真田昌幸

真田昌幸/wikipediaより引用

真田家

三成に表裏比興と呼ばれた真田昌幸~65年の生涯で何を成し遂げたのか

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8月、夏の盛りになると、沼田城・上田城に徳川勢が攻めてきます。

徳川の支援で作った城で、徳川を迎え撃つという、なかなか強烈な展開。かくして起こった第一次上田合戦で、昌幸は徳川の大軍を相手に勝利をおさめたのでした。

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真田昌幸時代の上田城古図(上田市デジタルアーカイブポータルサイトより)

そして9月には、北条氏まで攻め込んで来られて、これも打ち破り、大名相手に自領を防衛する離れ業を見せるのでした。

こうした勢いのまま、昌幸は徳川についた国衆の袮津領も服属させ、小県を統一。

唯一従わないのが室賀正武でした。この正武を謀殺し、決着をつけたのでした。

築城、外交、合戦、策略そして謀殺。

戦国武士のスキルをフル活用する、それが昌幸の生きる道でした。

その道徳的な観点を、後世の人間が判断しても意味がありません。

謀殺もまた、昌幸の生きた道なのです。

 

秀吉との交渉開始

昌幸が上杉方に従属したのは重要な点です。

織田方に属する大名には、外交ルートがあります。

合戦ではなく外交ルートで自領や立場を確保しようと、大名が頭を悩ませていた頃です。

上杉家は、秀吉配下でフル活動をする石田三成と、かなり懇意にしておりました。

三成と上杉家の直江兼続は、かなり近い距離感であったのです。

三成となんとかコンタクトを取りたい。

そう大名が悩む中で、上杉家はかなり有利な状況でした。

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関ヶ原の戦い(1600年)で東軍につくか、西軍につくか。

その根を辿ってゆくと「本能寺の変」あとの豊臣政権スタートから秘められているのです。

真田の場合は、上杉・石田ルートを確保できました。

真田一族が国衆から大名に上り詰めるルートには、さまざまな要因、偶然、幸運、必然……多くの要素が積み重なっています。

昌幸にとっては、徳川・北条の敵対者である秀吉の命令に従うことは、ワンポイントリード感覚があったかもしれません。

ただし、ここでパワーバランスがまたも変わります。

織田信雄と手を組み、秀吉に抵抗してきた家康。これ以上の抵抗はもはや得策ではない――そう判断し、秀吉との和睦へ向かいます。

その結実が、天正14年(1586年)春にありました。

家康と、秀吉の妹・旭姫との婚礼です。

年齢的にも、旭姫を離縁したものであったことも含めて、相当強引なものではありました。

そこまでしてでも、家康を取り込みたいと秀吉は考えていたわけで、秀吉は昌幸に対し、家康との停戦令を出すのです。

かくして【真田vs徳川】は停止しますが、【真田vs北条】は依然として敵対しておりました。

北条氏邦は、彼らにとって不法占拠状態の真田を追い払うため、吾妻・沼田領に侵攻をしています。

沼田・吾妻領は、当時最もホットな場所になりつつありました。

ここで昌幸は、胃痛のして来そうな行動を取ります。

豊臣秀吉からの出仕要請を拒んだのです。

 

昌幸は「表裏比興の者」

旧武田領の国衆たちは、秀吉従属の後、家康への「与力」とされていました。

家康の武田領への強い思いを知った秀吉のサービスでしょうか。

そうなってくると、またも争いの種が蒔かれて来ます。

家康:真田への不快感

秀吉:アンチ真田・家康のことを考えねばならない

昌幸:北条が自領を狙っているのに、出仕してたまるかい! しかも、家康の与力? ケッ

こんな状況では、家康と秀吉に対し喧嘩を売るような態度と取られかねません。

そしてここで、昌幸を形容するあの言葉が出てくるのです。

「表裏比興の者」

(本音と建て前の違いがおかしい)

この言葉は、家康による真田討伐報告で確認できます。

石田三成・増田長盛が、上杉景勝にこう言ったわけです。

「あの真田昌幸は、本音と建て前の使い分けがクレイジーな奴なので、徳川家康が成敗することになりました。あなたは真田を支援してはいけません」

そんな状況になれば、顔面蒼白になって備えてもよさそうなところです。

それでも昌幸は、アグレッシブに吾妻・沼田領攻略を狙っています。まったくどんだけタフなのよ~!

一方で、これまで続けてきた外交解決の努力も見られます。

上杉景勝は軍事ではなく、交渉を豊臣政権に持ちかけておりました。

「昌幸は上杉配下の者です。徳川・北条間で沼田領問題があるのはその通りですが、ここは武力ではなく交渉で解決したほうがよろしいのではないでしょうか。北条和睦のステップにもなります」

秀吉が、昌幸に相当怒っていたことは確かです。

・人質を出さない(上杉にはいる)

・出仕しない

・表裏がある

一言でいえば信用できない。

しかし、秀吉の政権もまだ基盤がそこまで強固でないため、真田の背後にいる景勝の機嫌を損ねることもしたくはありません。妥協せざるを得ないのです。

ただ、これについて妥協をしているのは、何も秀吉だけではありません。

昌幸も出仕をしなければならない。

しかも、家康の与力にならなければならない。

さんざん家康と因縁がある昌幸です。

家康の与力になるなんて、とても喜べる状況ではありませんでした。

 

秀吉に出仕する

天正15年(1587年)3月、タイムオーバーです。

昌幸はまず駿府の家康、そして秀吉に出仕することとなりました。

このとき、懸案の人質も解決しております。二男・真田信繁です。

かつて昌幸が、人質として武田信玄の全盛期に魅了されたように、信繁もまたのぼりゆく豊臣政権の目撃者となるのです。

一方で嫡男・真田信之(本稿ではこの名で統一します)は、その婚姻によって徳川方との結びつきを深める役割を果たしています。

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彼の最初の妻・清音院殿は、昌幸の兄・真田信綱の遺児にあたります。

イトコ同士での婚礼であり、嫡流の血を残したい配慮によるものでした。

それを差し置いて迎えた二人目の妻が小松殿(小松姫)。

本多忠勝の女(むすめ)です。家康の養女説もありますが、確定しているとは言えません。

家康譜代家臣の血を引くわけです。

家康と昌幸の間を結びつけたい、そんな政治的意向がそこにあることは確かです。

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この婚礼の時期は諸説ありますが、天正15年前後とされています。

いずれにせよ昌幸二人の子は、この頃から豊臣派(信繁)と徳川派(信之)に分かれる運命にあったのです。

真田家の立場も曖昧なもので、

・豊臣大名
・かつ徳川与力

という、二重の属性がありました。

この婚礼のあたりから、吾妻・沼田領に関しては、兄・信之が統治するようになったと思われる文書が見られます。

小県・埴下郡は昌幸が統治をしておりました。父子による担当分割が見て取れます。

この春から夏にかけて、秀吉による九州平定も終わりました。

するとどうなるか?

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