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【中川清秀】
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再び織田家のもとへ
天正六年(1578年)11月、中川清秀のいた茨木城が織田勢に包囲され、妹婿の古田重然(織部)が現れました。
漫画『へうげもの』でお馴染み、千利休の弟子で文化芸術に長けた戦国武将ですね。

古田織部こと古田重然/wikipediaより引用
その古田重然に諭された清秀は、再び織田家に降伏したのです。
『よくぞ信長が許したよな……』
“魔王”のような信長をご想像される方にとってこの一件はかなり珍しいことのように思われるようですが、信長はむしろ裏切者に寛大で、『信長公記』には、以下のような褒美が与えられたと記されています。
ちなみに清秀は前日にも黄金30枚を下賜されているので、至れり尽くせりというか……さすがに「あげすぎ貰いすぎ!」とツッコミたくなるレベルですね。
なお、この後、村重は逃げて生き延びます。
しかし、それによって村重の妻子や重臣の家族はかなり凄惨な処刑に遭っています。
もしも清秀と村重の会話が事実であれば、清秀も何かしら責任を感じても良さそうなものですが……戦国武将だけにその辺は「村重も降伏すればよかったのに」という感じでしょうかね。
再び織田家にくだった清秀は、丹羽長秀や池田恒興の配下として戦ったようです。

池田恒興/wikipediaより引用
ちなみに同じ池田氏である清秀の元主君・池田勝正と池田恒興の間に血縁関係はないと思われます。
清秀の娘・糸姫が池田恒興の息子である池田輝政に嫁ぎますが、織田家内での結束を強めるためでしょう。
それより面白いのが
「豊臣秀吉と中川清秀が義兄弟である」
という話です。
一体どういうことか?
秀吉と義兄弟?
天正八年(1580年)に中川清秀と豊臣秀吉が兄弟の契りを結んだ――その根拠となる誓紙が伝わっています。
公私ともに良好な関係だったようで、なぜそんな親しいのか?という経緯は判然としていません。

絵・富永商太
『秀吉に体良く使われただけだろ?』
そんな風にも考えられそうですが、上から目線で失礼な態度をされると、清秀のほうがブチギレており、どちらが兄で弟ということは決めていなかったようにも思えます。
年齢からいうと、天文五年または六年(1537年か1538年)生まれの秀吉が兄となりますね。
以降は、信長の家臣として働き、天正十年(1582年)3月の甲州征伐にも出陣。
約2ヶ月後の5月には、高松城を攻略中の秀吉から信長へ次のような返信が届けられそうです。
「毛利輝元らが援軍にやってきているので、上様御自らの出馬をお願いしたいです!」
秀吉から依頼が届くと、やはり明智光秀や細川忠興らは共に清秀も中国への先陣に加わるよう命じられています。
そしてまた、京都で大事件が起きる――そう、本能寺の変です。
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