのだろうか。何も成せずに歳を重ねてしまったのではないだろうか

地名と「成す」という動詞をかけた技工もさることながら、心中のやるせなさをも盛り込んだ切ない歌です。

前述の通り、氏郷は会津の地を富ませ、有事の際の武働きも並々ならぬものだったのですが、本人としては納得できていなかったのでしょう。

もう一つは、故郷である近江・日野に差し掛かったときの歌です。

思ひきや 人のゆくへぞ 定めなき わがふるさとを よそに見んとは

【意訳】人の行く道は思いも寄らないものだ。せっかく故郷に来たというのに、まるで無縁の地のように通り過ぎねばならなくなるなど、考えもしなかった

こちらは氏郷の望郷の念がにじみ出ており、読み手にも寂寥がわき出てきますね……。

おそらく、こういった気持ちを表には出さなかったでしょう。

それから半年もしない文禄三年(1594年)春、養生のために上洛してきました。

会津に着いたのが11月なのか、名護屋を出たのが11月なのかで少し変わるかとは思いますが、移動時間を考えると、たぶん会津にいたのは1ヶ月あるかないかでしょう。雪の時期も挟んでますし。

上洛するより、湯治にでも行ったほうが良かったんじゃ……という気がします。

会津から京都までの間にも、当時から知られていた保養地はいくつかありました。現代でも有名な草津温泉もそのひとつです。

ここは、甲州征伐後に丹羽長秀堀秀政が、信長の許可を得て湯治に行った場所。

氏郷が知っていても良さそうなものです。

湯治で良くなるかどうかはさておき、本人に養生する気があるかどうか、というのは重要でしょう。

上洛して半年後に秀吉や諸大名を招いて宴を開きますが、その頃には誰の目から見ても「黙って首を横に振る」ような状態だったようです。

秀吉も、方々から医師を招いて氏郷を診せるのですが、結局、宴会からおよそ3ヶ月後の文禄四年(1595年)2月7日に亡くなっています。

もしかすると、治らないことをわかっていて、今生の別れのために上洛したのかもしれませんね。

40歳という若さだったこともあり、氏郷毒殺説も話題になることがありますが……。

一応、現代では「直腸がんか肝臓がんが死因だろう」と言われています。

どちらも自覚症状がわかりにくい、あるいはほとんどないことが多いがんです。

”陣中で体調を崩した”という点からすると、このタイミングではっきり自覚できる症状が出るほど悪化していたのでしょうか。

辞世の句は

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風

【意訳】花の季節は限られているのだから、風がなくともいずれ散っていく。なのに、春の山風が気忙しく散らせていくことよ

これまた美しい表現の中に、氏郷の無念さがあふれ出ています。

彼が亡くなった時期は、新暦ですと3月半ば。

花の季節になろうという頃合いに、西行がこんな風に詠んでいます。

願わくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃

この歌、実は先述の千少庵が見舞いに来たときに詠んだものなのだそうです。

少庵はこれを見て驚き、こんな返歌をかえしています。

降ると見ば 積もらぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の枝

意訳するとすれば、こんな感じでしょうか。

【意訳】青柳の枝は、降り来る雪にも負けずしなやかに耐え抜きます。貴方もそのように気を強く持ってください

歌の素晴らしさもさることながら、氏郷と少庵の日頃の仲もうかがえますね。

 

氏郷の人柄が見える3つのエピソード

さて、最後に、私見盛り盛りの仮説を提示してみたいと思います。

氏郷は多くの逸話が残っている武将の一人ですが、彼の場合「部下にいかに気を使っていたか」という類の話が非常に多彩です。

ここから彼の死因に繋がるかもしれないものをピックアップしてみました。

・戦国時代の議会制民主主義?

氏郷は月一で家臣を全員集めて会議をし、年齢や立場にとらわれない自由な発言を許していました。

その後は、自ら風呂の火を沸かして部下に入らせたり、料理を振舞っていたそうです。

伊達政宗や細川藤孝・忠興父子も自ら包丁を振るうのを好んでいました。戦国大名の中でも、文化人という面を強く持つ人々の間では、客人や家臣に料理を振る舞うことも多々あったようです。

料理の話題ででも盛り上がれば、氏郷と政宗も良好な関係が築けたかもしれませんね。政宗の野心は死ぬまで消えなかったので、あくまでプライベートの範囲に留まったでしょうが。

・信じる者は結果出すんやで

筒井順慶のとある旧臣が、蒲生家にやってきた際のことです。

順慶も過去のふるまいから「洞ヶ峠」などと呼ばれていましたが、それは家臣にも及び、臆病者と笑われていたとか。

その者に、氏郷はいきなり部隊をひとつ任せました。

当然、他の氏郷の家臣たちは反対します。

「臆病者の隊長になど、兵がついていくわけがない! うまく指揮を執れず、こちらが不利になってしまうでしょう」

というわけです。

しかし氏郷は取り合わず、戦を始めました。

すると意外なことに、その人物は大将首を二つも取る大手柄を上げたのです。

「どんな人間でも、責任を与えれば必ず役に立つ」と、氏郷は信じていたのだとか。

現代の心理学でも、似たような話がありますね。

・おサボりは許しまへんで!

小田原征伐の際、氏郷は自ら自陣の見回りに行きました。

そしてとある部下が指示した位置から離れていたので注意したのですが、帰りがけに再び見たところ、また持ち場を離れていたので手打ちにしたそうです。

”仏の顔も三度まで”といいますが、氏郷は仏様じゃなかったみたいですね。まあキリシタンだし。

この部下には先述の「鯰尾兜」を持たせていた=命に関わるものを預けていたのにサボったので斬った、という説もあります。

どの逸話も彼の人柄が窺える話ですよね。

しかし、これだけ細々したことを気にかけているとなると、何だか気の休まらない生活をしてそうな感じがしませんか?

働いている時間が長く、さらに上方との往来で長旅も珍しくない……となると、非常に大きなストレスが心身にのしかかります。

もしかすると、氏郷はストレスや過労で命を縮めたのかもしれません。

大腸がんも肝臓がんも、ストレスの影響が大きいといわれていますし、30~40代での発病も少数ながらあり得ます。他の病気だったとしても、ストレスで悪化したというケースは珍しくありません。

その場合、戦国時代の過労死……ともいえそうです。

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長月 七紀・記

【参考】
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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