約400年前の今頃といえば、大坂冬の陣真っ最中です。
以下の記事にありますように真田丸の戦い(12月4日)が終わって徳川方が「ぐぬぬ」な気分だった頃でもあり、他の大坂方もちゃんと奮闘していました。
元大名や浪人ばかりの彼ら――ということは皆、領地や仕官先を得るために来ているわけで、そりゃあヤル気があるのも当然ですよね。
慶長十九年(1614年)12月16日に、夜襲を成功させた塙団右衛門(塙直之)もその一人です。
初めて見た方は、読み方がよくわかりませんよね。
読み方は「ばん・だんえもん(ばん・なおゆき)」です。
一つの名前で三回も「ん」があるって結構珍しい?
ともかくその生涯について見てみましょう。
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加藤家に仕えていた塙団右衛門
彼は元の身分がそう高くなく、尾張の葉栗出身とも言われますが(あるいは遠江とも)、若い頃の記録がはっきり残っていません。
そのため生年も不祥。
一説には真田幸村と同じ永禄十年(1567年)の生まれとも言われています。
戦国ファンにとっては当たり年と言いましょうか。ホントこの年は濃ゆい人ばっかり生まれてます。
◆永禄10年(1567年)生まれの戦国武将
真田幸村
伊達政宗
立花宗茂
有馬晴信
※ちなみに永禄11年(1568年)にも
黒田長政
豊臣秀次
塙団右衛門の足跡がはっきりしてくるのは、賤ヶ岳の七本槍の一人である加藤嘉明に仕えてからのことです。
いつ家臣となったのか。
ここでも詳細は不明ながら、もともとは織田信長に仕え、後に加藤家に召し抱えられました。
得意の鉄砲を活かして鉄砲大将にのぼりつめ、知行は千石。
小田原征伐の後から朝鮮の役までに活躍し、渡海後も武功を挙げたといわれています。
少人数での攻め方が得意だったようで、たった八人で敵の船を三艘も奪うという離れ業をやってのけたとか。
勝成や又兵衛と同じく「再雇用禁止令」を出され
しかし、頭が柔らかすぎたのか。
関ヶ原の戦いで嘉明の命令を無視し、単独で槍を片手に敵陣へ突進、主君のお咎めを受けてしまいます。
逆ギレした団右衛門は、売り言葉に買い言葉といった様子で加藤家を出て行ってしまいました。
当然のことながら嘉明も面白くなく、各大名に対して「団右衛門が来ても雇うなよ!」という連絡をして再仕官を妨害します。
これを【奉公構(ほうこうがまい)】と言います。
いかにも心が狭いように見えますが、無礼な振る舞い等をして問題あるとみなされた家臣に対する主君の権利として認められていました。江戸時代には法律ではっきり定められています。
戦国時代ですと、他には水野勝成(家康の従兄弟)や後藤基次(後藤又兵衛)などが有名ですね。
しかし、元の主人よりも次の主人の身分が高いと、これを無視して召抱えることもままあったようです。
他ならぬ団右衛門も、小早川秀秋や松平忠吉(家康の四男)などには仕える事ができました。
それが二人とも早く亡くなってしまい、次に福島正則のもとでお世話になっていると、いよいよ加藤嘉明が直に抗議したため、やめざるを得なくなってしまいます。
ここまでくると団右衛門も「もう働くの無理じゃね?(´・ω・`)」と考え始め、一度は京都の妙心寺で出家したこともありました。
「鉄牛」と号して托鉢に回ると、京都の住民たちが喜んで寄付したと言います。
戦国武将としての人気が広まっていたんですね。しかし……。
少ないほうが目立てそうと豊臣家選ぶ
1614年、冬。
徳川家と豊臣家の間で戦になりそうだ――そんな話を聞きつけた晚。
団右衛門は「それならば!」と参戦を決意します。
ここで面白いのが、豊臣家についた理由でしょう。
どちらに大義があるかどうかといった道義的な話ではなく、「大坂方のほうが味方が少ないから、功が目立つし褒美も弾んでもらえるだろう。もしかしたら大名にもなれるかも」という完全に実利的なものでした。
上記の通り彼は豊臣(方)にも徳川にも仕えたことがありますので、他にもっともらしい理由があってもよさそうなものなんですけどね。
この辺はいかにも戦国の武士らしいといえます。
ともかく大坂城に入った団右衛門は、やる気は充分でもやはり身分が低いため、重臣大野治長の弟・大野治房の隊に組み入れられます。
当初は一兵士として大人しくしていました。
しかし、10日を過ぎて徳川方がトンネルを掘ったり大砲をぶっ放しはじめると、当然のことながら和議の話が出てきます。
「やべえこのままだと俺が活躍する前に戦が終わる!」
焦った彼は、きちんと許可を取った上で夜襲の計画を立て、実行へ移します。
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