赤松広秀

戦国諸家

竹田城最後の城主・赤松広秀が家康に切腹を命じられた結末が酷い

関ヶ原の裏切り者といえば小早川秀秋とその周囲にいた以下の四名。

・朽木元綱
・赤座直保
・小川祐忠
・脇坂安治

このうち小早川秀秋と脇坂安治は、最初から東軍だったとされ、合戦後も生き残っております。

他に、関ヶ原本戦以外でも、西軍から東軍に寝返った人がおりますが、その人は天寿を全うすることができませんでした。

慶長五年(1600年)10月28日、「天空の城」として知られる竹田城最後の城主・赤松広秀切腹しました。

この赤松広秀は、名字が「斎村」になったりするだけでなく、名前も「広通・広秀・広英・政広」と何度も変わっています。

そのためか、調べようとしてもなかなか見つけにくいこともあるという意味でも悲劇のお人です。

 

赤松広秀 亀井を頼って鳥取城攻め

ではなぜ、赤松広秀は西軍から東軍へ寝返ったのに、切腹する羽目になったのか?

というと、裏切ったタイミングとやり方が徳川家康の怒りを買ってしまったからです。

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広秀は当初、東軍の細川藤孝(細川幽斎細川忠興のお父さん)の田辺城を攻めていたのですが、攻め手の中には幽斎の弟子とも言える武将が多かったため、兵力的には有利でもなかなか押し切れずにいました。

そこへ後陽成天皇が間に入り、講和の勅命を出します。

藤孝は【古今伝授】という古今和歌集の秘伝を受け継いでいて、彼が死んでしまうと後世に残らない危険があったからです。

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そうこうしているうちに本戦の関ヶ原も決着したため、西軍は田辺城を完全に落とすことなく退きました。

が、ここで黙っていては勝者・家康に厳罰を食らうのは目に見えています。

良くて「改易」。

悪くて「改易+切腹」。

「生き残ったのに、ンな目に遭ってたまるか!」と考えた広秀は、手土産を用意しようと思い立ちます。

そこへ声をかけてきたのが、旧知の仲だった亀井茲矩(これのり)でした。

茲矩は東軍にいたので「今からでも遅くないから、西軍の城を攻め取ろうぜ? オレが口利いてやるからさ!」というわけです。

この話に乗った広秀は、茲矩率いる鳥取城攻めの軍に加わりました。

 

終戦しているのに貴重な城下を燃やしすぎて

しかし、茲矩を信用しすぎたことが広秀一生の誤算となります。

鳥取城はかつて秀吉が数ヶ月に及ぶ兵糧攻めの末、城主の切腹と引き換えにようやく降伏させた城です。

一段も二段も劣る彼らが、正攻法で落とせる城ではありません。

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業を煮やした茲矩は、最後の手段に出ます。

広秀に「なかなか落ちないから、ちょっと火つけてきて」と命じ、城下をあらかた焼いてしまったのです。

火攻めは攻城戦の常套手段とはいえ、あまりにも派手に焼きすぎたこと、既に関ヶ原で大勢が決していた=徳川家への媚が見え見えだったため、家康の怒りを爆発させてしまいました。

案の定「オレに媚を売りたいからって城丸焼きにするとか頭おかしくね? 二人とも切腹な」というにべもない返事が茲矩と広秀の元に届きます。

そして広秀は自分の領地に戻ることも許されず、鳥取城から程近い真教寺というお寺で切腹させられてしまったのでした。

一方の茲矩はというと?

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