真田幸村(真田信繁)

真田信繁(真田幸村)/wikipediaより引用

真田家

真田信繁(幸村)は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?最新研究からの考察

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大坂冬の陣

大坂城に入った真田幸村

※以降はドラマ『真田丸』に合わせて「幸村」と表記しますが、これまで通り史実を追って参ります

そこには錚々たるメンツが集っておりました。

黒田家を出奔していた「後藤又兵衛」。

尾張生まれで父と共に秀吉に仕えていた「毛利勝永」。

四国の頭領、長宗我部元親の息子「長宗我部盛親」。

宇喜多直家宇喜多秀家に仕えていた「明石全登」。

戦力総数は不明ではあるものの、およそ10万人は集まっていたもよう。

彼らの多くが関が原を機に失職していた牢人たちであります。

大坂方は敵の来襲に備え、惣構えや砦の建設に着手し、防備を固めます。

幸村は、城の惣構南東の玉造口に砦を築きました。

これこそがドラマのタイトルにも用いられた「真田丸」です。

いったいどんな防御施設だったのか?

これについては今なお謎が多いながら、奈良大学の千田嘉博教授によって提唱された説が有力視されております。

「真田丸」は、大坂城に付随した単なる砦ではなく、堀から少し離れて建築された「(小さな)城」と見るものです。

城に頼るのではなく、独立して堅強な防御力を誇った「真田丸」。

ついに幸村は城主になった――。

少しセンチメンタルかもしれませんが、そう称して問題ないでしょう。

一方、攻め手の徳川方も、武器弾薬兵糧を十全に用意し、満を持して大坂城を目指しました。

大坂城内で軍議が開かれると、幸村は籠城ではなく出撃策を唱えます。

敵の足並みが揃わないうちに積極的に打って攪乱しよう。そんなスケールの大きな策です。

しかし大野治長らの反論にあい、却下されてしまいます。

ただし、この出撃策が史実であるかどうかは断定できません。

たとえ幸村自身がそう考えていたとしても、防備に忙殺されていた大坂方にそんな余裕があったかどうか。

これまた判然としません。

籠城策を取った大坂方において、幸村は「真田丸」に立てこもり、迎え撃ちます。

対するは、井伊直政の子・直孝。

前田利家の子・前田利常。

利常はかなり濃い戦国キャラでありましたが、軍として見た場合、両者とも経験がありません。大坂の陣に参戦した若い武将たちの大半は、これが初陣でした。

攻め手は城攻めの経験不足の者たちばかりで「仕寄せ」(簡易バリケード)の作り方すらわかりません。若い侍たちがその作成に四苦八苦していると、大坂方が鉄砲を射かけ、どうにも仕事が進まない。

東軍は、量は最高でも、質はお粗末なものでした。

「仕寄せ」を作れないだけではなく、軍としての機能すら失われているような現象も見受けられました。

・味方崩れ

パニック状態になって戦線が崩壊、敗走してしまう現象。

旗指物による判別がうまくいっていない証拠です。

・味方討

敵と誤認して味方を攻撃してしまう。

伊達政宗軍は神保相茂軍を味方討で壊滅に追い込み、笑いものになりました。

指揮命令系統はたやすく崩れ、戦線はしばしば深刻な崩壊を起こします。

天下統一の過程で戦が減り、関ヶ原から15年もブランクがあるのですから、当然の帰結とも言えるでしょう。

12月4日、前田勢は真田勢が陣取り、鉄砲を射かけて来た篠山を占拠し、その先にあった「真田丸」へと接近します。飛んで火に入る夏の虫、格好の餌食でした。

「真田丸」の空堀に突入した前田勢は、激しい射撃によりたちまち命を落としてゆきます。

井伊勢も援護しようとしますが、これまた激しい射撃により為す術なく呆然とするのみ。ようやく援軍としてなだれこむと、混戦をかえって悪化させるだけになり、犠牲を増やすことになりました。

掘を登っても柵が作られ、身動きすらできないまま、次々に討ち取られてゆきます。

「真田丸」は、兵を飲み込む蟻地獄でした。

 


束の間の和睦、最期の挨拶

「真田丸」での大敗を聞いた家康は衝撃を受けました。

敗戦の報が諸国に広がるようなことがあれば、天下がゆらぎかねません。

そこで一計を案じ、ある男を幸村の陣へ送り込みます。

真田信尹(のぶただ)――昌幸の弟であり信繁の叔父でした。

信尹は十万石という破格の条件で寝返りを打診しますが、幸村は跳ね付けます。

そこで本多正純は条件をさらにつり上げ、信濃一国を提示。

この非現実的な条件は幸村を喜ばせるどころか怒らせ、彼は二度と信尹に会おうともしませんでした。

しかし、です。

幸村と信尹のこうしたやりとりが行われているころ、大坂方では和睦の機運が高まるのでした。

真田丸での奮戦により、東軍は攻めあぐねているものの、戦力差は大きく到底勝ち目はありません。

奮戦を知って西軍に味方する大名が現れるか?

そんな徳川の懸念、豊臣の願望が叶う気配もありません。

その上、間近に迫ってくる本格的な冬の気配。もはやこれ以上の戦闘続行は不可能でした。

和睦の条件として、大坂城の堀は埋め立てられ、真田丸も破却されます。

当然ながら、大坂城の防御力は大幅に低下。

これは家康の策略であり、無断で埋め立てたという説がかつて有力でしたが、現在では「大坂方も同意の上で埋めた」とされるています。

「城の防御力が低下して困る」という考えは、再戦することがわかっている後世の人間のものです。

この時点で大坂方が和睦を履行するつもりならば、掘の埋め立ては妥当な要求とみなしたでしょう。

あるいは掘の埋め立ては、徳川方が面子を保つための条件であったとも周囲には伝わっていました。

あれだけの軍勢で包囲しながら、淀殿と秀頼母子を城の外までひきずり出すことはできなかったのです。

せめて掘だけでも埋め立てねば、格好が付かない、というわけですね。

和睦成立後、幸村は、甥にあたる真田信吉・信政兄弟(真田信之の子)の陣を訪れました。

幼いころ別れたきりであった甥は、たくましい若武者に成長していたことでしょう。

幸村は甥たちに語りました。

「関ヶ原で敗れた際に、兄上のおかげで助命されたというのに、このようなことになってしまいました。兄上はさぞや腹を立てておいででしょう。どうか二人から兄上にとりなしていただければと思います」

真田兄弟はこのあと、内通の疑いを避けるため、叔父との再会を幕府に報告。幸村は旧知の人々に出会い、覚悟を語り残しています。

また、姉の夫・小山田茂誠に書状を送りました。

その心情は複雑で、様々な気持ちが入り混じったものでした。

「この和睦も一時のもの、私たち父子は、一両年のうちには討ち死にすることになるでしょう。私にとっては一軍の大将となり、討ち死にすることは本望。されど倅の大助はまことに不憫です。15年という人生を牢人として過ごし、やっと世に出たと思ったら討ち死にするさだめとは……」

このまま虚しく朽ちるかと思われた人生で、華々しく戦う舞台を得た喜び、高揚感。

兄のおかげで助命されながら、それに背いて親族に迷惑をかけてしまう申し訳なさ。

まだ幼い我が子・大助の命を奪うことになってしまった苦しみ。

残してゆく妻子の身を案じ、その幸せを祈る気持ち。

これまでの人生を振り返りつつ、残り少ない日々をどう生き、どう散るか。

死を前にした幸村は、苛烈な戦いぶりとは異なる、繊細で人間味あふれる心情を残していたのでした。

そして哀しき大坂夏の陣へ……。

 


大坂夏の陣

掘を埋められた大坂城は、無力な巨大建築物と化したわけではありません。

信繁はまもなく再戦するだろうと予感していましたが、それは当たります。

城に立てこもる牢人たちがいる限り、再戦は避けられません。

大坂方が集めた牢人たちは、ただ腕っ節が強い者たちではありません。

徳川という新秩序の中、居場所を失いドロップアウトした者たちです。和睦が成立したからといって、彼らには行く場所はありません。

いったん大坂方に味方した彼らが武器を置いたところで、どうしようもないのです。大坂城を離れたところで、彼らを仕官させる大名家はありませんでした。

秀頼は、とりあえず大坂城に蓄えられた莫大な金銀を配り、牢人をなだめることしかできませんでした。

しかし、こんなものは焼け石に水に過ぎず、大坂城内は、意見が割れていました。

徳川との和睦を遵守したい豊臣秀頼・大野治長らに対して、治長の弟・治房は真っ向対立します。

治房は牢人たちの動きを支持しました。

牢人たちは掘を掘り返し、武器弾薬兵糧を買い付け、不穏な動きを見せます。

何万人もの牢人が、武装して城にいるわけです。不穏な動きは、当然江戸に伝わりました。

秀頼らは、和睦条件の完全履行をあきらめたわけではありませんでした。

城を出て新たな国に移れば命は助かるのです。

しかし、牢人にとってそれは破滅を意味するもの。彼らを養えるだけの国を、徳川が気前よく秀頼にくれてやるはずがないのです。

「召し放たれて野垂れ死ぬくらいならば、大坂城を枕に討ち死にしてやる!」

牢人たちにひきずられるようにして、秀頼らもまた次なる開戦へと突き進んでいきます。

家康にとっても「反幕府武装勢力」の牙城と化した大坂城を、放置するわけにはいきません。

和睦と統率がとれない大坂方は家康に見限られ、4月、ついにタイムリミットを迎えたのでした。

4月13日、大坂方は作戦会議を開きます。

信繁は防御力を失った城から出撃し、近江国瀬田で敵を止める作戦を提案します。

しかしこれはかなりリスクが大きい作戦でもあり、反対意見に呑み込まれてしまいます。

後藤又兵衛は、妥協案として天王寺近辺での迎撃策を出します。

大坂方は迎撃と同時に、周辺国で一揆を煽動して攪乱、地侍たちに対して味方につくよう誘いをかけました。

しかしこの策は不発に終わります。

4月29日の樫井の戦いでは塙団右衛門ら有力武将、多くの兵を失いました。

5月5日、道明寺の戦いでは、後藤基次が奮戦するものの、敵との戦力差を埋めることができず、伊達政宗軍によって討ち死にを遂げます。

後詰めに駆けつけた明石全登も大軍を支えきれずに撤退。傷を負いました。

幸村も後詰めとしてこの戦いに参戦し、伊達政宗軍と激戦を繰り広げます。

真田の軍勢は片倉重綱(小十郎景綱の子)に率いられた敵に猛攻を仕掛け、数での劣勢をものともせず押し返します。

伊達勢は武器弾薬が底をつき、敵の撃退を諦めるしかありません。

しかし両軍とも損害は大きく、真田勢もまた疲弊していました。

真田大助も脚を負傷していました。

5月6日の八尾・若江の戦いでは、木村重成らが戦死。

大坂方の戦力は削がれ、限界が近づいていました。

 

茶臼山に咲いた満開の赤備え

5月7日。

茶臼山に布陣した真田隊は、その赤備えがまるで満開の躑躅の花のようでした。

鹿角の兜をかぶり、河原毛の愛馬にまたがった大将の幸村は、その中でもひときわ目立った存在。

今日こそが決戦の日になると考えていたのでしょうか。

あるいは目前に広がる敵勢を見て、もはやこれまでと覚悟を決めたのでしょうか。

幸村は大助を呼び出し、告げました。

「お前は脚を負傷している。活躍は見込めまい。秀頼公のお側に参り、最期まで付きそうのだ」

大助は父の命に抗い、父子ともに死ぬまで戦いたいと願いました。

父子の言い争いはしばらく続き、幸村が大助の耳元で何事かささやくと、やっと馬に乗ります。

しかしそれでもなかなか側を離れようとはしません。

ここで別れたら、二度と会うことはないと互いにわかっていたのでしょうか。

大助は父の方を振り向きながら、名残惜しそうに立ち去ります。

幸村は大野治長に、秀頼自らの出馬を請いました。

豊臣の威光を示す千成瓢箪が戦場で輝けば、どれほど士気が高まることでしょう。

城からは、使者を通して、秀頼の出陣を合図に合戦を始めるとの返事だけがありました。

茶臼山にいる敵の様子をうかがう幸村。

午後になると、松平忠直の軍勢が前を通りかかりました。

統国寺の庭の裏から見える茶臼山(photo by 北村美桂@歴史おじ散歩)

松平勢は真田勢を狙って来たわけではなく、見通しの悪い道を通っているうちに偶発的に出くわしたのです。

両者、鉄砲による小競り合いから、本格的な戦いに発展します。

そして混乱する戦場で、浅野長晟が離反したという虚報が流れ、東軍は混乱に陥り、もろくも崩壊するのでした。

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