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【真田信繁】
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天下分け目と「犬伏」の別れ
秀吉の死から僅か2年を経た、慶長5年(1600年)。
徳川家康が動きました。上杉景勝に謀叛の疑いありとして、征伐を決断したのです。
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真田昌幸・信幸・信繁は、家康の元に馳せ参じるべく、宇都宮を出立。途中下野・犬伏に宿泊します。
そこへ石田三成の使者がやってきて、「内府ちがひの条々(家康のルール違反まとめ状)」と、三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)の連書状を届けたとされます。
いわゆる「犬伏の別れ」ですが、後世の脚色もみられる挿話。
史実において如何なる経過を辿ったのか不明ながら、結果はわかっています。
【石田方】
父・真田昌幸
弟・信繁
【徳川方】
兄・真田信幸
信幸は「犬伏」以前に「女中改め」と称して、正室・小松姫を大坂から上田へ引き揚げさせておりました。
最初から徳川につく方針だった可能性があり、「犬伏」はいわば最終意思確認の場だったかもしれません。
昌幸・信繁父子は吾妻街道を進み、上田城に入ります。
一方で信幸は家康に忠誠を近い、わずか4歳の二男を家康のもとへ人質として差し出したとされています。
昌幸の野望、そして第二次上田合戦
真田昌幸は、石田三成とこまめに書状のやりとりをしました。
そこで手にした情報では、圧倒的な石田方=西軍有利であったはずです。味方にしておきたい者には、自軍有利という情報を三成が送るのは当たり前でしょう。
そうしたバイアスを差し引いても、どの勢力もこの動乱が長引くと信じて疑わなかったのがこの時の状況です。結果を知っていると、昌幸と信繁が極めて楽観的であったと思いたくなりますが、そうではありません。
上田に向かう徳川勢を率いていたのは、家康の嫡子・徳川秀忠でした。
この秀忠が「上田城で思わぬ足止めをくらってしまい、そのために関ヶ原本戦に間に合わなかった」というのがよく知られた説です。
しかし近年では「上田攻めはむしろ予定通りの行動であり、秀忠が関ヶ原本戦に遅参したのは家康が計画を変更し早めたため」と、されています。
さてこの秀忠率いる軍勢ですが、質量とともに徳川方の主力ともいえる戦力でした。
家康としてはこの戦いで秀忠の武勇を印象付けたいという思いもあったのでしょう。
熟練の参謀的存在・本多正信を付け、万事取り仕切るようにさせたのはその証拠かと思われます。
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そしてこの軍勢の中には、信幸もいました。彼は父と弟と対決することとなったのです。
以下、合戦の時系列での経過です。
軍記の記載もありますのでご留意ください。
茶:真田
紺:徳川
◆9月3日
徳川勢が上田城に到着。
この日、昌幸は徳川に味方した信幸経由で、剃髪後に和睦をしたいと秀忠に伝えました。
籠城側の兵力は3千です。その一方で、上田の領民には「敵の首一つにつき知行百石を与える」と呼びかけ、兵を集めておりました。
高まる真田勢の士気。
◆4日
昌幸は、態度を豹変させ和睦を反故にします。
「あいつは絶対にゆるさん!」
昌幸の言動があまりに無礼、挑発的であったのでしょう。秀忠は激怒しました。
◆5日
秀忠は信幸に砥石城攻略を命じます。
信幸が城に向かうと、城を守っていた信繁とその手勢は脱出していました。信幸は犠牲を出さずに砥石城を奪います。
この日の夜、信繁は敵に夜襲をかけようとしますが、相手の警戒が厳しく断念。
◆6日
秀忠は染屋原に本陣を置きます。そして城内から敵を誘い出すため、苅田を実施。しかし苅田中に徴発され、徳川勢は城へ接近してしまいます。
城に接近した敵に対し、真田方は鉄砲や矢を放ち、激しく攻撃。甚大な被害を与えたのでした。
真田父子はさらなる挑発を行い、神川を渡ります。追撃してきた敵に対して、昌幸は伏兵に命じて川のせき止めを切り落とさせ、水を流しました。流れに脚を取られたところを虚空蔵山麓にいた伏兵に襲わせ、さらに追い打ちをかけます。
徳川勢は討たれる者、溺死者を多く出し、敗退するのでした。
秀忠が攻めあぐねているうちに、予定を変更した家康から至急美濃に転進するよう命令が下され、徳川方は撤退します。
こうして第二次上田合戦は終わりました。
勝利といってもあくまで「徳川方の作戦変更による撤退」というカタチです。
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もしも家康が作戦を変更せず、秀忠がそのまま上田城攻めを続けていたら結果は異なっていたかも知れません。
そうはいえども、兵力差がありながらも徳川方が陥落させられなかったこと、緒戦で真田方が勝利をおさめたことは事実。
小さな城に手間取ったことは秀忠の若さ故の経験不足、そして本多正信の不手際であると当時から認識されていました。
第二次上田合戦は軍記にあるような痛快な大勝利でないにはせよ、歴史に影響をおよぼした合戦であったことは確かです。
九度山蟄居の日々
9月15日、真田昌幸・信繁父子が望みを託した石田三成ら西軍は、徳川家康の東軍に大敗を喫しました。
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実は真田方はその三日後も、上田城を監視する徳川方に夜襲をかけています。
しかし、もはや決着はついていました。
信幸らの説得を受け、昌幸・信繁父子は降伏します。
家康の命によって上田城は破却。長年にわたった徳川と真田の対立は、家康の完全勝利という決するのです。
上田領には、真田信之(信幸から改名)が入り、11万5千石の大名となりました。
家康は真田父子を死罪にしようと考えました。
が、信之は舅にあたる本多忠勝、本多正信らに父と弟の助命を嘆願します。
一説には、娘婿の信之を気に入っていた本多忠勝が「殿との一戦も辞さぬ!」という覚悟で迫り、さしもの家康もしぶしぶ折れたとされています。
「ああ、なんと悔しいことか! 家康めをこのような屈辱的な目にあわせてやろうと思っていたものを!」
昌幸は悔し涙を流しつつ、信之に別れを告げ、高野山へと向かいます。
慶長5年も末のことでした。
昌幸はこのとき54歳、信繁は30代前半でした。
当時の寿命を考えても、信繁は気力や体力をもてあます日々であったことでしょう。
なにせ生活費は信之からの仕送り頼みで困窮の極み。
生活費を稼ぐために、真田父子が「真田紐」を作り売り歩いたという逸話もありますが、伝承レベルであり史実かどうかは不明です。
信之も決して余裕があるとは言えない台所事情で、父と弟の生活を支え続けます。
生活費だけではなく、焼酎等の物資も送り続けたのでした。
蟄居生活は退屈ではあったものの、趣味のための時間を作ることはできたようです。
信繁は連歌に初挑戦し「なかなか上達しないがいつか公表したい」といった書状も残しています。
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更には九度山でも子が何人か生まれ、兄・信之よりも子だくさんの父となりました。
しかし、生まれきっての武士の彼らにその生活は厳しくそして辛いものでした。
はじめこそ楽観的で、赦免に望みをつないでいた父子ですが、歳月が流れ十年も経つと、悲観的にならざるを得ません。
真田昌幸は気鬱でふさぎこみがちになり、食事もろくに喉を通らなくなり、慶長16年(1611年)、無念の死を迎えます。享年65。
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信繁も髭に白髪が混じり、歯は抜け落ち、病気がちになっていました。
30代前半という人生の盛りから十年以上蟄居し続け、心身ともに衰えるしかない環境です。
もしこのあと何も起こらなければ、真田信繁という男は父と同じく失意の死を迎え、歴史に輝かしい名を残すこともなかったことでしょう。
真田の家名も今ほど大きなものではなかったに違いありません。
大坂からの招待
父を失い、家族らと蟄居を続ける信繁。
連歌や焼酎でストレスを発散する日々は、大坂からの招待によって突如として終わりを告げます。
天下は動いておりました。
徳川家康は江戸に幕府を開き、諸大名を従え、新体制を着実に構築。
しかしこの新体制の中に、大坂の豊臣秀頼を含めることは未だできていなかったのです。
家康は歳をとり、秀頼は青年へと成長してゆきます。
そんな折、慶長19年(1614年)に起きた【方広寺鐘銘事件】は、タイムリミット間際の家康にとって絶好の好機でした。
それまではむしろ秀頼に寛容であった家康が、態度を変えます。
方広寺鐘銘事件は、家康が仕掛けたというよりも、大坂方が最悪のタイミングで重大なミスを犯したのです。
それでもまだ大坂方には生存への道がありました。
家康としては秀頼の首は必要ではありません。彼らを江戸幕府の秩序に組み込めばよいのです。
両手両足を縛ってしまえば、いくら豊臣に恩顧を持つ他の大名たちとてそうは簡単に動けません。
かくして秀頼に対して突きつけた条件が以下のものでした。
大坂方は激怒し、この要求をはねつけました。
さらには徳川方との交渉を担当していた片桐且元を、謀叛を起こしたとして討ち取ろうとしたのです。且元は大坂城を退去するしかありません。
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要求をつっぱね、しかも交渉窓口担当者を追放――これはもう宣戦布告に等しい行動です。
なぜ、そんな無謀な真似をしたのか。
大坂方は過去の栄華・権力を忘れられず、現在の情勢をまるで読み取れなかったのでしょう。
もはや開戦は待ったなし!
大坂方は各地の牢人に、味方するよう誘いの書状を送付。関ヶ原以来、主家を失っていた牢人たちは風前の灯だった野心に火をつけられ、セカンドチャンスを求めて日本各地からやってきました。
そこで信繁のもとにも大坂からの呼びかけが届いたのです。
信繁は一計を案じ、村人たちを酒宴に招きます。大いに飲んで騒いで、客人たちは皆泥酔。
彼らが寝込んだところを見計らって脱出すると、信繁は抜き身の刀槍、火縄をつけた鉄砲を持ち、九度山を立ち去ったのでした。
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