蒲生氏郷

蒲生氏郷/wikipediaより引用

織田家

蒲生氏郷の生涯|信長に期待され娘を与えられたエリート武将の事績に注目

2025/02/06

文禄四年(1595年)2月7日は、戦国武将の蒲生氏郷が亡くなった日です。

織田信長に大層気に入られ、烏帽子親(後見人)になってもらったばかりか、信長の娘を正室に迎えた織田家中の若手エリート。

ゆえに熱狂的ファンも多いですよね。

本稿ではその足跡を追ってみましょう。

蒲生氏郷/wikipediaより引用

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

蒲生氏郷は信長お気に入りのエリート

蒲生氏郷は弘治二年(1556年)、近江の大名・六角家の重臣である蒲生家に生まれました。

蒲生家は、平将門を討ったことで有名な藤原秀郷の血を引くと称する武家の一つ。

近江の蒲生郡に根付いたため、この地名を名乗ったとされます。

血縁の真偽はさておき、イメージとしては”地元の名士”といった感じでしょうか。

幼名は鶴千代でした。

おそらく「鶴のように長く生きてほしい」という願いからでしょう。

織田信長が京都に上洛するための戦を続ける中で、織田家への人質に出されたことが氏郷の運命を決めました。

信長は氏郷の目つきを気に入り、「娘婿にする」と約束したのです。

織田信長/wikipediaより引用

ちなみにこの姫、従来は「冬姫」と呼ばれていましたが、現在は「史料の読み違えからきたもので、本名ではない」という説が濃厚です。

この時代、女性の本名は公の場に出てこないものですしね。

もう少しリアルに考えるとすると、おそらく信長はただ目つきを気に入ったのではなく、

「嫡子・信忠の代に織田家を支えうる優秀な姻戚衆」

としてガッチリ固めておくため、氏郷へ娘を嫁がせたのでしょう。

織田信忠が弘治三年(1557年)生まれですので、氏郷とはちょうど同世代です。

織田信忠/wikipediaより引用

上洛戦当時の信長は30代半ばですから、”人生五十年”が寿命とされた当時であれば、すでに折り返しを過ぎていて、次世代を考える必要性もあったのでしょう。

そしてその判断は間違っていませんでした。

将来を約束された氏郷は、岐阜に移って儒教や仏教、武芸など様々なことを学びます。

成長ぶりは外から見ても非常に好ましいものだったようで、元服の際には信長自ら烏帽子親を務めるほど。

さらに信長の官職「弾正忠」から「忠」の字を与えて通称を「忠三郎」と名乗らせているところからも、娘婿への期待の高さがうかがえます。

そして蒲生氏郷は13歳で初陣を果たし、武将としての門出を終え、信長は約束通り自身の娘を娶らせました。

夫婦仲は良好だったようですが、氏郷が忙しすぎたためか、子供は三人と少なめです。

氏郷は後にキリシタンになったこともあり、側室はいませんでした。

 


長島の一揆討伐では信長に叱られたが

蒲生氏郷は、父・蒲生賢秀(かたひで)と共に柴田勝家の配下となりました。

といってもガチガチの主従関係ではなく、大きな作戦に参加する時は勝家の指揮を受ける、といった形です。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

これは、元からある程度の領地を持っていた武将を取り込んだ際、信長がたびたび用いた手法でした。

当時の武士の自尊心は、現代の我々には想像がつかないほど高いものです。

自尊心が傷付けられれば、上役や主君への反感に繋がり、いずれ謀反の引き金になりかねません。

平時は自領である程度自由にさせておき、有事の際だけ勝家のような家老の下に突くというスタイルを貫くことで、不満が起きにくいようにしていたのでしょう。

信長から見ても、元から地域性や民心を掴んでいる者が統治にあたってくれる方が効率的ですしね。

こうして、父のもとで統治について学びながら、各地を転戦していた氏郷。

浅井・朝倉氏との戦いや【長島一向一揆】や【長篠の戦い】など、信長の主要な合戦にはだいたい参加しています。

一覧にすると、以下の通りです。

天正元年(1573年)近江鯰江合戦、越前朝倉攻め、近江小谷城攻め

天正二年(1574年)長島一向一揆

天正三年(1575年)長篠の戦い

天正六年(1578年)摂津伊丹城攻め(荒木村重の謀反)

天正九年(1581年)伊賀攻め

天正十年(1582年)甲州征伐

信長の生涯を追いかけていく上で話題になる戦には、ほとんど参加していて、天正二年(1574年)の長島一向一揆では、自ら一揆衆の首をとったこともありました。

三重県桑名市長島町にある願証寺「長島一向一揆の殉教之碑」/photo by 立花左近 wikipediaより引用

しかし、このとき「大将は自ら武働きをするものではない」と、信長にちょっぴり叱られた……なんて逸話があります。

相手が相手なだけに、大事な娘婿を討ち死にさせまいという義父心が働いたのでしょうか。

出典が『名将言行録』(幕末~明治成立)ですので、事実とは確定できませんが。

おそらくは”信長が氏郷のことを日頃から気にかけており、ときには注意することもあった”という感じの出来事があって、それが後世に脚色されてこのような逸話ができたのでは?

逸話というのは「事実だったかどうか」もさることながら、「当時あるいは後世の人々が、その人物をどのように評価していたか」を推測することも大切でしょう。

天正九年あたりから、父・賢秀とは別に蒲生氏郷が行動することも少しずつ増えていきました。

20代半ばになっていたので、一人前と認められたのでしょう。

この間の天正四年には、信長が安土へ本拠を移していますが、蒲生家のように元から近江にいた武将たちは、安土には住んでいません。

彼らは普段は近江国内の自領にいて、必要に応じて出兵したり、行事に参加したり。

それまでとあまり変わらない生活をしていたようです。

また、天正三年には柴田勝家が北陸攻略の責任者となったため、蒲生家をはじめとした近江衆は勝家とは切り離され、別行動をとるようになります。

逆説的ですが、ここからも「勝家と近江衆は主従関係ではない」ということがわかりますね。

氏郷が参加した行事としては、天正六年の相撲会や、天正九年の左義長などがあります。相撲会では取り組みにも参加していました。

このときは信長が「阿閉貞大と永田正貞が剛力だと聞いたから、取り組みを見たい」と言って他の武将たちにも相撲を取らせた、という経緯だったこともあり、氏郷の取り組み相手や勝敗については記録がありません。

他には堀秀政や万見重元など、織田家の比較的若い世代がこの相撲に参加していましたので、彼らと氏郷が相撲をとったかもしれませんね。

 

本能寺の変

天正10年(1582年)6月2日――日本に激震が走ります。

本能寺の変です。

ご存知、明智光秀が強行した事件で、氏郷の超強力な後ろ盾だった信長は死亡。

明智光秀/wikipediaより引用

氏郷は、父の賢秀と連絡をとり、安土城にいた信長の妻子たちの安全を確保し、蒲生家の居城である日野城へ無事到着しています。

この保護された人の中に、信長の正妻にして斎藤道三の娘である濃姫がいたとか、いなかったとか。

おそらく日頃から蒲生家が奥にも信用されていた証ゆえの俗説でしょう。

もちろん、氏郷も賢秀も、明智光秀には従いませんでした。

そりゃあ、これだけ信長に目をかけられていれば、裏切り者に味方する気なんてなりませんよね。

光秀は別働隊に、この近江攻略をさせる予定だったようです。

しかし、本人が【山崎の戦い】で敗れたため、蒲生家と戦うことはありませんでした。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)

問題はその後です。

清州会議を経て、織田家の中心にグイグイとのし上がってきた豊臣秀吉

その秀吉のライバルとなったのが柴田勝家。

蒲生氏郷と勝家との関係は浅くなく、そちらへ流れるかと思いきや、父から家督を譲られ蒲生家当主となった氏郷は、秀吉派になるのです。

と、その直後の【賤ヶ岳の戦い】では羽柴秀長(豊臣秀長)に配属され、勝家に勝利します。

続けて織田信雄と徳川家康を相手に戦った【小牧・長久手の戦い】でも、氏郷は秀吉サイドについていました。

このときの戦いで興味深いエピソードが起きています。

 

鉄砲は「当たらないから大丈夫」

蒲生氏郷は【小牧・長久手の戦い】で狙撃されてしまいました。

氏郷のトレードマークだった鯰尾兜に、弾が3つも当たったとか。

まぁ、狙われるのも仕方ないんですけどね。なんせ、ド派手な兜ですので、遠くからでもとにかく目立つ。

しかも氏郷は、信長と同様、戦場で自ら陣頭に立つことを好んでいたので、余計にターゲットにされやすかった。

部下には「戦になったら、鯰尾の兜の武士を手本として働くように」と言っていたことすらあるほどです。

イケイケ過ぎ……といっても、それは氏郷だけではありませんね。

古今東西、力に自信のある武将ほど、何かしらトレードマークとなる武具を身に着けていました。

ただでさえ高身長なのに、さらに目立つ兜を被っていた前田利家。

本多忠勝の“鹿の角”や、伊達成実の“毛虫”もそうですよね。

少し話は違いますが、柴田勝家はとある戦の最中、

「鉄砲に当たるかもしれません!」

と注意されると

「当たらないから平気」

と豪語したというエピソードも。謎の自信ですね。

大谷吉継は朝鮮の役の際、同じく矢弾の飛び交う戦場で

「運命の矢は一本よ」

と言い、涼しい顔をしていた……という逸話があります。

戦場での度胸や運も、武将の実力のうちだ、と心の底から達観していたのかもしれません。

 


妻の影響力も懸念して飛ばされた?

信長時代と同じように、秀吉時代にも変わらぬ活躍をしていた蒲生氏郷。

九州征伐の後に三重へ封じられて松坂城を築きました。

読み方は「まつさか」で濁らないそうです。

石垣に、古墳の石棺のフタ(!)を使ったり、住民を強制的に移動させたり、前の領地の商人を連れてきたり。

なかなか強引なところもあったようですが、立派な城下町を造り、商都としても栄えさせます。

松坂城の月見櫓石垣

おそらく、この時期が彼の最盛期だったでしょう。

【小田原征伐】でも自ら武働きをし、それ以前からの功績と合わせ、奥州仕置の後に会津転封を命じられるのです。

当初は42万石。

加増を経た最終的な石高はなんと91万石で、数字だけ見れば凄まじい大出世です。

しかし……氏郷本人は男泣きに泣いたといいます。

「こんな遠いところに封じられては、上方で何か起きたときすぐに働けない」

近江で生まれ育った氏郷にとって、東北は気候も文化も馴染みのない、異世界も同然の場所です。

たとえ石高が大幅に増えようとも、上方との繋がりが絶たれてしまいかねない場所は、素直に喜べなかったのでしょう。

秀吉は表向き「関東(家康)と東北(政宗など)の押さえに」と言っていながら、氏郷の人望や野心を警戒していた……なんて説もありますね。

もしくは、氏郷の正室の影響を恐れたのかもしれません。

後に蒲生家は、彼女(冬姫)が信長の娘であるというおかげで改易を免れていますから、信長の記憶が色濃い当時、もっと影響力が強かったでしょう。

それが会津ではあまりに遠く、しかし氏郷もゴネ続けることのできない律儀な人。

素直に東北の玄関口へ渡るしかありませんでした。

現代人にはピンと来ないかもしれませんが、会津エリアは、地元の伊達政宗が異常に執着するほど、東北で存在感の大きい場所でした。

 

会津に渡って胃痛の連続だったのでは……

覚悟を決めて会津・黒川の地に移った蒲生氏郷。

城の名を蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と改め、七層もの天守を持つ大きな城に改築しました。

現在の会津若松城は五層ですが、あれは江戸時代に改築された姿が元になっているそうで。

冬の会津若松城(鶴ヶ城)

この地にいた頃には、茶の湯の師匠である千利休との悲しい別れもありました。

氏郷は後々”利休七哲”に数えられたほどの高弟ですが、師の助命に動くことができず、それを深く後悔していたようです。

その現れでしょうか。利休が切腹した後、氏郷はその義理の息子(後妻の連れ子)である千少庵を引き取ります。

※秀吉が氏郷に預けたとする史料もあります

その時点では”罪人の息子”だった少庵が、会津でどのように暮らしていたのか、細かいことはわかりません。

しかし、彼は若松城の本丸に「麟閣」という名の茶室を作ることを許されていますので、ある程度の自由は与えられていたようですね。

その後、氏郷や家康の取りなしで少庵は罪を許され、京で茶道の表舞台に戻ると、孫の代で「三千家」が創始されていますので、日本文化に与えた影響は計り知れませんね。

氏郷は城以外でも、自領の発展に力を注いでいます。

町の名を黒川から「若松」に改め、自らも信ずるキリスト教への改宗や商業政策を重視し、町を大きくしていきました。

会津若松城だけでなく、会津というと「幕末」のイメージが強いかもしれませんが、地盤を作ったのは蒲生氏郷だといえそうです。

伊達政宗とは、史実においても対立していました。

対立というよりは小学生のケンカみたいなもんですかね。

「政宗の陰謀が氏郷にバレて秀吉に報告される」というパターンが複数回。

そのたびに政宗が、しょーもない言い逃れをするので、氏郷としては相当ストレスが溜まったでしょう。

しかも、結局は秀吉に許されてしまうという……。

とりわけ注目すべき事例が天正十八年(1591年)の葛西・大崎一揆ですね。

その遠因は、秀吉の行った奥州仕置でした。

 


葛西・大崎一揆

葛西と大崎は、それぞれ陸奥の大名家でした。

両家とも、奥州仕置までは伊達家に従属。そのため伊達家の意向を確認できないうちは、勝手に兵を出すことはできません。

そう、それが例え関白の名のもとに行われた小田原征伐であっても。

伊達家自体、小田原へ出向くかどうかはギリギリ……といいますか、タイムオーバーまで意見が割れていました。

となると葛西家も大崎家も動けません。

政宗は、ほぼ丸腰・少人数で小田原へ出向き、なんとか改易を免れましたが、葛西家・大崎家は秀吉に

「関白の命令を無視したけしからん! 改易!!」

という無情な判断を下されてしまったのです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

政宗としても、自分の家がかろうじて助かったというところですから、他所の家をかばうことはできません。

そんなわけで葛西家と大崎家は改易され、秀吉によって新しい領主が派遣されてきます。

旧葛西領には木村吉清、旧大崎領にはその息子・清久。

彼らは秀吉にとっては忠実な家臣でしたが、葛西・大崎両家の旧臣や、領民たちにとっては赤の他人です。

定石として、まずは人心掌握の懐柔策を実施しなければいけない場面で、木村親子は秀吉に忠実であろうとするあまり、検地や刀狩りを厳しく行ってしまったのです。

また、木村親子は元々身分が高かったわけではないので、その家臣たちは俄仕込みばかり。

昨日まで一般人だったのに、いきなり権力を与えられ、思い上がって領民に乱暴する者が多発しました。

まさに悪手に継ぐ悪手。

葛西・大崎旧臣も領民も、ついに耐えきれずに大反発だぁ!

……と、こうして一揆に発展してしまったのです。

佐沼城に立てこもった木村親子は、周囲の状況を考えると陥落は時間の問題。

そもそも彼らに大軍の指揮経験などなく、団結した一揆勢に叶うはずがありません。

「状況を打破せよ」

と、そこで命じられたのが、氏郷と政宗でした。

かたや信長にも認められたエリート、かたや地元を熟知した生え抜き。

この二人でなくても衝突しそうな構図ですね。

伊達政宗/wikipediaより引用

しかも道中、氏郷に「この一揆は裏で政宗が手を引いていますよ」という報告が入ったものですから、さぁ大変。

密書は出るわ、伊達軍は空砲を撃っているという証言が出るわで、このままいけば氏郷の身まで危なくなりそうな空気です。

結果、氏郷は秀吉に連絡を入れつつ、最悪の事態を避けるため、伊達軍と離れて行動しました。

 

「伊達殿からも人質を出していただきたい」

疑いを晴らすため――政宗は木村父子を即座に救出しました。

しかし、この程度で氏郷は納得しません。

「異心のない証として、伊達殿からも人質を出していただきたい」

と伝えると、政宗もこれに応じ、伊達成実と国分盛重を人質に出します。

政宗から見て成実は従弟で盛重は叔父。

伊達成実/wikipediaより引用

当然、家中での序列も高い二人ですから、氏郷もこれで一応は納得しました。

その後政宗の取り調べ等々が始まるのですが、氏郷の話題からは離れてしまうので、ここで一旦区切りましょう。

真面目な見方をすると、政宗が無事に済んだのは

「長期的に見た場合、伊達家ほどの大勢力を改易してしまうと、デメリットのほうが大きいから」

だと思われます。

奥州仕置で減封されたとはいえ、伊達家は鎌倉時代から続く名家です。

代々仕えている家臣は多く、さらに政宗の父・輝宗の代には積極的な人材登用を行い、比較的新参の家臣も能力があれば重んじられていました。

加えて、政宗の曽祖父・稙宗と祖父・晴宗が超がつくほどの子沢山だったため、親戚も奥州の各地に点在しています。

そんな大きな家を、一気に潰してしまったらどうなるか?

主人の政宗や息子たちは切腹させれば済むとしても、家臣や親族はそのまま浪人になってしまいます。しかも数百人単位で。

そうした連中を野に放って恨まれるより、伊達家の枠に収めてしまった方がまとめる効果は高いですよね。

しかし氏郷と政宗の縁はまだこれで終わりではありませんでした。

 


九戸政実の乱

天正十九年(1591年)のことです。

陸奥の大名・南部氏の内紛によって【九戸政実の乱】が勃発しました。

「くのへまさざねのらん」と読むこの合戦、中心人物の政実は、南部氏の親族かつ家臣でした。

奥州仕置より少し前に、南部氏内では後継者争いが起きており、政実を含む【九戸派】と、南部氏の血を引く者が多数の【南部派】が対立。

【九戸派】
vs
【南部派】

最終的には後者の田子(石川)信直が南部信直として当主の座についたものの、九戸派の不満は収まりませんでした。

南部信直/wikipediaより引用

そんな中、秀吉から小田原征伐への参戦命令が来ます。

信直は従ったほうが得策と考え、兵を連れて小田原へ向かい、そしてそのまま奥州仕置の諸々にも付き従います。

その留守の間、九戸派は南部派の南盛義を討ち取ってしまいました。信直は直接動くことができず、南部領内では険悪な空気が強まっていきます。

ついに九戸派は正月のあいさつまでも拒否するようになり、自分たちに協力しない他の南部家臣を攻撃し始めました。

九戸派は南部家の中でも手練が揃っており、信直は「自分たちだけで対処し切るのは不可能」と諦めます。

そして秀吉に使者を立て、

「これこれの経緯でどうにもならないので、どうか援軍をお願いします」

と陳情しました。

この時点でも、東北では各所で一揆が起きており、秀吉は大軍を派遣することにより、まとめて解決を図ります。

甥・豊臣秀次を総大将とし、徳川家康や前田利家などの大大名、伊達政宗や最上義光などの地元大名も動員。

氏郷もこの中に組み込まれました。

総勢10万にもなる大軍だったといいます。

こういった数字には誇張がつきものですが、参加した大名らの顔ぶれからすると、この場合は事実でもおかしくありません。

九戸政実らは上方軍に夜襲を仕掛けるなどして奮戦しましたが、やがて押されて九戸城(二戸市)にこもります。

九戸城の堀/wikipediaより引用

そして四方向から攻め立てられ、ついに降参。

当初は「開城すれば助命する」ということになっていたものの、後にその点は反故にされ、九戸派はほぼ処刑されてしまいました。

そこまで苛烈な処置をしたため、後々のことを考え、秀吉から氏郷へ

「九戸の城と町を修理し、南部信直に引き渡すまでお前が現地で指揮をせよ」

という命令が下っています。

氏郷はこの命令にも忠実に従い、無事引き渡しを済ませました。

幸い、九戸派残党もその後大きな動きを見せることはなく、この件は無事に終わりました。

ちなみに、氏郷の娘・武姫が信直の息子・利直に嫁いでいます。

この夫婦や氏郷・信直に関する逸話は特にないようですが、今後見つかれば面白いかもしれませんね。

 

死の間近に残した歌とは?

文禄の役では名護屋城へ参陣しました。

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸

しかし、ここで体調を崩してしまい、文禄二年(1593年)11月に会津へ帰国しています。

この往路にあたる会津→名護屋の間で、氏郷は歌を二首詠みました。

一つは、那須(那須塩原町)を通ったときのものです。

現在は温泉地として知られる場所ですが、当時は閑散としていたようで、こう詠んでます。

世の中に われは何をか 那須の原 なすわざもなく 年やへぬべき

【意訳】私は世の中に何を成したのだろうか。何も成せずに歳を重ねてしまったのではないだろうか

地名と「成す」という動詞をかけた技工もさることながら、心中のやるせなさをも盛り込んだ切ない歌です。

前述の通り、氏郷は会津の地を富ませ、有事の際の武働きも並々ならぬものだったのですが、本人としては納得できていなかったのでしょう。

もう一つは、故郷である近江・日野に差し掛かったときの歌です。

思ひきや 人のゆくへぞ 定めなき わがふるさとを よそに見んとは

【意訳】人の行く道は思いも寄らないものだ。せっかく故郷に来たというのに、まるで無縁の地のように通り過ぎねばならなくなるなど、考えもしなかった

こちらは氏郷の望郷の念がにじみ出ており、読み手にも寂寥がわき出てきますね……。

おそらく、こういった気持ちを表には出さなかったでしょう。

それから半年もしない文禄三年(1594年)春、養生のために上洛してきました。

会津に着いたのが11月なのか、名護屋を出たのが11月なのかで少し変わるかとは思いますが、移動時間を考えると、たぶん会津にいたのは1ヶ月あるかないかでしょう。雪の時期も挟んでますし。

上洛するより、湯治にでも行ったほうが良かったんじゃ……という気がします。

会津から京都までの間にも、当時から知られていた保養地はいくつかありました。現代でも有名な草津温泉もそのひとつです。

ここは、甲州征伐後に丹羽長秀や堀秀政が、信長の許可を得て湯治に行った場所。

氏郷が知っていても良さそうなものです。

湯治で良くなるかどうかはさておき、本人に養生する気があるかどうか、というのは重要でしょう。

上洛して半年後に秀吉や諸大名を招いて宴を開きますが、その頃には誰の目から見ても「黙って首を横に振る」ような状態だったようです。

秀吉も、方々から医師を招いて氏郷を診せるのですが、結局、宴会からおよそ3ヶ月後の文禄四年(1595年)2月7日に亡くなってしまいました。

もしかすると、治らないことをわかっていて、今生の別れのために上洛したのかもしれませんね。

40歳という若さだったこともあり、氏郷毒殺説も話題になることがありますが……。

一応、現代では「直腸がんか肝臓がんが死因だろう」と言われています。

どちらも自覚症状がわかりにくい、あるいはほとんどないことが多いがんです。

”陣中で体調を崩した”という点からすると、このタイミングではっきり自覚できる症状が出るほど悪化していたのでしょうか。

辞世の句は

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風

【意訳】花の季節は限られているのだから、風がなくともいずれ散っていく。なのに、春の山風が気忙しく散らせていくことよ

これまた美しい表現の中に、氏郷の無念さがあふれ出ています。

彼が亡くなった時期は、新暦ですと3月半ば。

花の季節になろうという頃合いに、西行がこんな風に詠んでいます。

願わくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃

この歌、実は先述の千少庵が見舞いに来たときに詠んだものなのだそうです。

少庵はこれを見て驚き、こんな返歌をかえしています。

降ると見ば 積もらぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の枝

意訳するとすれば、こんな感じでしょうか。

【意訳】青柳の枝は、降り来る雪にも負けずしなやかに耐え抜きます。貴方もそのように気を強く持ってください

歌の素晴らしさもさることながら、氏郷と少庵の日頃の仲もうかがえますね。

 

氏郷の人柄が見える3つのエピソード

さて、最後に、私見盛り盛りの仮説を提示してみたいと思います。

氏郷は多くの逸話が残っている武将の一人ですが、彼の場合「部下にいかに気を使っていたか」という類の話が非常に多彩です。

ここから彼の死因に繋がるかもしれないものをピックアップしてみました。

・戦国時代の議会制民主主義?

氏郷は月一で家臣を全員集めて会議をし、年齢や立場にとらわれない自由な発言を許していました。

その後は、自ら風呂の火を沸かして部下に入らせたり、料理を振舞っていたそうです。

伊達政宗や細川藤孝・忠興父子も自ら包丁を振るうのを好んでいました。

細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興(右)/wikipediaより引用

戦国大名の中でも、文化人という面を強く持つ人々の間では、客人や家臣に料理を振る舞うことも多々あったようです。

料理の話題ででも盛り上がれば、氏郷と政宗も良好な関係が築けたかもしれませんね。政宗の野心は死ぬまで消えなかったので、あくまでプライベートの範囲に留まったでしょうが。

・信じる者は結果出すんやで

筒井順慶のとある旧臣が、蒲生家にやってきた際のことです。

順慶も過去のふるまいから「洞ヶ峠」などと呼ばれていましたが、それは家臣にも及び、臆病者と笑われていたとか。

その者に、氏郷はいきなり部隊をひとつ任せました。

当然、他の氏郷の家臣たちは反対します。

「臆病者の隊長になど、兵がついていくわけがない! うまく指揮を執れず、こちらが不利になってしまうでしょう」

というわけです。

しかし氏郷は取り合わず、戦を始めました。

すると意外なことに、その人物は大将首を二つも取る大手柄を上げたのです。

「どんな人間でも、責任を与えれば必ず役に立つ」と、氏郷は信じていたのだとか。

現代の心理学でも、似たような話がありますね。

・おサボりは許しまへんで!

小田原征伐の際、氏郷は自ら自陣の見回りに行きました。

そしてとある部下が指示した位置から離れていたので注意したのですが、帰りがけに再び見たところ、また持ち場を離れていたので手打ちにしたそうです。

”仏の顔も三度まで”といいますが、氏郷は仏様じゃなかったみたいですね。まあキリシタンだし。

この部下には先述の「鯰尾兜」を持たせていた=命に関わるものを預けていたのにサボったので斬った、という説もあります。

どの逸話も彼の人柄が窺える話ですよね。

しかし、これだけ細々したことを気にかけているとなると、何だか気の休まらない生活をしてそうな感じがしませんか?

働いている時間が長く、さらに上方との往来で長旅も珍しくない……となると、非常に大きなストレスが心身にのしかかります。

もしかすると、氏郷はストレスや過労で命を縮めたのかもしれません。

大腸がんも肝臓がんも、ストレスの影響が大きいといわれていますし、30~40代での発病も少数ながらあり得ます。他の病気だったとしても、ストレスで悪化したというケースは珍しくありません。

その場合、戦国時代の過労死……ともいえそうです。

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【参考】
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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