こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【安藤守就】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
氏家卜全が討死! 守就も傷を負う
浅井朝倉連合軍と対峙した頃の織田家は、同時に石山本願寺をはじめとした一向宗も敵に回しておりました。
その中で守就が参加したことが記されているのは元亀二年(1571年)の伊勢長島攻めがあります。
いわゆる【長島一向一揆】ですね。
信長が「長島一向一揆」で敵対した宗徒2万人を虐殺~なぜ徹底的に潰したのか
続きを見る
最初に攻撃を仕掛けてきたのは長島一向一揆サイド。
元亀元年(1570年)に小木江城(愛知県愛西市)へ攻めこみ、信長の弟である織田信興(のぶおき)が敗死させられました。
リベンジすべく織田軍が伊勢へ出向いたのが元亀二年(1571年)のことです。
が、このときも織田軍は中洲に散った敵の拠点を攻めきれず、撤退するときに安藤守就と共に西美濃三人衆に数えられた氏家卜全が討ち死にしてしまいます。
守就は多くの戦において西美濃三人衆と共に行動し、このときも傷を負っており、心身ともに堪えたことでしょう。
なお、卜全が亡くなった後は、息子の氏家直通(直昌)が立ち位置を引き継ぎ、安藤守就らと共に動くようになりました。
佐久間や柴田と並ぶ重臣の扱いだった
その後も安藤守就は織田家の合戦に出陣し続けました。
どうやら林秀貞や佐久間信盛、あるいは柴田勝家、滝川一益などの重臣たちとほぼ肩を並べるほど重用されていたようで、以下、少々駆け足で説明させていただきます。
信長と義昭が直接対決した槇島城の戦い! 敗北するも意外と緻密だった将軍の戦略
続きを見る
なぜ朝倉義景は二度も信長を包囲しながら逆に滅ぼされたのか?41年の生涯まとめ
続きを見る
◆天正二年(1574年)石山本願寺攻め
→小競り合いの一つ(ただし、以降も何度も続く)
浅井朝倉の脅威はなくなったが……本願寺が再び蜂起!信長公記109話
続きを見る
◆天正二年(1574年)長島一向一揆戦
→2万人とも言われる信徒を焼き殺し、同地方での戦いに終止符を打つ
信長を長年苦しめた伊勢長島の一揆勢 ついに最終決戦へ! 信長公記116話
続きを見る
安藤守就は、名前が知られている割に戦場での華々しい活躍は報じられておりません。
地味に、ここぞというポイントで着実に働くタイプでしょうか。
冒頭でも触れたように守就の生年はハッキリしていませんが、おそらくこの頃には高齢になっていたため当然といえば当然ともいえます。
突如「武田氏に内通した疑いがある」
天正三年(1575年)に信長が織田信忠へ家督を譲った際、美濃衆の多くが信忠につけられました。
信長が信忠を「美濃・尾張の司令官」とみなしていたことによると思われます。
ただし、守就ら三人衆は信長直下のまま。
守就については、この後、柴田勝家や羽柴秀吉などの援軍として各地を転戦しており、信長としては「どこか一つの地域に置いておくより、遊軍に近い扱いをしたかった」のではないでしょうか。
柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか? 織田家を支えた宿老62年の生涯まとめ
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
というのも、天正年間に入ると、織田家全体では世代交代を考える時期に入っておりました。
信忠をはじめとした信長の息子たちや、重臣の息子らが10代後半~20代に成長。
とはいえまだ若い彼らが何か失態を犯した時、守就のような老練な武将が後詰や援軍にすぐ動いてフォローできる体制を作ろうとしたのかもしれません。
また、信忠は普段岐阜に、信長は安土にいたので、信忠の下に三人衆をつけてしまうと、信長から直接命令しにくくなります。
こうした状況から、信長直属の家臣にしておいたような気もします。
いずれにせよ、信長からの信頼は厚かったと思われるのですが……天正八年(1580年)8月、突如、驚きの事態へ追い込まれます。
「野心を抱いている」
「武田氏に内通した疑いがある」
として、守就と息子・安藤定治は織田家から追放されてしまうのです……。
※続きは【次のページへ】をclick!